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撮影unknown
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この大会では前年度全日本メンクラスの勝者、藤田昌弘が地元からただ1人メインラウンドに進出し意地を見せてくれた。February12,20082024武藤恒志
このシーズンからJPSAは新しいジャッジシステムを採用することとなり、QFからはマンオンマンとなりASOルールを採用。しかしそこまでの4人ヒートではNSAルール適用と統一感に欠け選手からの不満も多かった、これも過渡期の出来事、特にブイを使っての優先権が始まったのはこの大会が始めてであった。またシステム変更ということもあり、なんとヘッドジャッジは新理事長川井幹雄自らがあたることとなった。February12,20082024武藤恒志
ファイナルの接戦を5-0のパーフェクトスコアで勝利したのは久々の勝利となった関野聡であった。表彰式でのプレゼンターはTSA会長だったEVINの日比野健一、お若いです。コールするのはJPSA理事長川井幹雄。February12,20082024武藤恒志
1986年4月26日・27日の二日間に渡りロングビーチで第二回BalihighCupが開催された。当時東海地区で開催される唯一のプロコンテストということで観客は5000名を越える大きな大会となった。残念ながらまたしても波には恵まれなかったが新たな組織となるJPSA初大会で役員・選手共に燃え上り熱戦が繰り広げられた。2連覇を狙う久我孝男の前に立ちふさがったのは伊勢の福田義昭、セミファイナルでは4-1で久我を抑えてファイナルに進出し、関野聡との一騎打ちとなった。写真は左から関野聡・福田義昭・久我孝
ファイナルの結果は5-0で久我孝男の圧勝だった。見事BalihighCup初の勝者となった彼には賞金60万円とバリチケットが贈られた。まさに孝男時代の幕開けであった。February07,20082024武藤恒志
13ページも広告、「HALATION」はKIKIで一緒にサーフィンやってたジミーのショップだが、今では海から離れてしまった。全日本常連のマーボーがいる「NORTHSHORE」、それにこれを見ると判るけど小林隆の「SELECTION」はこの年にオープンしている。14ページには誠に場違いながら私の実家である「菊川㈱」も掲載されていた。以上でパンフレットの紹介は終了します。裏表紙は先日紹介したBaliHighの広告になっていました。February06,20082024武藤恒志
@10ページにあるのがアマチュア対象にしたサーフィンツアー「BalihighCup」でTSAの大会として年間3戦を行いチャンピオンを決めるものだった。この大会は茂紀くんが担当だったのであまり記憶がないが賞品総額300万円とは思い切ったことやったもんだ。11ページにはTSAの大会日程表がある、どれもロングビーチで開催されたものだ。当時の大会はほとんどがロングビーチでのもの。というか当時のロコポイントは駐車場もなくとても大会を出来るような状況に無かった。広告にある「COUNTRYLINE」は現在の「
7ページにはシードされた選手のヒート表がある、大会前から続々と選手が伊良湖入りしていたが、港の上から見ていたら若くて知らない顔のサーファーがめちゃめちゃ上手くてビックリ、上がってきてあまりのイケメンに二度ビックリしたのが始めて会った坂本清克であった、たしかフィットシステムだったウエットも始めてみるもので気になったことを今でも覚えている。何とこの坂本は結局ファイナル進出の快挙をなして孝男と戦うこととなった。9ページにはいよいよ地元出身の選手達が登場する。JPSA公認プロは2名、最近よく取り上げてい
4ページは85年度TSA役員名簿、懐かしい名前のオンパレード、会長の近藤茂紀・事務局長阪野益治・会計監査大脇茂は海から離れてしまった。今でも元気なのは当時の副会長で今もエビンオーナーの日比野健一とポイントサーフの小山友久。また常務理事のショップでは現役のショップも多い。HOTEODの広告を見ると当時は3店舗あったんだ。また5ページにはこの大会にエアーチケットを提供してくれたガルーダ・インドネシア航空の広告があるが、わざわざ東京までお願いに行った記憶がある。ドゥビーとは仲良くしてたけど今はどうして
いよいよこれからBalihighCupの資料連載を始めます。85・96年と二度開催されましたが、大会パンフレットを作ったのは最初の85年だけでした、恐らく予算が無くなった来たのかな?当時印刷した冊数は判りませんが、大会会場での配布や関係者・ショップ等に配ったので相当な部数だったと思います。現在は手元に2冊だけが残っており、今後の貴重な資料になるかもしれません。取りあえずはこのパンフレットの全ページを紹介していきます、広告も多いのですが当時の様子や物価も判るので敢えて全部にしました。それでは3ペ
70年代の資料を探しながら本棚のチェックしているとついつい横道にそれてしまい、80年代の雑誌に見入ったりしているうちに、85年・86年にロングビーチで開催した「BalihighCup」に記事を見つけました。もうそろそろ20年以上も経ち記憶の薄れる頃なので一度取り上げようと思い立ち、他にあった資料も探し出しました。残念ながら当時のポスターを見つけることは出来ませんでしたが、パンフレット始め貴重な資料が見つかりましたので2月に入り次第特集で取り上げていきます、お楽しみに。January26,2
20150807BalihighCup8503説明youtu.be全く忘れてたけど、この時のMCはヘンリーやったんや、プレゼンターは茂紀くんや!私ゃ裏方でBaliHighのボトルに孝男が飲みやすい濃さに炭酸で薄めてたわ🤗しかし40年前で優勝60万は良いよね、今の価値なら120万って感じね。
この小切手って茂紀くん名義だったのねすっかり忘れてたわ、しかしこの当時の60万は価値あるよね。優勝者に飲んでもらおうとBaliHighのボトルを一旦空にしてからBaliHigh、レモン、炭酸入れて渡したら、シャンパンのつもりでボトル振って開けたのに吹き出さなくて・・・・良い思い出だわ
BaliHighは発売開始直後から大ブームを巻き起こし、余裕が出来てきたんで久我孝夫のスポンサーになったり、JPSAの大会の冠スポンサーになったりしてました。
始まります🏄♂️
ファイナルの結果は5-0で久我孝男の圧勝だった。見事BalihighCup初の勝者となった彼には賞金60万円とバリチケットが贈られた。まさに孝男時代の幕開けであった。February07,2008
久我対坂本の一騎打ちはまさに実力というかプロの厳しさで久我のブロックに坂本が敗れてしまった。当時のサーフィンライフの記事にはこうある、「サーフィンだけでは勝てない場合だってある。今回のコンテストはたしかに波がなかった。プロのコンテストを行うには不十分なコンデションだったかもしれない。しかしコンテストが最高のコンデションで行われる可能性は極めて低い。プロの中にはコンテストはオンショアで行われるものと決めつけている選手もいるほどだ。しかしコンテストは自分のサーフィンを相手に戦わせることだけではないこ
この大会が何で4月だったのかは忘れましたが、JPSAのシーズンインを飾る第一戦ということで注目度も高かったので正解だったのかもしれません。しかしこの時期の伊良湖で2日間に渡ってベストな波に巡り合うのは至難の技、これだから大会運営は辛いんですよね、この85年の時も20日は低気圧が通過した後でウエイティングの後始まったヒートはサイドながらも2~3フィートで大会としては充分なサイズ。トライアルからメインラウンドまで順調に進み、地元からは尾崎充洋プロが見事メインラウンドに進出しました。しかし予想通り
13ページも広告、「HALATION」はKIKIで一緒にサーフィンやってたジミーのショップだが、今では海から離れてしまった。全日本常連のマーボーがいる「NORTHSHORE」、それにこれを見ると判るけど小林隆の「SELECTION」はこの年にオープンしている。14ページには誠に場違いながら私の実家である「菊川㈱」も掲載されていた。以上でパンフレットの紹介は終了します。裏表紙は先日紹介したBaliHighの広告になったいました。February06,2008
10ページにあるのがアマチュア対象にしたサーフィンツアー「BalihighCup」でTSAの大会として年間3戦を行いチャンピオンを決めるものだった。この大会は茂紀くんが担当だったのであまり記憶がないが賞品総額300万円とは思い切ったことやったもんだ。11ページにはTSAの大会日程表がある、どれもロングビーチで開催されたものだ。当時の大会はほとんどがロングビーチでのもの。というか当時のロコポイントは駐車場もなくとても大会を出来るような状況に無かった。広告にある「COUNTRYLINE」は現在の
7ページにはシードされた選手のヒート表がある、大会前から続々と選手が伊良湖入りしていたが、港の上から見ていたら若くて知らない顔のサーファーがめちゃめちゃ上手くてビックリ、上がってきてあまりのイケメンに二度ビックリしたのが始めて会った坂本清克であった、たしかフィットシステムだったウエットも始めてみるもので気になったことを今でも覚えている。何とこの坂本は結局ファイナル進出の快挙をなして孝男と戦うこととなった。9ページにはいよいよ地元出身の選手達が登場する。JPSA公認プロは2名、最近よく取り上げ
4ページは85年度TSA役員名簿、懐かしい名前のオンパレード、会長の近藤茂紀・事務局長阪野益治・会計監査大脇茂は海から離れてしまった。今でも元気なのは当時の副会長で今もエビンオーナーの日比野健一とポイントサーフの小山友久。また常務理事のショップでは現役のショップも多い。HOTEODの広告を見ると当時は3店舗あったんだ。また5ページにはこの大会にエアーチケットを提供してくれたガルーダ・インドネシア航空の広告があるが、わざわざ東京までお願いに行った記憶がある。ドゥビーとは仲良くしてたけど今はどう
70年代の資料を探しながら本棚のチェックしているとついつい横道にそれてしまい、80年代の雑誌に見入ったりしているうちに、85年・86年にロングビーチで開催した「BalihighCup」に記事を見つけました。もうそろそろ20年以上も経ち記憶の薄れる頃なので一度取り上げようと思い立ち、他にあった資料も探し出しました。残念ながら当時のポスターを見つけることは出来ませんでしたが、パンフレット始め貴重な資料が見つかりましたので2月に入り次第特集で取り上げていきます、お楽しみに。January26,
20150807BalihighCup8501説明youtu.be20150807BalihighCup8502説明youtu.be20150807BalihighCup8503説明youtu.be今から30年前にBaliHighはJPSAの大会のメインスポンサーになり1985・1986と二年間伊良湖ロングビーチで「BaliHighCup」を開催したんです。バブルが始まる直前で世間は明るく、景気も先行きが良くなる予感で良い時代でした。サーフィンも70