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初体験ってわからないこと知らないことに敏感に反応してしまってドキドキします。そして、自分の世界を拡げてくれるのでワクワクします。例えば、・レイキって何?・レイキ習ったけど、どうやって使うの?・レイキヒーリングって何?・ハイヤーセルフって何?・なんとなく落ち着かない・ご自分のことを知りたい・ご自分に自信がない・愛されていると感じない・迷い事悩み事を話せない・癒されたい・愛されたいと、感じていらっしゃる方ぜひお越しください。大阪ヒーリングマーケット
ベランダのプランタンに小さなチューリップが咲きました。4つのプランタンに主人は、私に内緒でこっそり種や球根を植えているのです。水をやって陽に当てて土をのぞき込み満足そうな顔をしています。芽が出る頃には主人自身も何を植えたか忘れています。結婚して生活に困っていた時も喧嘩して家出した時も今も変わらずベランダには季節のお花が咲きています。最近、わかったんです。家庭を顧みず仕事人間だった私を丸ごと許してくれてずっと愛してくれていたことを
晴れ渡った昼下がりに自転車に乗って買い物へスーパーに出かけました。スーパーの駐車場の入り口にはガードマンさんが立ってて前方には、ご年配の女性の方が少し足を引きずっているように歩いてらしたので私は、自転車を止めてご年配の方が通り過ぎるのを待とうとしたときガードマンさんもそのご年配の方も同時に手を挙げてスーパーの入り口へ誘導してくださいました。全く同じ瞬間にお二人とも同じ動作で笑顔で譲って頂いたことに私は、驚きあまりの嬉しさに少しだけ大きな声で
主人はときどき「はい、半分こ!」っていろんなものをくれます。一つ残った最後のみかんを二つに割って差し出したり夕飯のパンとかです。主人の行動に笑顔で「ありがとう」と受け取れるようになったのはきっと、私自身が癒されてきたからでしょう。「半分こ」は主人の愛の表現だったことを講座を受けて理解することができました。愛されているって肌で感じると安心感が生まれます。どんなことも分かち合うと出来事にかかわらずやさしい波動に包まれます。何気
2016年、義母の介護が始まる予感と35年、勤めてきた仕事をやり切った感が同じ時期にきて前職をすべて辞めて結婚して初めて専業主婦になりました。憧れだった専業主婦になれたものの介護が始まり多忙な中どこか燃え尽き症候群のような不安定なメンタルで自分の価値や価値観が揺らいでいきました。前の職場でスタッフケアのため依頼していた心理カウンセラーの紹介で、初めて<スピリチュアル>って言葉を知りレイキと出会いました。いろんな思想やワークに興味が深くなっていき多
夕飯時にテレビで「今でも覚えている褒められて一番嬉しかったことって何ですか?」と言う話題を食事に夢中な主人にむちゃぶり気味に質問してみました。すると随分考え込んだ後「実家の床下に入って配管の修理したときおやじが『お前、こんなことが出来るようになったんか!すごいなぁー』って褒めてくれたことかな」と、ニヤニヤしながら教えてくれました。義父は、十年近く癌で闘病生活をしていました。病院の先生の専門用語がわからないと泣いた義母の代わりに私は、付き添いで看
お友達のしょうこちゃん昨年も鑑定して頂いたイヤーリーデング振り返れば、どの月も鑑定内容が起きていてフリーズしてしまう月もありました。今年も滑り込みで先日、鑑定して頂きました。私は6の人青い嵐白い鏡生まれながらにして「ヒーラー」らしい。年間のカードからお守りさんのメッセージ昨年よりもパワーアップを感じたしょうこちゃんの鑑定はうまくいえないけど母性愛のような優しさをいっぱい感じました。「鑑定通りに生きてるしそのまま進んでなーそこに、これ。
この度、第28回大阪ヒーリングマーケットに出展します。「ヒーリングマーケット」とは癒し系のイベントです。占いやスピリチュアル、リーディングやヒーリングなどエネルギーワークやセラピーに加えて癒しや健康などをテーマにした優れた商品の販売もありさまざまな癒し文化を提供されています。イベント開催は3日間2024年4月19日20日21日【私の出展日】2024年4月19日(金)12:00~19:00【イベント料金】10分1,000円~【出展内容】
前回までのお話はこちらvol.1.vol.2.vol.3.vol.4.vol.5.vol.6vol.7.vol.8.vol.9.vol.10.vol.11.vol.12vol.13.vol.14土地の確認が無事おわり産みの母親と最期に別れた場所だと聞いていた神社にお礼参りしておこうと参拝へ行きました。もう一度、この土地に導かれたことに感謝を伝えながら産みの母親にも感謝を伝えこれまでの生い立ちは、私の今の幸せに必要なことだったんだと素直に受け入れる
前回までのお話はこちらvol.1.vol.2.vol.3.vol.4.vol.5.vol.6vol.7.vol.8.vol.9.vol.10.vol.11.vol.12vol.13翌日、予習のお陰で集合場所にたどり着きサバイバルのような道なき道を歩き土地の確認を指示して頂きながらある場所に立ったとき幾つかの記憶が浮かんできました。「もしかして、ここは母屋(本家)があった場所ですか?」と役所の方に尋ねたら、「よくわかりましたねおじいさんの家だからそ
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前回までのお話はこちらvol.1.vol.2.vol.3.vol.4.vol.5.vol.6.vol.7.vol.8.vol.9.vol.10vol.11彼女との思いがけない巡り会い顔立ちまで似ている私たちは養子で来た人と出た人数十年の時間を遡りお互い複雑な生い立ちを素直に穏やかに話せたことが不思議でした。温かい空気に包まれているような時間が流れ連絡先を交換し再会を約束して別れました。彼女との運命的な出会いが必然だとしたら今、出来ることって
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前回までのお話はこちらvol.1.vol.2.vol.3.vol.4.vol.5..vol.6.vol.7.vol.8.vol.9産みの母親は家を出て結婚から離婚後子供を養子に出した事実は変わらない。私は歓迎される立場ではないと思いながらご紹介して頂く親族の方を待っていました。数メートル先から50代前半、色白でふくよかな方だな。顔がはっきり視えてくると私は…驚きました。私たちはとても似ていました。顔の輪郭、パーツ、雰囲気笑う仕草や話を聞く
前回までのお話はこちらvol.1.vol.2.vol.3.vol.4vol.5.vol.6.vol.7.vol.8澄み切った青空で大きな鳥が優雅に飛び鳴声が響く小さい山の中。2時間近く誰もいない山道を歩きやっと人の姿がみつけて息を切らしながら近寄り声をかけました。男性の方が3人偶然にも役所の方で驚きました。集合場所を知りたかったので書類を探していたらなぜか?名前を呼ばれました。なんと書類を送付してくれた担当の方ご本人だったのです。
前回までのお話はこちらvol.1.vol.2.vol.3.vol.4vol.5.vol.6.vol.7電車の切符もホテルの予約も取らず心配そうな主人に見送られ新大阪の駅に到着お気に入りのラノベを読みながら駅弁食べて、懐かしい景色を見ながらあっという間に長崎に到着しました。駅近いホテルにチェックインし荷ほどきをしながら書類を確認していたら予定より一日早く来てしまったことに気付きだったら、現地を予習しておこうと思い駅から地図を頼りに歩き始めました。
前回までのお話はこちらvol.1.vol.2.vol.3.vol.4vol.5.vol.6「トン」の愛称で知った姉たちの温かい想いや当時の家族の様子を知って泣いてしまいました。「あんたは可愛かったけんね急におらんごとなってみんな、さびしかったとさ」と姉たちも泣きながら背中をさすってくれました。長い間、「捨てられた子」として思っていた私は「望まれて来た子」として生まれ変わりました。親たちへの想い姉妹との繋がり生い立ちの拘りもまるっと
前回までのお話はこちらvol.1.vol.2.vol.3.vol.4.vol.5養父は、私を連れて帰った夜家族に隠れて、時々会いに行っていたことを打ち明け「うちの娘にしようとおもうとばってんみんな、よかか?」家族のみんなは洗濯ものが干されていた庭で私の服を抱きしめ泣いていた養父の姿を覚えていたそうです。大正生まれで戦争へ行ってやっと帰ってこれた後戦時中に亡くなった弟の子も引き取り育てて5人の子供が居るにも関わらず私を養女にするなんて…シンミ
前回までのお話はこちらvol.1.vol.2.vol.3.vol.4私は、両親の離婚後産みの母に連れられ実家に身を寄せていました。山の中、段々畑で田んぼもいっぱいあって牛も居て鶏も庭に放し飼いの大きな農家でした。月日は流れても産みの母を親として認知できずにずっと「おばちゃん」と呼んでいたそうです。養父は、どうしても私のことが心配で仕事帰りに汽車に乗り何度も会いに来ていました。その度に養父を後追いし大泣きする私をとうとう置いていけな
前回までのお話vol.1.vol.2.vol.3姉が見せてくれた白黒の写真は私が3歳くらいの時で色白でぽっちゃりとしてて不二家のペコちゃんみたいに笑っていました。「白豚みたいやったけん!トンたい!」姉たちは大笑いしながら教えてくれました。ぶ、ぶた?!豚のトンかぁ確かに写真の私は白豚のように見えなくもない。あぁ…想い出した。末っ子の私はいつも茶化される存在だったよな。生後9か月の私は栄養不足で痩せほそり赤ちゃんの肌ではなくサメ肌になっていたそう
前回までのお話vol.1.2私も義父母の看護や介護で郷へなかなか帰れずで10年ぶりかな?やっと帰ることができ久しぶりに会った養母はすでに認知症でした。元々おおらかな性格だから見た目や電話ではわかりずらい養母の様態があまりよくないないことを介護してくれていた姉が話してくれました。姉妹が集まれば賑やかな家族団らんで心の内を明かしてくれたことに少し勇気をもらい聞いてみたのです。末っ子の私は姉たちから「トン!」と呼ばれていました。なぜ
前回のお話vol.13年前義母が他界して2か月後産みの父は孤独死で最寄りの警察から連絡があり昨年、母は他界していたらしく相続するはずの土地問題で役所から書類が届きました。彼らは、どうしても私に他界したことを知って欲しかったのでしょう。そのために国を動かすとは…どんな理由であれ手離したことを後悔していたのでしょうか?今だから、産みの親たちを理解できることがあったのは、私にとって、とても支えになりました。生い立ちをはっきり知ら
私は生後9ヶ月のころ共働きだった両親が預けていた7人家族に5女として迎えられました。養子縁組が決まったのは私が6歳の時縁組の書類を持って養母と一緒に産みの親たちの実家へ行きました。産みの父の家は大きな家でお手伝いさんもいて大きな池の鯉をみながら遊んだ記憶が微かにありました。幼いころから不思議と両親の実子ではないことを自覚していましたが養父母には言えず16歳まで隠し続けていました。きっと、悲しむだろうと思い込んでいたのです。物心ついたころ