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2021年4月3日大阪市大正区スマホカメラSONYXperiaSO02-J
今日はタツの月命日30回目です私の大事な大事なタチュがお空に行ってから2年半今日はタチュの最後の4月だった2021年4月のタチュの写真を集めますもう、、、、可愛いんだから、、、タチュぅぅぅタチュは私の人生最初のワンコでタチュが居たからワンコと住む素晴らしさを知ることができたタチュが居たからじゅじゅちゃんも海君もあんずちゃんもうみちゃんもみんなと会えたこの時14歳と11か月我が家に来た時と変わらぬ可愛さだったタチュ良い夢見ているのか
2021年春の国営昭和記念公園モデル撮影会で撮影した美羽希。さんの画像を投稿します。2021/4/18撮影ご高覧ありがとうございました。
2021年春の国営昭和記念公園モデル撮影会で撮影した安桜はるなさんの画像を投稿します。2021/4/18撮影ご高覧ありがとうございました。
2021年春の国営昭和記念公園モデル撮影会で撮影した愛野咲実さんの画像を投稿します。2021/4/18撮影ご高覧ありがとうございました。
みんなの回答を見る2021年4月の事↓
2021年春の全東国営昭和記念公園モデル撮影会で撮影した愛野咲実さんの画像を投稿します。2021/4/18撮影ご高覧ありがとうございました。
昨年の春行われた全東の国営昭和記念公園モデル撮影会で撮影した、杉浦檸檬さんの画像を投稿します。2021/4/18撮影ご高覧ありがとうございました。
昨年の春行われた全東の国営昭和記念公園モデル撮影会で撮影した、福田春香さんの画像を投稿します。2021/4/18撮影ご高覧ありがとうございました。
はい、続きーっ!!!旧済生館本館、残念ながら暫くは閉鎖中でした。猫以外は😅1878年、県立病院🏥として建てられたそうです。お堀の上も桜🌸が綺麗やね〜♪😉霞城セントラル。つづく
はい、またまた霞城公園のお花見の続きどすえ〜♪😉ぎゃー🙀踏まないでーっ!!!しだれ桜🌸、綺麗やね〜♪😉旧済生館本館、綺麗な建物です。つづく
はい、霞城公園のお花見🌸、続きでーす〜♪😉桜🌸と山形新幹線🚄、似合いますね〜♪😉つづく
はい、木梨憲武展の続きでーす〜♪😉なかなか普通の人では思い付かない物ばかりで、圧倒されました‼️
4月24日その27周堤の先に橋梁が残っていた滝沢川橋梁、これは現在の中央本線からよく見えるので気になっていた。こんな上をよくSLが貨物列車を引いて走っていたものだ。橋から瑞浪方面はどこで本線に合流しているのかわからなかった。釜戸駅に戻ってきて貨物用の側線でしょうね、今は使われていない。昔は住友セメントの工場が近くにあったようで、その関係だろう。というわけで、名古屋行きに乗ってジムによって風呂に入って自宅に戻ったのであった。
4月24日その26町中を抜けて瑞浪市の花キキョウと市の木マツ中央本線をくぐってカエルに見えなくもない再び中央本線に近づくと線路の脇に信号関係のボックスが放置してあった。ここからずっと瑞浪方面に進むと周堤が出現した、ここは中央本線が単線非電化だった時代に付け替えをした部分である。周堤の上を進んでいくことにした。旧線で有名なのは碓氷峠のアプト式の旧線だが他にも各所にこのようなところがある中央本線は山岳路線だけに、このようなところが何
4月24日その25ずいぶん欲張りな里だが多治見駅管理の簡易委託駅駅舎は中央本線ではもっとも古いものらしい多治見から恵那の間、土岐市、瑞浪、釜戸、武並と似たような駅が並んでいる。要するに旧中山道である。このダイヤでは使いようがない。
4月24日その24改札外の時刻表はスマホがなくても確認できる。塩尻まで近距離券売機で買えるんですね。ホームライナーで使われる車両がやってきた。この側線のいくつかが、北恵那鉄道と接続して木材の運搬をしていたわけである。快速に使われる車両なのにテーブル付きの座席がある。20世紀ギリギリでの製造中津川から名古屋側4つ目の釜戸駅で降りた。
4月24日その23JR中津川駅の裏側に大きなコインパークがあって、ここが北恵那鉄道の起点である。中津町駅は、かつて中津川市に存在した北恵那鉄道の駅。中央本線中津川駅の西、約300mに存在した。北恵那鉄道の中心の駅であり、北恵那鉄道の本社や車両基地、運転基地、工場などがあり、広い構内を有していた。駐車場から廃線跡が伸びていてこの先が第一中津川橋梁と思われるというわけで北恵那鉄道廃線跡探訪は終了中央西線の下をくぐって中津川駅に戻ってきた。GPS時
4月24日その22中津川をまたぐ道の下に第一中津川橋梁⑥の場所ここは柵がないここをたどっていくと第二中津川橋梁にたどり着くのであるがこれ以上戻るのは無理なようである橋をもう一度眺めて、中津川駅に向かった
4月24日その21上地橋梁から先は進めないので、中津川方面に戻って、並行して走る国道から見る木曽川橋梁はこんな感じで国道からわき道に入って木曽川橋梁の手前にある第二中津川橋梁⑪の場所である。木曽川橋梁の中津川側は川砂の採掘場になっていて近づくことができない。日曜の採掘場が休みの日に入り込んで撮影した人もいるようだが、入るなと書いてある以上ここで引き返すことにした。
4月24日その20廃線跡は舗装が途切れて柵があってその先は橋梁になっていた道を引き返して、廃線跡の周堤からから降りて先に進むと橋梁が見えてきた。上地橋梁、素晴らしい造形である。場所は⑱
今年の4月分の御朱印をまとめてみました。4月は手術を受けたこともあって比較的おとなしくしていました。そのため4月も多くはありません。神社3社と、納経して送っていただいた仁玄寺のみです。4月にいただいた御朱印は以下の通りです。和寒神社、北明山仁玄寺北海道神宮、江南神社OgamanのmyPickAmazon(アマゾン)ぼく、シマエナガ。2022壁掛けカレンダーA41,375円今日もシマエナガがかわいいねAmazon(アマゾン)ぼく、シマエナガ。2022
4月24日その19周堤に上ってみるときれいに残っている木曽川橋梁は、中津川市の木曽川に架かる旧北恵那鉄道の橋梁である。現在は使用されていない。北恵那鉄道中津町駅と恵那峡口駅の間に架かる鉄道橋であった。北恵那鉄道線は1978年9月に廃止されたが、本橋梁は取り壊されることなく、現在も当時の姿をとどめている。134m5連⑫⑬間であるこういう痕跡が残っているのがうれしい山之田川駅方向に戻ってみると何の変哲もないところだが鉄道杭が残っている。恵
4月24日その18廃線跡はここから国道からそれて国道は急坂になり、鉄道が走るのは不可能である国道を登り切ったところから橋が見える北恵那鉄道の跡であるこれは保存されているわけではなく、放置されているのだが、きれいに残っている。橋の袂まで行ってみることに周堤になっていて恵那峡下りの乗り場、現在は使われていないがこれがもともとは駅舎であった。恵那峡口駅は、かつて中津川市に存在した北恵那鉄道の駅である。恵那峡への観光客誘致のため、地元住民の請
4月24日その17上苗木駅跡を出ると、廃線跡は舗装してあったりしてなかったりで少し広がって踏切跡ですかね?例によって新築住宅が現れた。苗木駅は、かつて中津川市に存在した北恵那鉄道の駅。貨物取り扱い駅であった。北恵那鉄道の貨物の主力の木材ではなく、苗木地区で産出される花崗岩(苗木花崗岩)を取り扱っていた。10年ぐらい前までホームが残っていたよう。進むと再び国道が見えてきて広いところに出てきた。山之田川駅は、かつて中津川市に存在した北恵那鉄
4月24日その16廃線跡は草地に戻り猪除けか、サル除けでしょうね。再び太陽電池パネルが現れphotoshopでいじったわけでなく国道表示が消えてしまっている。国道ということはわかるが・・・この辺りを走っていたはずだが、よくわからない。再び国道を横断して新しい住宅が現れてきた。上苗木駅は、かつて中津川市に存在した北恵那鉄道の駅。地元住民の請願により開設された駅であった。1929年開業この辺りにホームがあったようである。
4月24日その15国道より高いところに廃線跡があって土壁の蔵など久々に見たこの辺りは高いところを走っている周堤が廃線跡だろうが周囲が舗装されていてわかりにくい苗木城であろう広くなって、住宅用の工事が行われている。並松駅は、かつて中津川市に存在した北恵那鉄道の駅である。貨物取り扱い駅であった。北恵那鉄道の貨物の主力の木材ではなく、蛭川村(現・中津川市蛭川)で産出される御影石(蛭川御影石)を取り扱っていた。2年ほど前までは、ホームが残っていたようだ
4月24日その14廃線跡はたどれたりたどれなかったりが続き広いところに出て、橋脚のようなものがみえた。このような勾配を鉄道が上がれるはずもなく現役時代どのような状態だったのかは不明関戸駅は、かつて恵那郡福岡町(現中津川市)に存在した北恵那鉄道の駅。地元住民の請願により開設された駅であり、北恵那鉄道最後の新設駅であった。1961年開業ここは元々坂になっているので、高架になっていたのではないかここから周堤になっているので、やはりそうであろう。つい
4月24日その14広い空間があって、割と住宅が新しい廃線跡あるあるである。この道が線路跡のようで美濃福岡駅は、かつて恵那郡福岡町(現中津川市)に存在した北恵那鉄道の駅である。2面2線のホームを有し、交換設備を有していた。この記念碑が建てられたのは20年程前でそれまではホーム跡が残っていたようである。ここから廃線跡は畑の中に取り込まれ一部周堤が残っている再び国道に並行してこのトヨタマーク、久々に見た気がする。この辺りの廃線跡は生活道路にな
4月24日その12この橋も鉄道が通っていた場所だろうが当時のものではないしっかり整備されたところはすぐに終わってまた元のような道に戻ったそれでもしっかり手入れはされているのでしょうね。枕木が埋められていてここでついにわからなくなった、というより明らかに取り壊されている。坂を上がって国道を渡ったところに、広い場所が出てきた。