ブログ記事834件
性欲強すぎてコントロールが必須で毎日体液放出しています。最近はNHKアナウンサーの着衣巨乳をオカズに大量に体液をXLコンドーム内に放出。非モテとはいえ、いい歳して何やってんのかな、、と思います。
漢字の読み間違いというのは、麻生太郎元総理に限らず誰でもやってしまうことですが、政治家ならずとも「言葉のプロ」ならばそれなりに注目を集めるようです。昨年、「慧眼(けいがん)」を「すいがん」と読むとずっと思っていたため、放送中にそう言ってしまったことを自ら告白したのはTBSの安住紳一郎アナウンサー。「彗星(すいせい)」と似ているので間違えて覚えてしまったと言っていました。安住アナ自身の好感度の高さ、「反省の弁」の率直さなども相まって、
溜まった宿題、女子アナローテしてますが、熟女アナの番が来てしまいましたwムチムチニットではなくちょっと変わり種のネタ(^ω^)・・・w局の屋上で実験・・・しかもヒールで・・・(´・ω・`)YC(^ω^)・・・(´・ω・`)YCアラフォー・・・というより40代半ば(^ω^)・・・ちょっと熟女すぎましたかね(^ω^)・・・w
大の里が大関に昇進します。そのまま一気に横綱に駆け上がって欲しいと思っています。私にとっての大横綱は北の湖と千代の富士です。二人の共通点はもちろんいろいろありますが大横綱たる所以は頂点へと駆け上がっていく途轍もない勢いだと思っています。というのも北の湖、千代の富士ともに大関は三場所で通過しています。北の湖は関脇で優勝して大関昇進。新大関の場所こそ10勝5敗でしたが2場所目に13勝2敗で優勝、翌場所は優勝決定戦で輪島に敗れたものの13勝2敗で横綱昇進を決めています。千代の富士も関脇
NHK-BSでちあきなおみの特集が放送されました。録画して何度も聞いています。いずれもが心に染み入ってくる歌声です。まさに一つのドラマを観ているようです。「四つのお願い」「喝采」などは小学校の低学年の私でさえ歌っていました。それほどのヒットでした。その後も様々なヒット曲があり、またタンスにゴンのCMなどでもその姿を見ていました。しかし1992年から突然活動休止、残念ながら一度も仕事でご一緒したことはありません。そんなちあきなおみの曲の中で1枚だけシングルレコードを買ったことが
最近日常のちょっとした場面で芝居すると「小芝居をした」と言います。ちゃんとした芝居、演技というほどではないので小芝居というようになったのでしょうか。これがまた本来の意味と違うのです。小さな劇場での芝居を大芝居に対して小芝居と言ったのです。江戸時代は江戸三座といった大劇場以外での芝居をさしました。劇場の話であって演技の話ではありません。現代で言えば小劇場といったところでしょうか。地方で開かれ、地元の役者で上演する歌舞伎があります。これを私が「地歌舞伎」と言いましたらある大学の教
選挙の時に「〇〇の顔を選ぶ」との表現があります。〇〇には都市名が入ったり、党の名前が入ったり。考えてみると本来は顔ではなく頭を選ぶわけです。あたま、かしら、ヘッド・・・読み方も様々、役割も様々ですが頭でなくてはなりません。芝居の世界には座頭(ざがしら)の存在があります。一座を頭として引っ張っていくわけです。主役を演じるだけでなく、演出も担い、そのための知識もあり、関係者をけん引していくリーダーシップを求められます。私が国立劇場の初芝居の中継を担当していた頃から尾上菊五郎さんが座
秋場所】元朝青龍大の里の取り直しに〝物言い〟まさかの〝物言い〟だ。大相撲秋場所13日目(20日、東京・両国国技館)、関脇大の里(24=二所ノ関)が大関琴桜(26=佐渡ヶ嶽)を取り直しの末に破り、12勝目(1敗)。2度目の優勝に王手をかけるとともに、大関昇進の目安とされる三役の地位で3場所合計33勝に到達した。最初の相撲は両力士が土俵際でもつれる展開。行司軍配は琴桜に上がるも、審判団から物言いがついて同体の判定となった。取り直しの一番は、大の里が一方的に寄り切って快勝した。取り直しの際
やはり芸術の秋なのでしょう。このところ様々な公演に行っています。劇場の形態もいろいろです。私自身ラジオの番組の収録で全国各地のステージに立ちました。おおむね定員500人前後か、それ以上のホールでした。中に幕のない劇場が幾つかありました。舞台を使う側からしますとやはり幕は欲しいのです。本番まで幕はしめていて幕があがって本番へ。あるいは一旦幕を下ろして舞台転換をして次の舞台へ。幕がないとセットの転換も全部見えてしまいます。ある地方の町のホールも幕がありませんでした。思わず「
「火事と喧嘩は江戸の華」と言います。よっぽど火事が多かったのでしょう。芝居小屋も火事で焼けてしまった、という記述を頻繁に見ます。小屋というくらいですから今の劇場とはだいぶ違うものだったのでしょう。芝居では最終日を千秋楽といいますが「千秋楽」と書かずに「千穐楽」と書きます。秋という字に火が入っているのを嫌って千穐楽と書くようになったといいます。「鶴は千年亀は万年」で縁起もよく「穐」の字を使ったのでしょう。こういう縁起の担ぎ方が私は好きです。色々な劇場で司会をしますが緞帳の裏側に「火
今月の文楽の公演が新国立劇場で行われています。幕開きは「伊達娘恋緋鹿子~火の見櫓の段」です。火事で焼け出された本郷の八百屋の娘お七が避難した先で小姓と恋仲になります。火事になればまた会えると考えてしまい放火事件を起こし火刑にされてしまいます。この火の見櫓の段は実際には火付けはせず火事を知らせる太鼓を叩く場面です。勝手に火の見櫓の太鼓を叩くことも重罪です。命をかけた恋であったというのです。実際にあった事件を元にしているのですが、とにかく本郷が舞台とあって調べてみるといろいろ思
大学生の時に高田馬場駅前の映画館で見ました。劇場名は忘れたのですが調べてみると東映パラスという映画館だったようです。なんといってもこの映画はセリフが一言もありません。パリの下町のダンスホールが舞台。登場人物は踊っているだけです。それでも1930年代から60年代それぞれの時代背景がつづられていきます。ポスターには「踊る、踊る、踊る、踊る。愛が、別れが、哀しみが、歓びが、時代が、人生が。」とあります。私が覚えているのは「愛がある別れがある哀しみがある歓びがある
NHKの高井アナめっちゃタイプなんだよなぁ。NHKアナか棋士とか知性ある男性に惹かれる。それはたぶん父がかなり博識だったからだと思う。こういう方は大学で出会った人と結婚しちゃったりするし倍率高いから厳しいよなぁ。お見合いでもすれば良いのだろうかなぁ
9月15日夜NHKスペシャルで「封じられた“第四の被曝”」が放送されました。この番組を見ていて思い出した中継リポートがあります。1954年3月1日アメリカのビキニ水爆実験でマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝しました。船員とともに被曝したマグロは築地市場の地下3mに埋められました。1996年東京都は都営大江戸線築地駅の出入り口設置工事に伴ってマグロの骨の発掘調査を行いました。調査当日の朝6時台にその現場から私が生中継をしました。1954年当時の資料を基にして掘り起こしましたが結局何も見
ヤクルトスワローズの青木宣親選手が引退を表明しました。来シーズンからスワローズのユニフォームを着た青木選手のプレーが見られなくなる寂しさを感じています。近い将来、監督になって戻ってきて欲しいと願っています。「引退」という言葉で思うことがあります。前回のブログで旭道山とのエピソードを書きましたが旭道山は立候補するため大相撲を「廃業」しました。当時は相撲を辞めて親方として相撲協会に残るのが「引退」、それ以外は「廃業」でした。しかし旭道山の時に「廃業」という意味や響きが適切ではないとの意見
NHKのアナウンサーになって1年後、相撲放送に関わることになり両国国技館へ。東京場所の度に両国国技館に通いました。その後、東京に転勤し報道担当になりました。今度は国会中継のため国会に行くようになりました。当時は村山富市内閣。本会議や予算委員会、証人喚問の中継も担当しました。国会内の食堂で昼食をよく食べました。そのうち報道を離れ芸能の分野へ。今度は国立劇場で仕事をすることが度々ありました。特に年始は初芝居の生中継があり仕事初めは国立劇場ということが15年続きました。これ
BSで大相撲放送を開始したのは1987年(昭和62年)でした。私は翌年から大相撲放送に関わったのでBSでの相撲中継の初期も初期の放送に出ています。初日と千秋楽はなんと序ノ口から放送していました。折しも若貴ブームで新弟子が増えて序ノ口も力士数が多かったので午前9時から放送を開始したこともあったと記憶しています。朝8時に国技館に集合して打ち合わせをして放送にのぞんでいました。がらーんとした館内で淡々と取り組みが進んでいました。似たような細身の力士が土俵上で組み合ってグルグル回ったので
金沢に住んでいる時、近くに銭湯があり週に何度か通っていました。通い始めてそのうちに「こんばんは」と挨拶されました。分かっていただいたと思ってこちらも「こんばんは」すると相手の方は「サッカーのコーチやったね」うっ誰かと勘違いされてる、、、「あ、あの違います、、」「そりゃゴメン」となって名乗るタイミングを逸しました。次に会った時に「なんだアナウンサーさんや」と言われ、ようやく挨拶が出来ました。ただ私は素っ裸で背筋を伸ばして一礼。考えてみれば私はなんとも間の抜けた姿だったと思いま
「劇場版アナウンサーたちの戦争」、橋本愛さん舞台挨拶の司会を務めさせてさせていただきました。この作品は、太平洋戦争でNHKアナウンサーたちがラジオを通して声と言葉を武器にプロパガンダ放送を行い、戦意高揚・国威発揚、そして偽情報で敵を撹乱させたという事実を基に映像化されました。登場するNHKアナウンサーは全て実在の人物。戦争下、”声を武器”に国民を戦争の熱狂へと駆り立てた罪と苦悩にNHK自ら真正面から取り組んだ問題作で、この事実を決して歴史の闇に埋もれさせないと
仕事でNHK時代最後の赴任地金沢へ行ってきました。街を歩いていましたらすれ違ったご夫婦から「アナウンサーやね?」と声をかけられました。金沢の地で定年退職を迎えてから3年経っているのですが覚えていてくださったのですね。ありがたいことです。赴任地では一杯飲みに行く店をよく探したものです。地元の人が通い、その土地の特産が食べられて、大きすぎず小さすぎず、座るのはカウンター、そして値段もお手頃、そんな店を探したものです。まさに孤独のグルメです。カウンターに座って度々言われたのが・・
間もなく始まる秋場所は私が初めて生の大相撲を見た思い出の場所です。それは昭和48年1973年のことです。前の場所、名古屋場所の優勝は現在の琴櫻の祖父の横綱琴櫻でした。30歳を超えてようやく横綱に昇進、そしてこの場所で賜杯を手にしました。その土俵を見て大相撲に興味を持ったわけです。なんとその場所の雑誌大相撲を今でも大事に保存しています。相撲に興味を持った私の様子を見て、さっそく父が蔵前国技館に連れて行ってくれました。昭和48年秋場所二日目です。大関は新大関の大受をはじめ初代貴ノ
きのうは熱談プレイバックで講談師の神田亜久鯉さんと千代の富士についてタイトルの通り熱く談論。自分で自分の放送を聞きながら改めて千代の富士引退のあの日の夜についていろいろ思い起こしました。34年間のNHKアナウンサー生活の中でも忘れられない出来事です。さらに幾つもの思い出が浮かびあがってきました。(両国国技館内での1枚)平成元年春場所、優勝をかけた十四日目大乃国戦。左からの上手投げで大乃国を破りました。これで14連勝、27回目の優勝が決まりました。勝負が決まった瞬間、大乃国も千
今夜はNHKラジオ第一放送で「熱談プレイバック」の放送があります。神田阿久鯉さんの講談を聞いて、そして阿久鯉さんと私が千代の富士、また講談について語っています。ラジオ熱談プレイバック-NHK私が学生時代まさに彗星のごとく登場したのが千代の富士でした。それまでの王者北の湖に代わって土俵の主役になっていきます。そして横綱へ昇進。私はNHKに入った翌年1988年から相撲放送に関わります。まさに千代の富士全盛時代をアナウンサーの立場から目の当たりにしてきました。そしてあ
『チャンス』(1979年)主演はピンクパンサーシリーズのクルーゾー警部でおなじみのピーター・セラーズ。この映画ではクルーゾー警部のようなドタバタはなくひたすら静かな雰囲気。主人公チャンスはあるお屋敷の中で生まれ初老になるまで一度も屋敷の外に出たことがない。楽しみはテレビを見ること。仕事はそのお屋敷の庭の手入れをすること。そのお屋敷の主がある日亡くなり、チャンスはトランク一つで屋敷の外に出されてしまう。街を歩くうちにひょんなことからアメリカ大統領にも影響を与える大富豪と知り合う。彼
雨の合間に地元の駅近くのスーパーに買い物に行きまして。。。このお人はどこかで、、????NHKアナウンサーの牛田まゆさん。。ご主人と買い物なのかしら。。眼鏡をかけてらしたけど、美しくて目立っておられました!ここは渋谷が近いのと、NHKの社員寮も少し離れたところにあります。素敵な午後となりました。
きのうは紀尾井ホールで女流義太夫演奏会。鶴澤朔弥さんの初舞台を鑑賞しました。同世代の方々もお祝いに訪れていて若さのあふれる演奏会になりました。ふと私の初ステージはなんだろうかと思い返しました。確かアナウンサーになって三年経ったころ喜多方市でシンセサイザーの姫神さんをゲストにFMの収録をしました。この時がステージでの初司会だったように思います。実はこの時点でステージの司会は全く経験がありませんでした。ところが周りは私が入局して3年経っていて既に経験しているだろうと思われていました
こんにちは!戸建大家ビタミンです。今回の台風過去最大級例えるなら伊勢湾台風並みと脅かされて構えてましたがなんかよく分からないうちに熱帯低気圧に・・幸い居住地は大丈夫でしたが線状降水帯の被害に遭われた地域は大変だったと思います。お見舞い申し上げます。でも「脅し」いいことだと思います。脅されて事前準備して、心の準備も出来ていれば素晴らしいことです。ほっとけば「大丈夫バイアス」が働いて大変なことになりますから「大丈夫バイアス」心理学用語で「正
「心模様がよくわかります」私の「テンションあがる」よりも間接的に楽しい雰囲気を匂わせる素敵な表現。てっちぃ素晴らしい。
NHK勤務時代、いったい何回台風中継を担当したか分かりません。福島の新人時代は福島市内のほか海沿いということでいわき市へも行きました。当時は車で3時間かけて台風が来る前にいわき市に入って準備をしたものです。そして千葉放送局時代。銚子や館山から台風中継をしました。転勤して台風中継で初めて館山に入った時、地元の記者があるものを用意してくれていました。千葉特産の落花生を茹でたものでした。それまで乾いた落花生しか食べたことがなかったため驚きました。ベテランの記者は「こういう時だけど地元の
還暦を祝って仲間が新しい半纏をくれました。写真で見て分かるように鮮やかな緑色です。その下の写真はずっと私が着てきた我が家の半纏です。胸元には屋号の「長谷川」と入っています。私自身にこの半纏を作った記憶が無いのでもう60年以上前のものではないかと思います。新しい半纏に比べると緑の色合いが違います。三社祭でこの半纏を着ていた時のことです。突然「いい色の半纏だねぇ」と声をかけてきてくれた男性がいました。確かに仲間内でほかに同じ色の半纏を見たことないとみんな言っていました。その