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お疲れ様です毎日暑いですね〜その暑さの中、サーキットイベントに行ってきました雑誌TIPOとBOSCHのコラボ企画スピードフェスティバル2025岡山国際サーキットにて開催されました私の一番はGCマシンが走ること懐かしのマシンですが見たかったので色々な車が走ってるし、オフ会も同時にあったりで楽しめましたよ♪
3ヒートレースで開催された1978年第1戦F1グランプリが開催された影響もあり少し活況となり始めた自動車レース。GCの開幕戦のエントリーは35台で全盛期に迫るほどまで回復しました。マーチのレプリカシャーシの製作が行われたことやレース用ロータリーエンジンの市販化、シェブロンB36の導入など新しい話題ありました。開幕戦は10・20・30周の3ヒートのレース形式を導入したことでおもしろい観戦が期待できました。結果は新たにビックスポンサーを獲得して、盤石な体制で臨んだチームが3ヒ
サンダーLM39のデビューと同時期に1979年からの富士GCレースがシングルシーター化へのレギュレーション変更に合わせてマツダ・オート山梨から設計を依頼された「KIBOU・T-80-1」はグリップ力の増大による100Rと最終コーナーを全開で走れるマシンを目標に開発されたことがモーター誌で紹介されていました。世界初のサイドウイングスポーツカー構造はこのように解説されていて4ウイングマシーンとも言われていました。製作期間は約8ケ月。9月のGCレースに臨んで走らせてみる
GCレースの観戦で欠かすことができないものはマイナー・ツーリングカーレースでした。参加台数が多く最終ラップまで展開される接戦は誰もが魅了されるプログラムでした。75年から16バルブKP47スターレットが参戦してから主にエンジンの出力差で苦しい展開となりましたが、KB110サニー勢が果敢に攻め込む光景は圧巻。チューナーとドライバーの挑戦が人気を支えた要因であったとも思えます。戦闘力を高めるために各チューナーのスペシャル仕様に進化し、エンジン・サスぺンション・軽量化を含む内外装の全てに手
1970年代後半のスーパーカーブ―ムとF1レースの開催で爆発的に売れたモノにラジコンカーがありました。当時、タミヤのキットを持っていたのはごくわずかなお坊ちゃまだけでお父さんにお願いしてトイラジコンを買ってもらった少年が大半だったと思います。特に「ニッコーセミデラコン」は豊富な車種とお手頃な価格もあってとても売れていたようです。富士GCレースでは77年からはチームのスポンサーとなりマーチやシェブロンを走らせていました。1977.09.04ニッコー・セミデラコンマーチ(デビ
生沢氏は60年代の日本GPに代表される活躍やヨーロッパでの戦歴で彼の地でも「日本人」の伝説となるほど。当時から国内は疎か海外の著名人とも親交が深く、時代を代表するスター選手のパイオニア精神は多くの人の憧れとなりました。1974年からはオーナードライバーとしてGCレースに参戦した生沢選手と純白のGRD・S74には華やかで美しい不思議な魅力がありました。毎回、抜群のスタートで100Rからトップで現れる姿はGCレースのハイライトでありグランドスタンドが沸き上がる瞬間を今でも覚えています。
2座席オープンのレーシングカーであるシェブロンは1972年に田中弘氏がGCレースに初めてB19を導入して以来、後継モデルを含め国内では10年間にわたり延べ300台余りが出走したロングライフな車両です。当時の写真がありましたので数回に分けてご紹介いたします。アンダーステアの操縦性を修正76年からリリースされたB36はサスペンションジオメトリとボディの変更による前後のダウンフォースを改善したアップグレード版でした。GCレースではさらにワイドトレッド化やサブフレームの強化で操縦性の向上を図
2座席オープンのレーシングカーであるシェブロンは1972年に田中弘氏がGCレースに初めてB19を導入して以来、後継モデルを含め国内では10年間にわたり延べ300台余りが出走したロングライフな車両です。当時の写真がありましたので数回に分けてご紹介いたします。換装したエンジンは9種類!?フォードFVCエンジンの搭載を前提に設計されたシェブロンですが、BMWと提携したマーチ勢が常勝となり、複数のフォード系チューナーのエンジンを主体に、国産のマツダ12A・13B,日産L18改のほかコスワース
2座席オープンのレーシングカーであるシェブロンは1972年に田中弘氏がGCレースに初めてB19を導入して以来、後継モデルを含め国内では10年間にわたり延べ300台余りが出走したロングライフな車両です。当時の写真がありましたので数回に分けてご紹介いたします。国内最古のシャーシは74年第1戦の北野車71-05!?海外のサイトにB19についての参戦記録がありましたChevronB19-AllResults(page5)-RacingSportsCarsSport
70年代のレース車両には定番のように「NGK」と「OK」マークのステッカが貼ってあるのをモータ誌やプラモデル、ミニカー等で見たことがあるかと思います。1974年GC第5戦のレースプログラムの賞典欄には以下の記載がありました。--------------------------------------NGKプラグ賞:日本特殊陶業株式会社提供優勝……50,000円2位……30,000円3位……20,000円4位……10,000円
75年にマルボロカラーで衝撃のデビューをしたシグマGC75は初期トラブルが多く翌年には鮒子田選手がマーチ75S+BMWにスイッチしたことでGCレースには不出場となりました。76年の富士1000キロレースには森泰章/鈴木恵一組で出走しましたが早期にリタイアし残念な結果となりました。--------------------------------------2年ぶりにGCレース開幕戦に「シグマSC77」として現れた時は期待と不安で複雑な印象でした。結果は12位完走でしたが、12周遅れ
77年の富士スピードウェイでは2回目のF1開催とJAF-GP以外は2座席レーシングカーのGCレースがメインイベントでした。開幕前に最も注目されたのは「国産紫電BMWGC戦線に殴り込み」のタイトルで紹介された高原選手の「紫電77」でした。ワクワクしながら迎えた第1戦には「紫電77」は出走せずとても残念な思いをしましたが、レース前に披露された車両はイラスト通りでとてもカッコよく次戦以降の期待が高まりました。--------------------------------------
76年のGC開幕戦から柳田選手が3Lにボアアップしたエンジンにクロスフローヘッドを搭載したフェアレディZで参戦しました。カラーリングはダルメックスのチームカラーである白地に赤色のストライプに変更。GC第1戦はトラブルで完走とはなりませんでしたが、GC第2戦ではRX-3とのバトルを観ることが出来ました。スーパー&GTレースこの日の朝は天気が悪く、スタート時刻の10時はウエットコンデション。売店もトイレも無く、グランドスタンドからは遠く離れた100Rのアウト側で観戦しました。---
いつ撮った写真か全く分からなくて保留にしていましたが、やっと判明しましたのでご紹介いたします。日本ストックカー・エキジビションレース'74グランチャンピオンレース第2戦の前座で行われたストックカーレースです。公式プログラムにも載って無く、当日の予選結果表だけに印刷されていました。予定していたジュニアグランチャンピオンレースがエントリー4台、出走2台!と少なく代替えとして行われたエキジビションでした。予選は行なわれず、3Lエンジンを搭載するセドリック/グロリアの中にクラウンが1台
F1レースが初めて開催されたこの年は明るい話題が多く、GCレースでは新車の投入や新チーム結成の発表が年明けから行われ、とても活気を帯びてきた印象がありました。5カ月ぶりとなるGC開幕戦の決勝は久しぶりの晴天に恵まれ華やかに開催されました。グランチャンピオンレースシーズンオフに富士GCドライバーの資格認定が行われ29名のドライバーを対象とした優遇措置が実施されたこともあり、22台が揃う注目の開幕戦となりました。認定ドライバーとは・74年度以前のGCレース優勝者
76年のGCレースでは鮒子田選手がシグマからマーチ75Sにチェンジ。オートスポーツ誌の表紙に登場しました。このマシン、マルボロカラーが鮮やかでしたが、なんとも言えないカッコ悪さがありました。76年第1戦の75S低く平らなボディから盛り上がった4つのタイヤハウスとフォーミュラーカーのコックピットを2個配置したような組み合わせは生沢選手のGRD・S74やムーンクラフトの魅力あるボディとは異なりとても未完成な印象でした。日本でのタイヤサイズに合わせてフェンダーをさらに大型化したのも一因でしょ
F1レースが初めて開催されたこの年は明るい話題が多く、GCレースでは新車の投入や新チーム結成の発表が年明けから行われ、とても活気を帯びてきた印象がありました。5カ月ぶりとなるGC開幕戦の決勝は久しぶりの晴天に恵まれ華やかに開催されました。マイナー・ツーリングカーレース16バルブKP47スターレットが前年5月の日本GPに登場以来、圧倒的な速さでGCレースで連勝し、年間チャンピオンを獲得。B110サニー勢の苦戦が続いていました。開発費??億円とも言われた16バルブエンジンを搭
1975年のGC最終戦は招待選手のM.Cボーモン(フランス女性ドライバー)の参戦と黒沢選手の復帰が話題となり、雨天にもかかわらずシーズンで最も多い観客数となりました。水煙が立ち上がるウエットコンデションのなかでのスタート。車両火災の処理で黄旗とペースカーによる混乱や乾きだした路面よるタイヤトラブルが発生など多くの波乱がおきる展開となりました。ポールポジションからスタートした高橋選手は9周目に接触からのスピンで11位まで後退。驚異の追い上げで残り6周で首位を奪還してGCレース
この年のGCレースは海外ドライバーの参戦や2ヒート制の導入・仮設シケイン設置などのショーアップの試みはありましたが、少し物足りなさを感じていました。期待のシグマGC75やⅬ18改搭載の車両の苦戦が続いたのも影響していたと思います。第四戦に前年のヨーロッパのチャンピオンカーであるアルピーヌA441がJ-P.ジャブイーユのパッケージでの参戦が報道されましたが、雑誌で見たことがある程度で馴染みもないせいか「単発の挑戦では厳しいのでは」と思っていました。B.エヴァンズ:1976.06.06
ヨーロッパスポーツカー選手権の初戦で3位入賞したローラ社のニューマシンはたいへん注目され、独特なシャーシレイアウトや新しいサスペンション構造が特徴のあるボディとともに何度か雑誌で解説されていました。従来型や競合シャーシよりトレッドが狭く、操縦性の改善のためにロングホイールベース化したT390はセッティングが困難で現地でも苦戦していたレポートもありました。ルマン用の開発され3Lエンジンを搭載するT380を2Lエンジン仕様にしたのがT390でブランドノーズとロングテールのボディはいかにもストレート
1975年の富士GC第1戦はマーチ745BMWで参戦した高原敬武選手が連勝記録を更新いたしました。コースレコードを記録してポールポジションを獲得、20周/30周の2ヒートレースを2位/1位でフィニシュしての総合優勝でした。オーナードライバーである高原氏がメンテナンスも自身のチームで行う万全の体制を構築しての参戦は他のチームを凌駕する強さがありました。また、今回から装着したムーンクラフトのニューカウルの効果が確実なものとなり他のチームでの採用や他のシャーシ用のボディが開発される契機とな