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これまでの話⑪家康は千利休と密かに茶会を開いた。そこで利休に「後はよろしく頼む。」と言われ、困惑するのである。すると利休は突然、秀吉の逆鱗に触れ、京都を追放されるのであった。前田利家、古田織部、細川忠興らは助命に奔走するが、聚楽第で利休は切腹して果てた。秀長、利休がいなくなったことで、「唐入り」を妨害する者はいなくなり、秀吉は征明軍編成に動き出すのであった。一方、小田原征伐の際に定めた「奥州仕置」は忽ち破綻し、各地で一揆動乱が群発する事態となった。浅野長政は蒲生
姫路城日本百名城591346年に赤松則村次男貞範が姫山に築城し、姫山城と称した。1349年から1531年は、赤松氏の被官小寺氏が城代を務めた。1567年から黒田職隆・孝高父子が城代を務めた。1573年、織田信長は秀吉を中国攻めの司令官に任じた。小寺氏は毛利方、黒田氏は織田方に付き、小寺氏は没落した。1577年、孝高は秀吉に姫路城を本拠とすることを進言し、譲渡した。中国攻めの拠点として、城として拡張、城下町も整備されました。秀吉が明智光秀を討ち、天下人となり、大坂城へ移る
9/10で使用期間が終了の「青春18きっぷ」を使い、9/9に「姫路城」(兵庫県姫路市)の「特別公開」を観た後、「姫路駅」から2駅大阪側にある「御着(ごちゃく)城」(兵庫県姫路市)へ足を向けました。「御着駅」に着いたのが15時過ぎでしたので、一番暑い時間帯で、駅から10分の距離でしたが、足は頗る重い感じがしました。「御着城」は、丁度10年前の2014年にNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で、「小寺氏」配下であった時代に良く場面に出たり紹介されたりしていたお城でしたが、今回初めて訪れました。
村重と毛利の関係天正11年(1583)4月賤ヶ岳の戦い(羽柴秀吉VS柴田勝家)の最中、毛利輝元は、物見の立場をとっていた(足利義昭は毛利に対して柴田に味方して秀吉を討てと意見するが、輝元は軍勢を動かさなかった。羽柴秀吉は勝利すると、次は毛利に対して、毛利領土への再侵攻または割譲を迫った。輝元は吉川元春(叔父)、小早川隆景(叔父)と相談をして、秀吉との戦は不利と判断、割譲を決めた、そして同年7月、毛利輝元の使者として安国寺恵瓊、そして毛利家および秀吉方との両方に太いパイプを持つ荒木村重
大濠公園は福岡城の外堀で、入江だった草香江が元となったその名の通り、大きな池が庭園の中核をなしている。池に点在する島がそれぞれ、橋でつながっている。周囲は、ほぼ2km。ジョギングやサイクリングコースとしても市民に親しまれている公園だ。水との調和を基軸にする公園を街の中心部に位置付けることは基本だ。憩うことに思想はいらない。筑前福岡藩初代藩主・黒田長政が、入江の一部を埋め立て、天神から那珂川にかけて、掘られた肥前掘とともに外堀として城の守りのために造られた外堀だ。明治維新により、福岡城が廃城とな
3月20日の歴史黒田孝高死去(官兵衛・如水)慶長9年3月20日黒田官兵衛孝高が京・伏見屋敷で没す享年59播磨国(播州姫路)時代織田家家臣時代豊臣家家臣時代関ヶ原の合戦と多くの功績を残してきた知将であり名将軍師官兵衛伏見城(桃山城)伏見城武家地黒田長政下屋敷跡参考地黒田家伏見屋敷は現在の深草大亀谷ちょうど大亀谷に一番のぼりきった所葬儀は十字架を掲げられた葬列キリシタンの葬儀だったそうですが長政により仏教の葬儀も行われたのです
播磨御着城址(兵庫県姫路市御着)には、孝高祖父・黒田重隆と父職隆室明石氏女の墓塔が建つ。寛政五年1793、現在の兵庫県姫路市御着の御着小寺後裔という、天川久兵衛屋敷内からふたりの墓誌が発見された。かつての黒田主君小寺の居城の近く「筑前様御部屋跡」といわれていた場所。福岡藩は山口武乕を派遣し整備した。武乕は、その際の報告「播磨古事」を著す十年前の天明三年1783秋には姫路城東南の妻鹿(めが)村(兵庫県姫路市飾磨区妻鹿)で、職隆墓石が発見されている。周辺は玉垣(たまがき)を廻らせ、上家(うわや)を
日々、一歌34/365吾妻はや妻問ふ神の、、碓日嶺の励ます駒に吹ぶく粉雪進。碓氷のタケルの命に、、、甲斐より北武蔵から上野をめぐり西碓日坂にいたる。時に日本武尊つねに弟橘姫を顧みる情あり。故に碓日嶺に登り東南を望み三嘆して曰く吾嬬者耶『日本書紀』日々、一歌。思いつき1月15からはじめた。元日からの14歌のうち二首を回収「黒田孝高と千利休」ご報告https://frcodon.yoka-yoka.jp/e2336600.html画/青木繁・素描「ヤマトタケル命」
天海㊳朝鮮国は内紛の多い国で、国論が二分して話がまとまらないことが常である。天正19年(1591年)3月に朝鮮通信使は帰国した。派遣当時、朝鮮王朝の実力者は西人派の鄭澈であった。それで、正使が西人派の黄充吉で、副使が東人派の金誠一であったのだ。ところが帰国すると、西人派の鄭澈は失脚し、東人派の柳成龍が王朝の実権を握っていたのであった。正使の黄充吉が「必ず兵禍あらん。」と日本の侵攻を警告したが、副使の金誠一が「大げさである。」として、これを否定したのである。軍監で同行した
天海㉛秀長は秀吉の生母・仲の再婚相手である「竹阿弥」の子として生まれたという。このため幼少の頃は「小竹」と呼ばれていたようだ。兄・秀吉が14歳で家出をしたとき、秀長はまだ11歳であった。その後、秀長は小一郎と名乗り、地元で農業に携わっていたという。永禄4年(1561年)、秀長22歳のとき、帰村した秀吉に見出され、武士の道に進むことになる。その後、秀長は墨俣城の建築等、秀吉の出世に大いに貢献したようである。傲岸な兄・秀吉と異なり、謙虚な姿勢で人に接したため、多くの
明智秀満(最終話)「このままでは織田家の次期当主は信孝になってしまうのではないか。」と難しい顔つきで秀吉は官兵衛に尋ねた。「何を仰せでしょう、すでに次期当主は明白ではありませんか。」「どういうことだ。」と重ねて問うと、「信長様は先代のご当主であり、今のご当主様は信忠様でした。さすれば次期当主は三法師様以外におりません。」と官兵衛は自信満々に言った。「しかし三法師様はまだ…。」と言いかけて、はたと気づいた。「官兵衛、お前は悪党だな。神輿は軽ければ軽いほど良いのか。
明智秀満(121)「待て、待て、さすれば、本物の殿はどうなさるのか。」と伝五は尋ねた。「殿には光重らとともに、隠し口から南山城の隠れ家に逃れてもらう。そこでご出家いただき、我らの菩提を末永く弔ってもらおうと思う。」と庄兵衛は言った。その話に広間の諸将は沈黙したのである。その沈黙を破ったのは荒木行信であった。「よし、その影武者、オレが引き受けた。」というと、佩楯の隙間から、矢で傷ついた太ももを見せた。「勝ち戦なら、治療も受けられようが、このままではいずれ歩
明智秀満(118)「池田氏家譜集成」『扠、秀吉は十一日(注:実際は9日早朝)姫路を出勢して上られける、池田紀伊信輝兵庫ニ而出向ひ、先公不慮に傷害の事、互に涙せしあへす、ちからを合せて、光秀を討つへしと也、秀吉今より別而入魂の爲なれば秀次を信輝の婿に約し、信輝二男輝政を秀吉養子とぞ盟ける、其日十二日尼崎へ着陣なれば、池田父子、中川、高山、惟住、合し、軍評議有り、扠池田紀伊守信輝剃髪して勝入とぞ號しける、秀吉剃髪、』秀吉の「中国大返し」は分からないことも多い。まず、備
明智秀満(112)「浅野家文書」『右之陣取を筑前不用、後巻而巳堅取巻申候へは城主腹をきり可申と懇望申候へ共、免不申候處、六月二日ニ、於京都、上様御腹めされ候由、同四日ニ注進御座候、筑前驚入候といへども御腹之御供をこそ不仕候共。於此陣者、任本意、城之事は不及申、毛利を切崩刎首申候者、明智退陣之儀は安御御座候と存切、六日迄至逗留、終城主事者不及申、悉刎首候事。』6月3日の夜、秀吉と官兵衛らが話し合っているところに早馬が来た。「火急な書状にて御人払いをお願いします。
明智秀満(111)「黒田家譜」『六月二日、惟任日向守光秀反逆して、其寺を囲みて弑しけり、扨も毛利家にて清水を救わんと謀れども浩水を隔てし上、猛勢にて囲み防きけるは、助くに術なく、宗治に降参せよと下知し、秀吉には孝高に就て、和議を申入りけれども承引なかりしに、同三日、宗治、某一人切腹せは、御本意を遂らるへし城に籠りし者は、助命たまえと乞けれ秀吉其望に任せへしと答られしに、其夜弑逆の変達しけり、』光秀・一益に並び、秀吉は独自の情報網を構築していた。特に安土・京
2023年7月7日から『北から南へ「天守」シリーズ』をスタートさせ、初回の「プロローグ」では「天守」についてのエピソード等をお話をしました。『<北から南へ「天守」シリーズ>プロローグ』本日から、『北から南へ「天守」シリーズ』をお届けしようと思います。まずは「プロローグ」から。「天守」については、3年ほど前に、現存、復元、復興、模擬をグルー…ameblo.jpそして2回目以降は、具体的に「天守(御三階櫓含む)」があるお城を、北から順次、現存・復元・復興・模擬の「天守(御三階櫓含む)
三宅弥平次(80)「信長公記」『戊寅二月三日、磯野丹波守、上意を違背申し、御折檻なされ、逐電仕り、則ち、高島一向に津田七兵衛信澄、仰せつけられ候なり。戊寅二月九日、吉野の奥山中に磯貝新右衛門隠居仕り候を同地の者、頸を切り、安土へ進上致し候。ご褒美として黄金下さる。一度御憎を蒙り候の者、御存分に属さずと云うことなし。戊寅二月廿三日、羽柴筑前守秀吉、播州へ相働く。別所与力、嘉古川の、賀須屋内膳、城を借り、羽柴筑前人数入れ置き、秀吉は書写山に取り上り、要害を構え、居陣な
1580年(天正8年)佐久間信盛、定栄(さだひで)親子に対して19か条の折檻状を送りつける。書面上の日付は8月12日。その内容は、石山本願寺攻略を命じたのに何もせずに手をこまねいているばかり。その間、他の将たちは武勲をあげているというのに、石山本願寺に攻め入るわけでもなく、相談にも来るでもない。そのうえ、勝手な振る舞いが多く、立派な振る舞いはひとつもない。敵を平らげるか、討ち死にするか、どちらかにせよ。頭を丸めて高野山に行き、赦しが出るのを待て。というもの。その後、佐久間家は
豊臣史研究の第一人者で、人物叢書には立花宗茂を著していて豊臣氏の研究をしている人が著した人物では、待ってましたという心持ちになった。表題を見ると、?と思う人もいるかもしれないが所謂「官兵衛」「如水」の名前で名高く、小説もたくさん読まれているし、大河ドラマの主人公にもなっていて稀代の軍師と目されているが、学問上からみると戦国時代に軍師という職責に当たった人間はいないようだ。そうした虚実交わる話に塗れた黒田如水の生涯を、一次資料から再構築していく試みを行ったものだ。兎角、学術的な本は面
こんばんは、mmm(まーママ)です。12月3日(土)張り切って、こちらに到着。福澤諭吉旧居・福澤記念館大分県中津市留守居町586オープンしてるはずの時間なのに、門が開いてないよ改装に伴う休館のお知らせが、暖かくなったら、また来まーす。気を取り直して、こちらへ。中津城(奥平家歴史資料館)大分県中津市二ノ丁本丸入場料大人400円ちなみに、旧奥平家(中津城最後のお殿様)と中津藩士の子孫の方は無料でお城に入れる
永瀬廉『新・信長公記』、原作と「別モノ過ぎ」で大失敗?「俳優のムダ使い」の声も…エキサイトドラマ公式サイトよりKing&Prince・永瀬廉が主演する日本テレビ系日曜ドラマ『新・信長公記~クラスメートは戦国武将~』が24日より放送スタートとなった...三条夫人(武田信玄の正室)は本当に高慢ちきな公家の姫だったのか?-BUSHOO!JAPAN(武将...BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)一般に、戦国時代の公家というと、マイナスイメージを伴って描写される傾向にあります。
やっと雨が上がりましたね。黒田孝高(黒田官兵衛)生年月日1546年12月22日(水)日干支癸未同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・なし
所在地大分県中津市二丁目城主黒田氏~細川氏~小笠原氏~奥平氏時期天正十六年~明治四年訪城紀行中津城には昼前に着く。中津城公園の駐車場に車を止め模擬天守の奥平家歴史資料館に入館しようと天守に向かって行くと大勢の人が集まっていた。「中津のひなまつり」のイベントで「人間雛飾り」が開催されていた。一度、車まで帰り積んできていた自転車に乗り、城下を探索する。自性寺(じしょうじ)中津市歴史民俗資料館,合元寺(ごうがんじ)、西蓮寺、などを見学した。今回の「城巡り
ヤバいなこれ荒牧慶彦@ara_mackey全公演、無事に駆け抜けられるよう修行先から見守っている。行ってらっしゃい。#刀ステ2022年03月19日11:45最初に気づいたのが長義ってのもさすがの末満脚本どこかで会ってた気がするのも道理天正遣欧少年使節サトちゃんがもっとも活舌良くて耳に心地よく響くの嬉しい第2部期待してます刀ミュ内、静かの海のパライソは2020年3月が初演綺伝も科白劇じゃない形で2020年7月に公演する
本日の「天守台シリーズ」は、第91弾「名護屋城」(佐賀県唐津市)です。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守
本日の「天守台シリーズ」は、第87弾「福岡城」(福岡市中央区)です。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台
「天守台シリーズ」第59弾は、「姫路城」です。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケース
2021年7月博多ぶらり旅、福岡市博物館特別展に続いて企画展に行ってきました企画展示室1は「戦争とわたしたちのくらし」、金属回収やエネルギー資源の節約、代用品の利用など「モノ不足」がテーマでした。(会期は9月5日まで)金属回収と言えば能勢妙見山の「戻り馬」、代用品といえば甲賀市信楽伝統産業会館の地雷や手榴弾…。企画展示室2黒田記念室は「天下取りと黒田孝高・長政」がテーマでした。(会期は9月5日まで)国宝の刀名物圧切長谷部と太刀名物日光一文字、重文の刀名物安宅切が展示されていま
只今、「近畿地方」以西の西日本の「櫓門」をお届けしています。「櫓門」といえば、「門」と「櫓」を兼ね備え、特に「大手」等の重要箇所を固めた最強の門でした。東日本の「櫓門」の総集編はこちらからご覧ください↓『<東日本のお城>の”櫓門”前半総集編』5月9日から始めた「櫓門」シリーズは、「東日本(※)」のお城42城の「櫓門」をお届けしてきました。(※)東日本、西日本は、「中部地方」で東西を分けました。こ…ameblo.jp『<東日本のお城>の”櫓門”後半総集編』5月9日から始めた「櫓