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金丸家之墓金丸重嶺(かなまるしげね)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の写真家、写真評論家、写真教育者である。日本のコマーシャルフォト(商業写真・広告写真)の草分けとして知られ、新しい写真表現の普及と後進の育成に生涯を捧げた。1900年、宮内省宮内官などを務めた佐賀出身の国学者、金丸俊胤の子として東京・麻布に生まれた金丸重嶺は、義兄の写真館で写真を学び始めた。当初は会社員として働いていたが、1920年代半ばに本格的な写真の道へ進む。1926年には鈴木八郎とともに、日本初とされる商
波多野家之墓墓誌波多野敬直(はたのよしなお)は、明治・大正期の司法官僚、政治家である。第1次桂内閣で司法大臣を務め、のちに宮内大臣として宮中の制度整備や儀礼を管轄するなど、法制と宮政の両面で近代日本の基礎固めに尽力している。嘉永3年(1850)、肥前国小城郡(現在の佐賀県小城市)に小城藩士の長男として生まれる。藩校・興譲館や熊本の木下塾で学んだ後、大学南校(東京大学の前身)でドイツ語を学び、明治6年(1873)に司法省へ出仕。十二等判事を皮切りに法曹界のキャリアを歩み始めた。
渡辺洪基渡辺洪基(わたなべひろもと)は、幕末から明治時代にかけて外交、教育、行政など幅広い分野で近代日本の基盤を築いた官僚・政治家・教育者である。号は浩堂、旦堂。初代帝国大学(現・東京大学)総長を務めたことでも知られている。弘化4年(1848)、越前国武生(現在の福井県越前市)にて蘭方医・渡辺静庵の長男として生まれる。地元の藩校などで学んだ後、佐倉の佐藤舜海に蘭方医学を学び、さらに江戸に出て開成所や福沢諭吉の慶応義塾で西洋学・英学を修める。この青年期における幅広い学びが、後に国際的
旧会津藩士の墓の碑樋口光寛西麻布の長谷寺にある墓地の石垣で囲まれた一画に、「境内墓地に散在せる旧会津藩士の空墓をここに集む」という碑が建っている。文字通り、墓地に点在していた旧会津藩士の墓を集めたものであるが、墓石の多くが樋口姓であることから、樋口家の墓所に他の墓を改葬したものと推察できる。会津藩士の樋口光寛は、藩主容頌の信任を受け、小姓より奥番・近習番頭取・金山奉行・公事奉行・郡奉行を歴任している。その間天明3年(1783)の大飢饉や、寛政元年の南山諸村直訴問題、同5年越後の
盛田昭夫盛田昭夫は、井深大とともにソニーを創業し、同社を世界的なエレクトロニクスブランドへと育て上げた日本を代表する実業家である。技術者出身でありながら、井深が「開発の天才」であったのに対し、盛田は「マーケティングと経営の天才」と称され、優れた経営感覚で戦後日本の高度経済成長を牽引していった。盛田は大正10年(1921)、愛知県名古屋市に生まれる。実家は300年続く造り酒屋「盛田家」で、15代当主としての将来を期待されていたが、幼少期からラジオや蓄音機などの機械に強く惹かれ、第二次世
寺原長輝寺原長輝の墓寺原長輝(てらはらおさてる)は、明治から大正期にかけて警察・内務官僚として活躍し、のちに知事や貴族院議員を歴任した政治家である。安政2年(1855)、薩摩国伊佐郡(現・鹿児島県伊佐市)に寺原用右衛門の三男として生まれる。若くして上京し、明治7年(1874)に陸軍省に出仕すると、同年、台湾出兵の収拾のために渡清した大久保利通に随行している。その後は警察官僚としての道を歩み始めたが、警察官としてのキャリアの初期には、大きな事件に巻き込まれている。西南戦
沖雅也1970年代から1980年代前半にかけて活躍した俳優の沖雅也(本名:日景城児)は、クールで端正な容姿と確かな演技力、183cmの長身を活かしたシャープなアクションで人気を博し、昭和のテレビドラマ・映画界を代表するスターの一人として親しまれていた。大分県別府市出身。出生時の名は、楠城児といった。両親の離婚を機に、中学卒業前に家を飛び出し単身で上京。様々なアルバイトを経験した後にスカウトを受け、ファッションモデルとして活動を開始する。1968年、16歳の時に映画『ある少女の告白
杉田定一杉田定一は、明治から昭和初期にかけて活躍した自由民権運動家で、衆議院議長なども務めた政治家である。板垣退助らとともに近代日本の政党政治の基礎を築いた中心人物のひとりとして知られている。号は鶉山(じゅんざん)。嘉永4年(1851)、越前国坂井郡波寄村(現在の福井県福井市)の豪農の長男として生まれ、幼少期から学問を修め、明治維新後は大阪や東京で洋学などを学ぶ。明治8年(1875)頃、上京し、新聞記者として藩閥政府を強く批判する言論活動を展開するが、論説記事による筆禍(ひっか)
山田家の墓所山田為暄は、明治時代の日本の内務官僚・政治家であるり、福岡県知事、大分県知事、警視総監、貴族院議員などを歴任している。天保13年(1842)、薩摩藩士・園田八右衛門の四男として生まれ、のちに江戸詰めの薩摩藩士である山田壮右衛門為正の養嗣子となる。明治7年(1874)の台湾出兵(台湾蕃地事務都督府徴集兵小隊長)に従軍後、明治9年(1876)に兵庫県警察に勤務し、同県警部長などを歴任。その後、高知県少書記官などを経て官僚としてのキャリアを重ねていく。明治25年(18
出羽湊利吉の墓(佐藤家之墓)側面出羽湊利吉は、昭和初期から戦中にかけて活躍した大相撲力士。名門・出羽海部屋に所属し、最高位は東関脇まで進んでいる。出羽湊利吉(本名:佐藤利吉)は、明治40年(1907)、秋田県南秋田郡土崎港町(現在の秋田市土崎港)に生まれ、大相撲の巡業が秋田へやってきた際にスカウトされ、出羽海部屋へ入門した。昭和3年(1928)5月場所に初土俵。郷里の「土崎港」に因んだ「土ヶ嵜」の四股名でスタートしたが、当時は素人相撲特有の癖が抜けず苦労したと言われている。
三代目朝潮太郎第46代横綱である三代目朝潮太郎(本名:米川文敏)は、昭和30年代の相撲界で活躍した高砂部屋所属の人気力士で、引退後は、部屋を継承して多くの優秀な力士を育成している。「朝潮太郎」は、明治初期に創設された大相撲の名門「高砂部屋」で、草創期から引き継がれてきた伝統の四股名である。昭和4年(1929)、兵庫県武庫郡(神戸市)で生まれ、鹿児島県徳之島で育つ。終戦直後、米軍統治下にあった奄美から船で密航して高砂部屋に入門するという異色の経歴を持っている。そのため当初、番付には
小野寺家の墓墓誌小野寺百合子は、第二次世界大戦中に夫の小野寺信(陸軍駐在武官)とともに過酷な情報戦の最前線を生き抜き、戦後は一転してスウェーデンの児童文学(『ムーミン』シリーズなど)の翻訳や、北欧福祉の研究者として活躍した女性である。明治39年(1906)、東京(現在の渋谷区周辺)に生まれる。父は黒羽藩藩主・大関増徳(増式)の六男、一戸寛(陸軍大将一戸兵衛嫡養子)。東京女子高等師範学校附属高等女学校専攻科(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)を卒
小野寺家の墓墓誌小野寺信(おのでらまこと)は、第二次世界大戦期に情報士官として北欧の中立国スウェーデンを拠点に活躍し、「諜報の神様」と称された陸軍将校(最終階級は陸軍少将)である。明治30年(1897)、岩手県胆沢郡前沢町(奥州市)に生まれた小野寺は、陸軍士官学校および陸軍大学校を卒業後、主にロシア(ソ連)分野の情報分析に関わる。1930年代後半にバルト三国(ラトビアなど)の駐在武官を務めた際、バルト三国の重要性を認識した小野寺は本国にかけ合い、隣国のエストニア・リトアニア公
船坂家(大盛堂)の墓墓石に刻まれた名前渋谷スクランブル交差点の一角にある「大盛堂書店」は、戦後創業の日本初の「総合ブックセンター」といわれている。創業者は一般的には旧陸軍軍人の舩坂弘といわれているが、西麻布の長谷寺にある船坂家墓所の墓石には、弘の義父である船坂米太郎について、「日本で最初の本のデパート株式会社大盛堂書店創設者」と刻まれていた。「大盛堂書店」は、船坂米太郎が大正期に創業した書店で、弘がそれを大型店に業態変更したというのが正しいようだ。米太郎は、大正時代に活動した出版
舩坂弘の墓(右側)舩坂弘は、陸軍軍人で、剣道家、そして書店を経営する実業家としても活躍した人物である。東京都渋谷区の渋谷スクランブル交差点の一角にある「大盛堂書店」は、大正時代創業であるが、戦後、日本初となる「総合ブックセンター」、つまり、一つのビル全てを店舗とした大型店として業態変更している。なお、「大盛堂書店」では、この業態を「本のデパート」と称していた。この、「本のデパート」へと業態変更したのが、二代目の舩坂弘である。舩坂は、元大日本帝国陸軍の軍人(最終階級は陸軍軍曹)で、
野呂栄太郎野呂栄太郎は、大正から昭和初期にかけて活躍した日本のマルクス主義経済学者で、戦前の日本共産党指導者でもあった。わずか31年という短い生涯であったが、日本資本主義の発達過程を独自の視点から分析し、後世の歴史学・経済学に決定的な影響を与えた『日本資本主義発達史講座』の企画・編纂を主導したことで知られる。明治33年(1900)、北海道生まれ。幼い頃から学業優秀であったが、小学生の時に関節炎のため片足を切断。また、結核を患い、生涯を通じて病魔との闘いを強いられることになる。慶應
黒田清綱・清輝親子の墓黒田清綱は、明治大正期の政治家で、歌人としても活躍。近代日本の官僚機構の基礎を支えながら、伝統的な和歌の美を追求し続け、文武双方に足跡を残した人物である。また、日本を代表する洋画家・黒田清輝の伯父で養父としても知られている。天保元年(1830)、薩摩国(現在の鹿児島県)で、薩摩藩士・黒田清兼の長男として生まれる。通称は清左衛門、のちに勘解由(かげゆ)と称す。幕末の混迷期、清綱は藩主・島津斉彬に重用され、斉彬の死後、島津久光の側近として国事に奔走。京都留守居役
黒田清輝近代日本の美術に大きな足跡を残した洋画家の黒田清輝は、慶応2年6月29日〈1866年8月9日〉、薩摩藩士黒田清兼の子として生まれ、後に伯父の子爵・黒田清綱の養子となった。黒田家は福岡藩主家黒田家の遠縁にあたるといわれている。東京外国語学校を経て、法律を学ぶため明治17年(1884)にフランスへ留学するが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、後に良き理解者となる美術商の林忠正らと出会い画家となる事を決意。1886年にフランスの著名な画家ラファエル・コランに師事する。九年間にわたる留学
伊澤蘭軒の墓(中央)説明板伊澤蘭軒は、江戸時代後期の高名な医師、儒学者、考証家である。名は信恬(のぶさだ)、通称は辞安、号を蘭軒と称した。蘭軒の生涯や人間関係については、文豪・森鷗外が長編史伝小説『伊沢蘭軒』で詳細に描き、広く知られている。蘭軒は安永6年(1777)、備後福山藩(現在の広島県福山地方)の藩医の子として、江戸の本郷に生まれ、自身もその跡を継いで藩医・儒官として活躍する。医学のみならず、儒学や本草学(中国伝統の薬物学)にも深く通じ、当時、最先端の「考証学」(客観
阿久悠昭和の歌謡界を代表する作詞家であり、小説家、放送作家としても多大な足跡を残した阿久悠(あくゆう、本名:深田公之)は、時代の空気を鋭敏に捉え、人々の心に寄り添う数々の名曲を生み出した人物である。その生涯は、日本の戦後大衆文化の変遷とその発展に深く重なっている。阿久悠は昭和12年(1937)、兵庫県淡路島に生まれる。明治大学文学部を卒業後、広告代理店で『月光仮面』や『快傑ハリマオ』などラジオやテレビの番組製作も手掛けた「宣弘社」の宣伝部(現:電通アドギア)に就職。主にテレビCMの
榎本健一「エノケン」の愛称で広く親しまれ、昭和初期から中期にかけて圧倒的な人気を誇った喜劇王・榎本健一。彼は、日本のモダン都市文化の開花とともに現れ、舞台、映画、ラジオを通じて戦前・戦後の日本人に笑いと活力を与え続けた不世出のエンターテイナーである。榎本は明治37年(1904)、東京市赤坂区青山(現在の港区青山)に生まれる。幼少期から風変わりで目立ちたがり屋だった彼は、大正時代に一世を風靡した「浅草オペラ」に魅了され、大正8年(1919)に「根岸歌劇団」のスター歌手である柳田貞一に弟
井上馨明治政府の重鎮で、近代日本国家の形成に多大な足跡を残した井上馨は、天保6年11月28日(1836年1月16日)、周防国(山口県)の長州藩士の家に生まれる。一時、藩士の志道(しじ)家の養子となり、名前も藩主毛利敬親より小姓を務めていた際に賜った聞多に改めたが、後に井上家に復帰している。やがて、尊王攘夷運動に身を投じ、文久2年(1862)には、久坂玄瑞らとともにイギリス公使館焼討ち事件に参加。長州藩の将来を憂い、翌文久3年(1863)には、伊藤俊輔(伊藤博文)らと共にイギリスへ密航
松の内も過ぎ、お正月気分もどこへやらなんですが、私は、会社の有休取得推進を含め、12/29~1/8まで、連続11日休み、明日から仕事開始となります。でも、年末年始の休みが長いのも考えもの。明日からの仕事する気力湧いて来ないです出来る事なら、ずっと、仕事せずに、全国各地の神社仏閣を参拝出来るような身分(お金持ち)になりたい~という戯れ言は置いといて、最近、気付くと、参拝は、お寺と神社、お寺7割、神社3割で、どちらかといえば、お寺多め。お寺行って、仏様を拝すると何か落ち着く(前世、どこかで、僧侶
桜井識子さんの、こちらのブログを読みまして‥‥思い出しました。最近も、こちらと同じような事がありました。『Hello!mydoctor?』先週末、母方の先祖墓参りを取り止め、時間が出来たので、favoritetemple(←何故、英語?( ̄ー ̄))西麻布の長谷寺様に伺って参りました。⬇お馴染み…ameblo.jp実は、最近、左かかとが痛くなる足底筋膜炎というものになりまして、本当に、歩くのが辛くて辛くて、治すには、歩かずに安静にしているのが一番なんだそうですが、仕事行ったり、
既に桜も散ってしまいましたが、毎年、何故か、この桜の時期に行く事が多い高麗神社です。(埼玉県日高市)各地、桜の美しい場所はありますが、高麗神社の参道の桜も美しいですカレンダーの4月の写真に出てきそうな景色ですねだけど、境内には桜はないというこちらの神社は、本当に、スッキリした気が流れていて、ついつい長居をしてしまう神社なのです😆🎵🎵そして、こちらも大好きな奥多摩の今熊神社こちらは、桜ではなく、この時期は、ミツバツツジで有名なのですが時期によっては、桜とミツバツツジが一気に見れます
今日は曇り時々雨、太陽が照ってると暑くて出歩けないので思い切って麻布の長谷寺へ東京散歩に行って来ました。ここは長谷寺と書いて、ちょうこくじと読みます。こちらも巨大な十一面観音菩薩様がいらっしゃいます広尾駅を降りて15分くらいの道のりです。福井県にある曹洞宗大本山永平寺の東京別院となります。このお堂の中にいらっしゃいました。高さ3丈3尺(約10m)【奈良】長谷寺、【鎌倉】長谷寺の観音像とともに日本三大観音の一つとうたわれたそうです。鎌倉の長谷寺とは違い
麻布長谷寺の観音堂の改修工事も終わり、待ちに待った麻布大観音様に会いに行きましたもう、かれこれ、半年以上、お目にかかれていなくて、会ったら、あれも話そう、これも話そうと思って行ったにも関わらず、そのお姿を見たら、もう、何も言えなくなってしまい、ただただ、見つめるのみ。そんな私を見て、クスッと笑われてるようにも見えますあぁ、でも、お会いできて、本当に嬉しかったです🎵😍🎵また、近いうち…と、言っても、年内は、難しそうなので、ひとまず、一年のお礼をお伝えしました。来年、早めに参詣させていた
先日、麻布の長谷寺、桜井識子さんのブログをリブログさせていただき、その際、現在、観音堂が、工事中と、お伝えしました。その時は、まだ、シートに覆われていた観音堂ですが、今日、伺ったら、シート取れていました。(まだ、中には、入れませんでしたが)でも、丸い窓から、大観音様が見えて、思わず、きゅん12/18より、お参り出来るそうです🎵待ち遠しい~🎵青柳黎子(あおやぎれいこ)著つむぎ書房より、2021.11.15小説「私はここにいる」Amazonに
私の大好きな麻布大観音様。わーい!またまた、識子さんも行かれたんですね(3年前に発売した拙著と、案外、かぶってる場所、多いかも~🎵)でも、本当に、優しい癒しの観音様です🎵行かれた方は、絶対、好きになると思います。(先日も書きましたが、12月迄、お堂は工事中なので、観音様にお会い出来るのは、早くて年末位かなぁと思います行かれる方は、ご留意ください。)長谷寺の少し前の様子です青柳黎子(あおやぎれいこ)著つむぎ書房より、2021.11.15発売小説「
かれこれ3ヶ月以上、お会い出来ていません。会いたくて、会いたくて、あなたの事を思うと、身悶えしてしまう程、大好きなあなた(ToT)ええ、今は、我慢します。あなたの居場所が美しくなる迄、私は耐えます。また、美しくなったら、いの一番で会いに行きますからね❤という事で、私の大好きな麻布の長谷寺の大観音様のお堂は改修工事中でございます。(;∀;)観音様にも会えないのが、切ないです~年末には、綺麗なお堂になるそう。早く、会いたい笑