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2022年10月18日(火)金毘羅往来(岡山)「岡山~早島」(1)つまみ食い街道の旅(GSV)江戸時代中ごろから流行した四国金比羅参詣。この参詣のための道は金比羅往来と呼ばれた。金比羅大権現は、商工業者、農民など広く信仰を集め、諸国からの参詣者が集まるようになり、往来の沿線には、旅籠や茶屋ができた。往来は、岡山城下を起点として旧山陽道を通り吉備津・庭瀬を経由するルートと大元・米倉・妹尾経由するルートとがあった。これらは、早島町内の市場地区付近で交わり、まち筋を横断、弁
2022年10月16日(日)鴨方往来「金光~笠岡」(3)つまみ食い街道の旅(GSV)倉敷市から浅口市金光町に入る。浅口市は、2006年3月、浅口郡鴨方町・金光町・寄島町の3町が合併して発足したまた、金光教の発祥地・本拠地としても有名であり、正月や祭事の際は金光教本部周辺は多くの参拝客で賑わう。歴史1672年(寛文12年)-岡山藩主池田光政の二男政言(まさこと)が25,000石で鴨方藩を立藩。備中国浅口郡、小田郡、窪屋郡を領有し陣屋を鴨方に置いた。通称、岡山新田藩。
2022年10月14日(金)鴨方往来「倉敷~金光」(2)つまみ食い街道の旅(GSV)県道73号を横断すると、岡山市北区撫川から、倉敷市下庄に入る。川崎医療短期大学前のY字路は、左。その先に、「距岡山元票」右手に、「庄郵便局」(倉敷市松島)県道186号を横断。「両子神社注連柱」左に行くと、JR中庄駅。県道187号の高架をくぐる。用水路(六間川?)沿いの道を行く。細い道となってゆく。「山陽自動車道の高架をくぐる。県道1
2022年10月12日(水)鴨方往来「岡山~倉敷」(1)つまみ食い街道の旅(GSV)鴨方往来は、岡山城下から庭瀬、倉敷、金光、鴨方、笠岡などを経由して、広島県福山に至る道で、岡山藩六官道の一つ。岡山藩六官道とは、鴨方往来、金毘羅往来、松山往来、津山往来、倉敷往来そして牛窓往来。岡山藩六官道の起点は「千阿弥橋跡」。表町二丁目(北側)と表町三丁目(南側)の境目の十字路にあった。南に進む(山陽道と重なる)。西大寺商店街のサーカスドームの十字路(岡山市表町3
連休中は人ごみを恐れて遠出を避けていましたが、連休明けの今日、笠岡ベイファームに行ってきました。到着すると一面のポピー。これが満開でなかったら何をもって満開というのか世の中が信じられなくなるくらいの満開。さすががは広い笠岡湾干拓地。この咲きっぷりは日本有数だと思いますよ。ちょっと高いところから見渡してもずーっとポピー。休日でないので人もまばらでちょうどいい。近
岡山県浅口市ドライブの続きです鴨神社の大鳥居が面する道には江戸時代の町屋が並んでいましたこの『旧高戸家住宅』は油商として栄えた家で貞亨4年(1687)に修理をした棟札が残る岡山県で一番古い町家です(県指定重要文化財)店は正面十間、側面四間、中二階建て鴨方藩主の宿泊所で当時の文化人たちが集うサロンだったようです裏手にまわるとかもがた町屋公園として整備されていてこの土蔵は安政3年(1856)に建てられたもの離れ座敷の礎石も残っていましたこちらは旧高戸家のお庭こちらは住居部
鴨方往来歩きで見たマンホール蓋をまとめてみました。岡山市庭瀬地区のマンホール蓋。撫川うちわのデザイン。撫川うちわは、寛文年間に庭瀬藩の家臣たちが内職として作り始めたのが起源とされ、雲の模様のように見える俳句を詠み込んだ文字で、歌継ぎといって2枚の紙を貼り合わせています。絵柄は、句に合わせて透かし技法で配置する優雅な仕上がりになっています。旧船穂町のマンホール蓋。桜の花びらの中に名産のマスカットがデザインされています。浅口市のマンホール蓋。旧金光町、旧鴨方町、旧寄島町のマンホールデ
鴨方往来を歩く四日目(里庄~大門)2019/05/04後半の続きから終点福山までを歩きます。この日が鴨方往来歩きの最終日です。大門駅から街道筋に向かいます。09:35:56街道に復帰して西に進み、大門八幡神社の手前で右に分岐し、坂を上って行きます。09:46:49坂道を登っていくと銀河学院があります。こりゃまた壮大な学校名ですなあ。09:52:39正門横のフェンスの中に「此処に大津野分校」と刻んだ石碑があります。統廃合されたかつての中学校。09:53:16福山
鴨方往来を歩く四日目(里庄~大門)2019/05/04前半に続いて後半です。小田県庁跡から往来に復帰し、西に進みます。ここが日本画壇の重鎮だった小野竹喬の生誕地。西に向かって行きます。進んで行くと稲荷宮があり、その隣に威徳寺があります。境内に代官井戸平左衛門の墓があります。享保の飢饉のとき彼の管轄する地域では一人の餓死者もださなかったという有徳の人。威徳寺の手前から街道に戻って西に進み、山陽線のガードをくぐります。2号線に出て、金浦
今日は、鴨方往来を歩く三日目(玉島~里庄)2019/05/01後半に続いて四日目の鴨方往来歩きです。里庄駅から街道の前回終着点に向かいます。9:25:23下を見れば里庄町のかわいいマンホール蓋。9:27:49街道復帰してしばらく歩いてかすみ保育園の裏側を通ります。9:34:09表に回ってみた。立派な保育園ですなあ。9:34:54数分歩いて高架の下をくぐります。9:37:27ゆるくカーブを繰り返しながら進んでいきます。9:41:24くねくね。9:42
鴨方往来を歩く三日目(玉島~里庄)2019/05/01前半からの続きです。磐石神社の先を5分ほど行くと正面の池の土手下に常夜灯があります。12:15:05池の土手に上がり池の南側を進みます。12:18:10池の西南角に「水分神」と書かれた石碑があります。12:21:19池の先にもう一つ小さな池があり、その池の西角の樹の下に地蔵尊があります。12:28:01道を渡って鴨方町に入ります。12:29:39鴨方町のマンホール蓋。12:31:22右手に常夜灯
令和になって最初の街道歩きは、鴨方往来を歩く二日目(中庄~玉島)2019/04/28後半からの続きを歩きます。新倉敷駅から前回の終着点に向かいます。9:14:0060号線を横断して西へ進みます。左に行くのは玉島往来と高瀬遠し。その先は玉島港です。9:24:19さらに進むと右手に「近代足袋亀山商店」。船穂は足袋の産地。9:30:29400メートルほど進んだ次の分岐は右のやや細い道に進みます。9:35:21感じのいい裏道を行きます。9:44:30しばらく
鴨方往来を歩く二日目(中庄~玉島)2019/04/28前半に続いて後半です。少し先に進みます。左手に上町公民館があり、地蔵尊の祠などがあります。11:50:15右手に遍照院の朱塗りの三重の塔が見えてきます。室町時代前期の建設、重要文化財(国指定)です。11:54:26遍照院の境内。11:55:07境内の庭。11:56:04先に進むと右手に恵比須宮。12:01:20すぐ先に熊野神社参道の鳥居。12:02:05左角に小さな道標「第八十三番道」があります
鴨方往来を歩く一日目(千阿弥橋~中庄)2019/04/26後半からの続きです。前回の終着点中庄駅から往来筋に向かいます。8:58:58街道に復帰しました。県道186号線を交差点で渡ったところの右手に常夜燈、石碑、祠があります。真ん中の板碑には「南無阿弥陀仏三界万霊塔」とあります。9:05:08西に向けてそのまま道なりに進み、用水路(六間川)にぶつかって用水路の右岸をさらに西に進みます。9:07:54先に進みます。対岸に祠があります。9:18:11山陽自動車
鴨方往来を歩く一日目(千阿弥橋~中庄)2019/04/26前半からの続きです。国境石から10分ほど進むとと左手に北向地蔵尊があります。右横に地神塔、左横に牛馬神の石碑があります。13:04:27北向き地蔵尊のお堂から少し歩くと前方に踏み切りが見え、合流する道の向こう側に大覚大僧正石碑や題目碑があります。13:08:15庭瀬往来の説明。鴨方往来のうち、庭瀬までの間を庭瀬往来と呼んでいます。13:10:38庭瀬東踏切を渡ります。13:11:34火の見櫓の
昨年歩いた牛窓往来(⇒コチラ)に続き、今回は鴨方往来を歩くことにしました。鴨方往来は、岡山城下から庭瀬、倉敷、金光、鴨方、笠岡などを経由して、広島県福山に至る道で、岡山藩六官道の一つです。出発点に向かう途中、岡山駅前の路面電車の停留所にチャギントンが止まっていました。人気です。9:41:58表町(旧栄町)まで歩いて、千阿弥橋跡から歩き始めます。江戸五街道は日本橋が起点ですが岡山藩六官道の起点は千阿弥橋です。時計台に向かって南に進みます。10:09:01時計台の角を右折。西大寺
【特別例会の開催】3月17日(日)9:00~17:00鴨方往来の石碑・灯籠の散策集合:岡山市北区上中野1-3-10宗忠神社黒住教駐車場
フェニキア人が歴史上いかに重要だったか説明しようグノシーカルタゴの遺跡歴史研究に、史料は不可欠です。ですが史料というものは、本質的に勝者による記録です。敗者の記録は、廃棄されてしまうことも多く、そうなると...「お茶」と世界の歴史の意外にも深すぎる関係Yahoo!ニュース-Yahoo!JAPAN私たちは人類の歴史について、よく知っている。少なくとも、そう思っている。しかし.歴史は繰り返されるのか…戦国将棋界、次の覇者は?Yahoo!ニュース-Yahoo!JA
江戸時代の岡山藩と鴨方支藩(二万五千石)を結ぶ官道だった「鴨方往来」。今回は鴨方往来の中心地を初めて散策しました。岡山県南西部にある鴨方は、江戸まで182里!かもがた町屋公園(旧高戸家住宅)へ油商を営んでいた旧高戸家は、1687年の修理棟札から築後300年以上の県最古の貴重な町家として、「岡山県重要文化財」に指定されています。江戸時代には鴨方藩主の宿泊所として、また文人達の交流サロンとしても人気だったようです。明治4年(1871)郵便事業創業当時と同じ型