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5年ぶりに鳥羽水環境保全センターの「鳥羽の藤」一般公開!4月19日(金)~21日(日)の三日間。19日は用事があったので20日、しかし予想以上に家族連れが多い。そう、土曜日なので学校が休み。その上天候には恵まれず曇り空。結局21日は雨が降っていたのでので、結果良かった?120メートルに及ぶ藤棚は壮観であるが、人が入らない状態で藤棚を撮るのは基本無理。120メートルはひたすらカメラをオフにして観覧。奥の休憩場の藤棚は撮影ポイントがあるが多くあるが、
将軍・徳川家茂の死。長州征伐の事実上の敗戦。そんななか八郎は江戸へと戻ってくる。家茂が養子に迎えた亀之助は幼く次の将軍にさせることができないため、混乱する幕府。そして、選ばれたのが最後の将軍・徳川慶喜。だが、混乱は戦火となり、鳥羽伏見の戦いが始まる……。『MUJIN-無尽-12』岡田屋鉄蔵著とうとうここまで来てしまったかぁと(つд⊂)エーン八郎にとってつらい日々の始まりですからね。幕府遊撃隊もできるし、その一員になるし……。(命令だからなる
【4月6日】京都市伏見区にある浄土宗長円寺さんへ。直書き御朱印は不定期の為、開催日はTwitterで確認・申し込み制になっています。閻魔札朱印。
只今、ブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞り、具体的な写真をお届けしています。「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたっては、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全国の
桜の季節今年は遅め4/1蹴上インクランクの桜を見に。まだ咲き始め。もう少ししたら、満開の桜ですね〜しばらく歩いて南禅寺へ中には素敵なお庭の空間がその後、予約しないと食べれない京都離宮「だし巻き玉子」やさんへ地下鉄烏丸線蹴上駅から今回、京都離宮を京都御所と間違えて今出川駅で降りてしまう。駅で再度調べたら住所が違う駅から歩いてすぐかと思いきや、徒歩2時間と表示され驚く!ハプニングタクシーで移動4000円ナリ。お弁当の予約時間には間に合いました。※京都離宮とは桂離宮
今日も冷たい風が吹く1日でしたが、明後日から雨というので今日しかない!と、京都にお墓参りに行ってきました最近は、平日でも京阪電車は始発からいっぱいで、京都人気は復活してるなあと思いました実は、父の実家近くは、今、淀の河津ザクラが有名になりもう見頃は過ぎているんですが、海外の方がたくさん訪れておられました。それなりの写真は撮れましたがやはり、もう葉桜になっている木も多かったですでも、やっぱり綺麗な河津ザクラでしたこの川沿いに菩
(★)以前紹介したこの書の後継、あるいは番外編といえるか。最後の函館の市街戦で傷病者の治療、保護に当たった函館病院の存在が印象深かった。その病院の頭取をしていた医師が本書の主人公である高松凌雲だ。文藝春秋から連載小説の執筆依頼を受けた吉村さんは、以前からある北方史研究家から凌雲について書くことを薦められていたこともあり、すぐにその研究家から資料を取り寄せたという。前半1/4ほどは、1860年代に渡仏、医学を学ぶ機会を得たことに費やされる。大坂で緒方洪庵の適々斎塾に入門、オランダ語を身に
長円寺の前にある淀水路には3月になると河津桜が咲きます。地元では有名な桜のスポットですがそんな中に鳥羽伏見の戦いの史跡があることはあまり知られていません。『河津桜』桜の季節で一番最初に咲くのは河津桜でしょうか。去年は数値も安定しておらずコロナのこともあったため見たくても人混みにはいかないようにするためいわゆる季節のイベ…ameblo.jp薩長を中心とする新政府軍が錦の御旗を掲げたことで旧幕府軍は混乱します。会津藩や新撰組な
淀の河津桜並木沿い。長円寺。戊辰之役東軍戦死者之碑。榎本武揚の書鳥羽伏見の戦い幕府軍野戦病院の地。新撰組一番隊組長沖田総司え〜法事檀家さんしか入れない。。。しょうがないです。写真だけ。(ネットでいただきました)閻魔さんがおられて、写真もOKだって〜。残念。動物供養。幕軍、新撰組ファンにはたまらんやろうなぁ。しょうがない、退散します。『令和6.3.9.淀の河津桜』淀駅前。河津桜咲いてます淀と言えば、淀城京都競馬場いえいえ、河津桜です淀駅から数分あるいて
城南宮観梅の旅の後編です。今回は城南宮の観梅が中心です。(2024年2月27日の撮影です)侘助椿の紅侘助です。花付きは良く、多数小輪の花が付く品種です。茶花として愛用されています。城南宮|京都の南、方除け・厄除けの祈祷、車のお祓いの神社。巫女が神楽を舞い、庭園は花と紅葉の名所です京都の南、方除け・厄除けの祈祷、車のお祓いの神社。巫女が神楽を舞い、庭園は花と紅葉の名所です。www.jonangu.com城南宮のしだれ梅です。城南宮の社殿の西に広がる「春の山」の梅です。
今日は2024年2月27日(火)です。0227は新選組の日です。下記参照↓===================僕は2008年7月に北海道旅行をしました。その時に函館にある五稜郭に寄りました。過去記事です。↓==========2008年7月31日鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争。その最後の戦いの舞台となったのが五稜郭です。武本武揚率いる幕府軍の中には、新撰組副隊長の土方歳三もいました。史跡と五稜郭公園は公園として開
今日は2024年2月17日(土)です。僕は旅番組が好きです。今日は「一度は行きたい」「日本一周のクルーズの旅」を見ました。ゲストの旅人は野々村真野々村俊恵さん夫婦でした。旅の途中に函館を廻りました。赤レンガ街五稜郭などに立ち寄りました。=========僕は函館にも行った事が有ります。いいとこです。懐かしいので一部振り返って見ました。過去記事です。↓===========2008年7月31日
こんばんは⭐️昨日に引き続きVoicyのお話です。先日京都へVoicy限定散策へ行ってきました!今回のパーソナリティはらくたびの山村純也さん😊京都検定1級を持っていらっしゃる京都案内のエキスパートです✨✨こちらのチャンネルは全て無料です💁♀️らくたび代表山村純也「京の歴史NAVI〜ガイド奮戦記〜」/Voicy-音声プラットフォーム京都の歴史の面白さをプロの観光ガイド目線で切り取り、バーチャルな旅へご案内します。らくたびHPhttp://rakutabi.com個人T
真相・鳥羽伏見戦争「御用盗」の名で江戸八百八町を公然と荒し廻っている強盗団の巣窟が三田の薩摩屋敷、と証拠をつかんだ江戸市中取締りの庄内藩は、慶応三年十二月二十三日夜、己が屯所へまで鉄砲を打ちこまれたのには立腹した。そこで、「下手人をすぐさまお引渡し願いたい」と交渉したが、三田の薩摩屋敷より、「そげえなことは知り申っさん」とすげなく拒絶されてしまい、そこで、「えい、もはや、これまで」堪忍袋の緒をきらし、翌二十四日夜。すぐさま支藩の兵まで動員して、「やってしまえ」と三田の薩摩屋敷を包囲す
鳥羽離宮跡公園(とばりきゅうあとこうえん)は、鳥羽離宮南殿跡を鳥羽離宮公園として整備された公園で、国の史跡に指定されている史跡公園である。鳥羽離宮は、白河天皇が退位後に院政の拠点として、応徳三年(1086年)に造営されたもので、南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿である。また、この地は鳥羽伏見の戦いの古戦場跡でもある。鳥羽離宮は、この南殿と北殿、東殿、田中殿、馬場殿などがあり、これらは淀川につながる大きな池沼の岸辺に配置されていたものである。所在地:京都市伏見区中島御所ノ内町
江戸薩摩藩邸の焼討事件-Wikipediaja.wikipedia.org1868年の今日は江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した事件、通称・江戸薩摩藩邸焼討事件が起きた日です。この事件をきっかけに戊辰戦争が勃発、江戸幕府と徳川政権が事実上、終焉へと追い込まれることになりました。江戸薩摩藩邸焼討事件~挑発にのった幕府慶応3年12月25日、三田の薩摩藩江戸藩邸が庄内藩などによって焼き討ちされました。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の直
さてさて………………ココロの次の目的地は、京阪『東福寺駅』のすぐ前にも石碑があったあの場所だ。てくてく歩いて、入口まで無事に到着ーーーーっ美しく整備されているのが良く分かる緩やかな昇りとなる石畳をてくてく歩いて進む…………おっ見えてきたぞーーっまず到着したのは…………………【崇徳天皇皇后聖子月輪南陵】第75代天皇崇徳天皇の皇后(中宮)藤原聖子(ふじわらのせいし/きよこ)の御陵だ。【藤原聖子(ふじわらのせいし/きよこ)】1122年ー1182年近衛天皇の養母。摂政関白太政
【1月1日】京都市伏見区にある浄土宗長円寺さんの初閻魔詣りへ。初閻魔1回目の四面御朱印。初日初閻魔1番手だったので御朱印帳を頂けました。
「鳥羽伏見の戦い」心一つに國の平穏のために祈るみなさん、おはようございます痛ましい事件、事故が続きますお亡くなりになられた方に哀悼の誠を捧げます今こそ心を一つにして國の平穏のために一人一人が祈りましょうアリガトウ「1月3日」の國史です「鳥羽伏見の戦い」慶応4年(1868年)旧幕府軍と新政府軍が鳥羽・伏見(京都市南区・伏見区)で戦いました戊辰戦争の初戦です1853年、ペリーの黒船来航により開国が迫られる中1866年、徳川慶喜は第15代
2021.03.26五社大明神鳥羽伏見戦防長殉難者之墓雲龍院からさらに歩いて鳥羽伏見戦防長殉難者之墓に向かいます住宅地を歩いていると「五社之滝」という鳥居がありその中に入っていきます鳥居がいっぱいです五社大明神狸様でしょうか?少し下りますかなり細いところにも鳥居がありますこの先は入れるのかなという感じだったので引き返しました住宅街の道に戻りさらに進むと舗装されていない道に続きます……だそうです竹林の中
…「鳥羽伏見戦跡」の石碑がある橋は?旧・幕府軍は、薩摩藩の罪状を記した「討薩表(トウサツヒョウ)」を用意し、大坂から鳥羽や伏見に向けて進軍した。鴨川に架かる「小枝橋」の東には、開戦地を示す石碑が立っている。旧・幕府軍の先発隊は、京都見廻組の佐々木只三郎が率いる隊だった。旧・幕府軍は鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と押し問答になり、押通ろうとしたところ、薩摩軍から一斉射撃を受け、大砲も撃ち込まれた。
【10月7日】京都市伏見区にある浄土宗長円寺さんへ。夜閻魔は事前申し込み制となっています。
何となく偶然出会った本を読んでいる、乱読は続いています。「俄」司馬遼太郎。この本を知ったのは、ブログで紹介している人がいたからでした。この本を読んで、自分がどう生きるかを考える始まりになったそうなのです。作者が司馬遼太郎だから、歴史的な小説だろうとは想像がつきました。報知新聞の連載小説だったらしく、昭和40年代の発表です。読み始めると舞台は江戸ではなく、大阪でした。でも司馬としては当たり前で、彼は大阪出身だったそうです。時代は江戸の終わり、幕末から維新へ移行する頃。主
慶応二年(1866)、二条城御門番組は廃止され京都見廻組に編入されることになりました。中川登代蔵も養父萬次郎と共に見廻組の一員となります。この時、登代蔵十六歳。ちなみに京都見廻組の役職と俸禄は見廻役(大名)三千俵与頭(旗本)三百俵+役料三百俵与頭勤方(旗本)二百俵+役料二百俵肝煎(御家人)七十俵五人扶持見廻組(御家人)七十俵三人扶持見廻組並(陪臣など)四十俵見廻組御雇(部屋住など)七人扶持となっています。肝煎以下が実働部隊となっており、肝煎は新選組
近江屋事件に参加し、鳥羽伏見の戦いで戦死した土肥仲蔵ですが、確実なものでなくても何かその出自解明の手がかりになりそうな情報はないかと探してみました。まず『元二条城番組姓名帳』という、慶応四年(1868)一月に新政府に提出された史料があります。これはその名のとおり二条城番組(二条御門番組ともいう)の名簿なわけですが、なぜ「元」なのかというと、二条御門番組は慶応三年(1867)九月に京都見廻組に編入されているからです。つまり、これは二条御門番組から京都見廻組に編入された隊士の名簿ということ
京都見廻組の隊士で、銃隊の一員として鳥羽伏見の戦いを戦った古川甚之助の手記(『鳥羽伏見の戦いと古川甚之助の経歴』に収録)に、慶応四年(1868)一月六日の橋本の戦いに銃隊司令として戦い、戦死したと記されている土肥仲蔵ですが、実はその墓は和歌山県日高郡由良町の念興寺にあります。※.橋本の戦いの戦場となった河川敷(京都府八幡市橋本)念興寺には会津藩砲兵隊の隊士阿部井留四朗(あべいとめしろう)の墓もあり、寺伝によれば二人は鳥羽伏見の戦いに敗れたのち同地に落ち延びてきて、寺の境内で
東軍戦死者埋骨地の碑を撤去したときに起きた「怪異」鳥羽伏見の古戦場巡り(5/6)を書いたとき、京都(淀)競馬場のとなりにある「戦死者慰霊碑」について、京都市歴史資料館情報提供システム『フィールドミュージアム京都』にある『京都のいしぶみデータベース』にある解説を引用しました。内容はこうです。この碑は鳥羽伏見の戦で激戦地となった宇治川堤千両松の地に立つ。もともと戊辰役東軍戦死者埋骨地(HU032)が明治40年に建立されたが,大正14年隣接地に京都競馬場が建設され,昭和42年に大駐車場が新
かねての手筈どおり渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助つけ入り、佐々木只三郎は二階上がり口罷り在り、私並び土肥仲蔵、桜井大三郎はその辺に見張り居り候(刑部省口書元京都見廻組今井信郎口上)慶応三年(1867)十一月十五日の夜、河原町通蛸薬師下ル(四条上ル)の醤油商近江屋の二階に下宿していた土佐の坂本龍馬を、京都見廻組の与頭(くみがしら)佐々木只三郎ら七名が襲撃し、たまたま龍馬を訪ねて来ていた中岡慎太郎もろとも殺害しました。世に言う近江屋事件です。その近江屋事件の襲撃者のうち、渡
先日、京阪電車に乗って橋本(京都府八幡市橋本)に行って来ました。江戸時代、橋本は木津川・宇治川・桂川の3つの川が合流して淀川となる京摂間の舟運の重要な中継地点として栄えました。当時は橋本宿と呼ばれていましたが、宿場町というより遊郭街だったようで、現在も町並みにその名残りを留めています。民家とも商家とも違う、外見に趣向を凝らした独特の和風建築は六条新地のそれに似てモダンな雰囲気です。現在は一部が旅館として営業しているようですが、空き家かな?と
結構時間をかけて書き込んで、夜中の11時すぎにようやく書き終えて、誤字脱字はないか、文章はおかしくないかと何度かチェックしているうちに眠気が襲って来て、投稿も下書き保存もしないでパソコンの電源を切ってしまったらしい・・・。今朝、それに気づいて本当にがっかり・・・。何しろ途中で保存せずに一気に書き込んだので、また一からやり直しです。はあ、また何時間かかることやら(笑)。ちなみに、ここの話です。