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本日も私のblogにお越し頂きありがとうございます(*--)(*__)ペコリ休みの日はおやつの時間から飲み開始~🍶安いのに割りと美味しい鬼ころし🍶牛スジこんにゃくを長い時間コトコトしたのでとっても良い酒のあてに(笑)前日のおでんの牛スジとこんにゃくですがね😁コラーゲンのプルンプルン感が病みつきになる😋そして一人二次会へもう知らない間に夜でしたどれぐらい寝たんかなあ、、、😆お好み焼き!山芋をすり、長芋を短冊に切りキャベツと玉ねぎと白ネギの上の緑の葱を生地に混ぜてます。
『駒組みにおける、初級者脱出と上級者と戦うにあたって最低限の押さえておかねばならない基礎知識』※注意この記事のシリーズをご覧になる前に、その1の前置きをお読みくださいますよう、お願いいたします。今回のお題は、『駒組みにおける、初級者脱出と上級者と戦うにあたって最低限の押さえておかねばならない基礎知識』〜前編〜大仰なお題になってしまいましたが、要するに駒組みが終わる前に将棋が終わってしまわないようにするコツを初段までのレベルで解説させていただきます。僕の棋風として序盤の研究に重
こんにちは五感を癒す身体の中を整体するレディースオステオパシー楽鎮の山岸です土曜日の仕事終わった後半端ない疲労感を感じてぐったり歩いて帰宅も無理〜って感じやっとの思いで帰宅しました娘に教わったのですが鬼ごろしと塩をお風呂に入れると悪霊祓いができるって鬼ごろしって日本酒なんですけど2リットルで900円くらいの安いお酒なんですね早速購入してきてお塩は一袋(そんなに入れなくてもよいそうですが私は沢山いれちゃいました)鬼ごろしは200cc入れました鬼ごろしとは…名前の
こんにちは♬.*゚今日は雲が多めながらも、まぁ晴れ。でも風が冷たい熊本市です。今、ちょいと江津湖でメル散歩しましたが…こんな感じꔛෆ気温8℃でキーンと冷えます。((*´д`*))サムゥゥゥでは、HOTELセキア話の続きを…せっかくのベッド<メルと一緒ෆ˚*の車中泊から目覚めたらホテルに戻って朝風呂なんぞ…♨️(⌾ˉ꒳ˉ⌾)ポワーンからの朝食です。朝からもモリモリ頂きましたෆ˚*ゴチソ━(人>▽<。)━サマッちょうど7日だったので七草粥もありましたꔛ
『長女と私が同じ時期にハマった“ギャル霊媒師・唯先生”の不思議なご縁』最近我が家の長女が「ギャル霊媒師の唯先生」のYouTubeを観るようになりました最初はただの興味かと思っていたんですがどうやら少し怖い体験があったみたいなんで…ameblo.jpこれは凄かった一人で観るのは怖いので子供と一緒に観ました我が家の運気アップのために今日から“お清め大掃除”をスタートしました季節の変わり目はなんとなく気持ちが沈んだり疲れが抜けなかったり…そんな時こそ家の空気を入れ替えて新しい運
Netflix映画【鬼ゴロシ】殺し屋がお役御免で殺される。が、死んではなくて植物状態から急に動き出し、激しい格闘!!生田斗真主演です。生田斗真の俳優としは、かなり僕はリスペクトしてます。が、この作品内容と映像が、、、やはり、この手の作品の映像と内容は韓国が上手いですね。ビオス店勤務河田。#Netflix#映画鑑賞#鬼ゴロシ#生田斗真
本日もお忙しい中私のblogにお越し頂きありがとうございます(*--)(*__)ペコリまたいつもの夜ご飯にお酒です。🔹️鮭のきのこのあんかけのとろみの失敗(鮭、えのき、椎茸、エリンギ)🔹️卵豆腐🔹️肉じゃが🔹️生野菜サラダ🔹️白菜とツナのたいたん(白菜、ツナ、油揚げ)🔹️ほうれん草のおひたし鮭のきのこのあんかけを作りたかったのに、全然とろみがついてなかったあんかけやと思わんと食べたら美味しかったです(笑)話が変わりますが、沖縄のソーキそばを食べられた事ありますか?私、
2010年の踊っこまつりで写した「鬼ごろし」さんです。
結論から申し上げます。展開が早すぎて脚本が雑すぎて私にも先が読めて口あんぐりで観た約2時間でした。途中Bluetoothイヤホンでトイレに立ったり豆腐の卵とじ作って食べたり。確か生田斗真さんも小栗旬さんと同様に韓国まで武闘を習得に行ってますよね。韓国に日帰りで飛んで習った武闘はクラヴマガとかカリだったと思うのですが。(東京なら尚更、日本にもあるのに)アクション映画なんだろうなて感じで見始めたものの最近、苦手感が出てきたスプラッタ的な場面が
最終回になりました。現在の様子をご案内します。銅山の後は旧別子と呼ばれ元禄時代からの採鉱の跡があり産業遺産となっています。登録有形文化財のレベルの遺産があちこちに点在しています。しかし山の中と山全体が住友の土地私有地なので登録有形文化財や世界遺産の指定は難しいと思われます。旧別子は登山道としても利用されています。登山には初心者レベルの銅山峰があり2時間もあれば登れる場所で家族づれなどハイキングレベルです。住友グループにより登山道が整備されいるのも人気の要
醸造所煙突の歴史旧別子は木造の建築物は全く残っていない。ここ小足谷にも沢山の家があったが、すべて取り壊された。柱や板は新居浜に降ろされ鹿森社宅、打除社宅の材料として活用されたようです。残ったのは、小足谷醸造所の煙突と東延機械場の建物だけ。いずれも煉瓦の建造物です。煙突は何時頃、建設されたかは記録が残っていない様で憶測では明治20年代との見方が多い。醸造開始当時は木炭で製造していたと思われ、火力の強いコークス(明治15年)・石炭が使われ始めたのが明治23年である
現在小足谷醸造所跡はどうなっているのであろう。火事で焼けているので建物は無い①の場所植林されて森になっている。中央に煙突が見えるが後日詳しく記する事にする。②酒樽が並んでいる。勿論今はこの樽はない。③醤油や味噌の蔵があった下段に行く階段です。少しズレている所もありますが残っています④以前紹介した釜のある所です。⑤醸造に使われた小足谷今は豊富な水が流れています。石や煉瓦の構造物以外ほとんど自然に帰っています。私が初
廃止最盛期には年間約100㌔㍑もの酒(イゲタ正宗別名:鬼ごろし)が製造されましたが、明治44年(1911)に製造休止となり、大正3年(1914)には酒造場も廃止されました。現在、植林された林の中に、赤煉瓦の四角い煙突などが当時の姿をとどめています。歓喜の鉱山85ページより又、大正八年四月一日小足谷住宅よりの失火で仝所の酒倉、醤油倉等の残存大建築が烏有に帰し、山火事となり、其山火事により此の出張所も類焼したのである。幸ひ本尊地蔵菩薩は心きいたる者の手により取り出され類焼
当時の酒蔵はどのような物であったのか文章と写真がありますので紹介します「当時醤油倉は如何なる理由によるものか其建物の屋根が全部石であったのだ(銅山の山内の平らな石を「ヘイ」で使っていたのである)其屋根石は青色でそれを「シックイ」で留て屋根としていた。それは見事なので自分は十才の時初めて見たのであるが小足谷へはいると是が一番先に目につくのであれは何であろうと問ふたのであった。是に対し酒蔵の屋根は茅葺であった。「村と別子銅山との関係」14ページ和田義邑著別子山村史によると和
酒造りに関わった人もう一人は松村永松氏「松村家150年のあゆみ」より安政四年(1857)豫州西条に生る。生来、数理に秀で幼少の頃から家業の質商の帳場を手伝う。住友別子支配人広瀬宰平の要請により十六歳(明治5年1872)で銅山に勤仕す。山の悪条件を克服して酒類の醸造に成功し醸造課兼販売所の主席となる。明治三十二年の大風水害に醸造所は勿論、永松一家全滅、時に永松四十二歳。妻子八人は運命をともにす。住友本家より在勤中の功労に対して後継者を末家に列する沙汰あり。永松は醸
酒造りに関わった人を二人紹介します。美田英蔵(みたひでぞう)「別子郷土誌」から抜粋します嘉永元年三月二日兵庫県加古郡神野村に生る文久二年歳十三歳にして出て、住友家に入り翌年銅山に登り爾来歳を閲する。小足谷の開山と称す宜なりと云うべし。明治二十九年以後十七年間村会議員の要路にあり。「遠鳴」明治42年10月5日号「昔話」より抜粋します酒は好く出家ましたが一向儲かりません。之は不思議だと老分廣瀬翁が調べに來て今の日野の合宿所(第一合宿所)の家を立て之に詰めて夏中
酒造りにどのぐらいの人が携わっていたのだろうか住友別子鉱山史上巻376ページ「明治15年の職員数は等ない・等外各二人の計四人であった。」別子郷土誌134ページ杜氏は1名だったが給料は高かった。切込中(仕込中の間違い)は100円(日給と思う)それ以外50銭仕込みは計4日間かけて行うのが一般的です。仕込みが終わったら、約20-30日間かけてもろみを発酵させます。100円×4日+50銭×30日=415円=約月給醸造夫は32銭であった32銭×30=96円=約月
お酒には名前が付いています。住友が作ったお酒の名前は「イゲタ正宗」イゲタと言うのは住友のマークですね住友では、井桁(いげた)マークを商標としています。その由来は天正18年(1590年)に蘇我理右衛門が京都で銅精錬、銅細工の店(屋号・泉屋)をおこし、その際「いずみ」を表すものとして「井桁」を商標として用いたのが始まりです。住友グループ広報委員会より住友金属鉱山のイゲタのマークは水色住友銀行は赤色でした。会社によって色が違います。なぜ「政宗」だったのか
どこに販売していたのかもう少し詳しく書いてみます。別子山村史608ページに次のような一文がある「販路は別子山村一円並に小麦畝、高藪、方面等なりしが、去三十九年度より東平、四阪島へ、去る四十三年度より西ノ川、其供給開始せり而して近年山内在住者漸次減員せし為め山内に於ける需要高は従前に比し大に減少を来したり、然るに東平其他各所に於ける需要高増の為め総供給高に於ては漸次増加を、示しつつあり」販売先と運搬方法〇小麦畝(高知県)江戸時代から炭の供給基地
へぇ―こんな山の中で8万本も誰が飲む?と思うのは当然この時代の人口を見てみよう。別子山村の人口で一番多かったのは明治38年約11186人。お酒を一番多く造ったのは明治43年、人口は4087人、4087人で80000本一人あたり20本。子供や女性も含めて4087人ですから多すぎます。「ここで生産された酒、醤油、味噌などは別子全山の需要を満たすばかりか、東平、四坂西之川(現西条市)へ伸び、一峰をへだてた土佐の山村にまで供給」西条史談34ページより
ではどのぐらいの量のお酒を造っていたのだろうか。残念ながら初期の醸造量の資料がない別子郷土133ページに明治35年から10年間の資料が載っている製造高は「石」ですね。さっぱりわかりません私の年代(団塊の世代)なら1合とか1升は分かりますネットに出ているレシピで米を計る場合は「合」を使っていますが、学校教育では「1カップ200cc」のようです石=10斗=100升=180リットルとなり1升瓶100本となります金額を見ると明治43年8
住友は悪戦苦闘をしながら別子銅山で酒を造ったがいつ美味しい酒が出来たか分からない別子開坑二百五十年史話(昭和16年住友本社発行)から見てみよう「明治三年の八月、酒造に取りかかってより毎歳腐敗に終ること実に四個年、当時の金で一万円余の損害を生じ、明治六年の暮に杜氏を換へ、備中南の浦から高造なるものを雇入れてから、やっと酒らしいものが出来た。その時或る人の狂歌に、清酒を造り上手の大天狗、中にも杜氏の翼は高造と唄はれた程だが、結局酒屋の酒に勝てず、依然収支
お酒造りは始めは失敗ばかりしていたようです。杜氏を伊丹より雇い入れ種々手を尽さしめた造酒にとりかかってより毎年腐敗に終ること実に四か年、当時の金で一万円余の損害を生じた。(一万円は令和の価格で3500万円ぐらい)そこで、明治六年暮に杜氏を換え、備中南の浦から高造を雇い入れて(備中南の浦は現在何処の市町村か不明)からやっと酒らしいものができた。失敗の原因は気象にあった。「この地は海抜千二百米余という高地にあり」と記しているが実際の醸造所の標高は920mで
明治の時代でも「酒」を造るのには許可が必要であった。西条史談34号住友家と別子銅山雑録(4)高橋重美編から要約して紹介する慶鷹4年(1868)8月新政府は旧幕時代の諸国造酒株を改正する旨の布告を機として、別子山内の需要を満たすため清酒醸造の許可を出願したのもまたここに見るところがあったからであろう。「垂裕明鑑」によると別子、立川両銅山にて醸造に付、左の通り願い出たとある。乍恐以書奉願上候今般御一新諸国造酒株御改相成上金可仕旨従太政官御布告相成候に付、恐入候
別子銅山坑夫の足止策として施設「宰平は別子銅山の坑夫足止策として(イ)山腹小足谷に酒の製造所を設け摂伊丹から醸造人を聘して幾度か失敗を重ねた後遂に廉価にして芳醇な清酒を得ることに成功した。」住友物語202ページ江戸時代から坑夫は全国の鉱山で働くことができ、通行手形もいらなかった様だ。この人達は「渡り坑夫」と呼ばれていた。生活は家財道具はなく鉱山の転々とし酒・博打・女といった気風のいい生活が多かった。自坑夫と呼ばれ、代々別子銅山で働き、妻や
『半世物語』では「粗悪にして用ふるに堪へざるもの」と書かれ「宰平夙に斯の如き境遇を憐察し、且つ其の雇員及び一般労働者の衛生上、大に有害なるを認了し、種々考察を凝らし、遂に小脚谷といふ山境を開墾し、此の地に醸造場を新設し伊丹より杜氏を雇聘して酒造の司とし、酒并に他の二品の製造業を興さしめたり。」廣瀬宰平『半世物語』47ページ広瀬宰平が社員が困っているので、小足谷に醸造所を建て、杜氏を雇い酒・醤油・味噌を造ったこの様に書かれている。この広瀬宰平と言う人は住友の
今は、こんな山の中でお酒を造っていたなど信じられない状況ですが昔はお酒を造っても売れたのですね〇なぜ住友はここでお酒を造ったのか?〇何のために造ったのか〇誰が造ったのか?〇いつ頃造ったのか?〇煙突だけ残ったのはなぜ調べ見ると面白い結果がでた。〇なぜ住友はここでお酒を造ったのか?「当時別子銅山なる生民の境遇は、真に見るに忍びざるものなりき。即ち人間生活上第一に位する飲食品中、米穀を除きては、皆悉く粗悪にして用ふるに堪へざるもののみなりき例へは酒、味噌、醤
お酒を造っていた場所は愛媛県新居浜市別子山昔は愛媛縣宇摩郡別子山村江戸時代は天領(徳川幕府の領土)だった四国のほぼ真ん中ですね別子山村でも一番西の端そこに今旧別子と呼ばれている所がある。今も醸造所跡があり煉瓦の煙突が残っています
生田斗真さんの出演の、住友金属鉱山のCMが流れています。住友金属鉱山は金属と鉱山の会社ではないそうなんです。金属と鉱山の会社ではないのです。なんとお酒や醤油も作っていたというお話をさせてください。ちょっよ長くなりますので何回かに分けて書きます。現場は標高920m四国の山の中です。今は雪に埋もれています。
お酒には名前が付いています。住友が作ったお酒の名前は「イゲタ正宗」イゲタと言うのは住友のマークですね住友では、井桁(いげた)マークを商標としています。その由来は天正18年(1590年)に蘇我理右衛門が京都で銅精錬、銅細工の店(屋号・泉屋)をおこし、その際「いずみ」を表すものとして「井桁」を商標として用いたのが始まりです。住友グループ広報委員会より住友金属鉱山のイゲタのマークは水色住友銀行は赤色でした。会社によって色が違います。なぜ「政宗」だったのか?