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新聞掲載:372017年(H29年)3月29日
第42回戦争と平和を考える資料展「被爆75年核兵器のない世界へ」・期間:2020年7月1日~7月7・時間:9:30~17:00(最終日16時)・場所:「高知自由民権記念館」:高知市桟橋通り4丁目・入場:無料ここからは、6月30日午前中の準備の様子です。外は、搬入に支障をきたす程の大雨でした。この他にも、多数の資料と原爆瓦の展示も準備されてました。コロナウイルス感染対策の状況下ではありますが多く
速報、2020年(R年2年)月6日、正午前高知県内71基目となるトーチカを発見しました。爆破されています。
高知県戦争遺跡爆破処理を逃れた『無損傷トーチカ』47基(改訂版3)県下の南岸地区には、アジア・太平洋戦争の末期、連合国軍攻撃(本土決戦など)に備えて、多くの攻撃用施設のトーチカが構築されました。これらは、幸いなことに本土上陸前終戦により、使用されることはありませんでした(一部を除く)。ここで紹介する戦争歴史的証拠の貴重なトーチカの数基は、生きた教材として利用されていますが、その殆どが何ら管理されぬままで地元の方々の記憶からも薄れつつ、山中で人の目に触れることなく眠り風化が
2019年11月22日曇り/雨久しぶりに香南市の戦争遺跡調査へあいにくの雨でしたが、山歩きをしました。この場所は、数年前よりマークしていましたが、予想通り多くの戦争遺跡がありました。ほとんど埋まってしまった地下壕入口。本日は、あろうことかヘッドランプを忘れてしまい、スマホの明かりとカメラのフラッシュを代用します。壕の中がどうなっているのか撮影するために、上半身を入れましたが奥まで光が届きませんでした。結構深いかも…?もう少しと無理をしていると身体が下方に滑り
高知県戦争遺跡爆破処理を逃れた『無損傷トーチカ』46基(改訂版2)県下の南岸地区には、アジア・太平洋戦争の末期、連合国軍攻撃(本土決戦など)に備えて、多くの攻撃用施設のトーチカが構築されました。これらは、幸いなことに本土上陸前終戦により、使用されることはありませんでした(一部を除く)。ここで紹介する戦争歴史的証拠の貴重なトーチカの数基は、生きた教材として利用されていますが、その殆どが何ら管理されぬままで地元の方々の記憶からも薄れつつ、山中で人の目に触れることなく眠り風化が
高知県戦争遺跡爆破処理を逃れた『無損傷トーチカ』43基(改訂版1)県下には、アジア・太平洋戦争の末期、連合国軍攻撃(本土決戦など)に備えて、多くの攻撃用施設のトーチカが構築されました。これらは、幸いなことに本土上陸前終戦により、使用されることはありませんでした(一部を除く)。ここで紹介する戦争歴史的証拠の貴重なトーチカの数基は、生きた教材として利用されていますが、その殆どが何ら管理されぬままで地元の方々の記憶からも薄れつつ、山中で人の目に触れることなく眠り風化が進み、それが残
今日は夜勤明けで高知県香南市へ今回は初めて行く山、以前から訪ねたいと思い続けてのことで…ようやく行くことができました。調査開始直ぐに、塹壕から地下壕を発見その後は、次々にと目に飛び込んできます。一番最初に発見した地下壕は大きな岩をくり抜いたものですが入口の天井崩落が激しく入るには下方へ滑り込むロープがいる状態であり危険度は最高レベルで緊張しました。無事に底部に到達すると、真っ暗な状態ライトを点灯すると、かなりの広さでした。この地下壕も天井崩落により小さな
H29年12月1日10時30高知県香南市にて県下、62基目となるトーチカを発見いたしました。12時10分には63基目を発見。そして、13時前に64基目を発見いたしました。長い間、戦争遺跡発掘しておりますが1日にトーチカを3基も発見したのは初めてです。詳細は後日アップさせていただきます。
第21回戦争遺跡保存全国シンポジウム高知大会様子2017(H29年)年8月19日、初日参加者数171名公文豪先生記念講演戦争遺跡保存全国ネットワーク協同代表十菱駿武先生基調報告戦争遺跡保存ネットワーク高知出原恵三先生地域報告閉会挨拶の次に会員総会の後は…交流会、日本全国と米国からの参加者にてお酒が入る中、戦跡保存の熱い語りありなど大いに盛り上がりました。大会2日目、分科会の様子参加者数:約130人第①分科
いよいよ、明日より第21回戦争遺跡保存全国シンポジウム高知大会「今こそ戦争遺跡を平和のために」が開催されます。その準備の中で新たな情報が入りました。そして、午前中は調査発掘へ(H29.8/18)本日は銃眼までを確認しました。皆様、暑い中で大変お疲れ様でした。(詳細は後日アップ予定しています)今回のもので高知県下でのトーチカ確認数は60基となりました。全国最大規模数を更新中です。ご案内第21回戦争遺跡保存全国シンポジウム高知大会日時:2
高知県須崎市砲台跡其の二学芸員Fさんとの合同調査にて須崎市野見湾にあった砲台跡を確認致しました。須崎市では幕末(1800年代)異国の黒船を迎え撃つ準備下での砲台が有名ですが…今回、こちらでアップするこの砲台のことは、旧日本軍の資料に載っており、アジア・太平洋戦争末期の本土決戦準備下において日本海軍によって造られたものです。資料によると須崎には四十口径四一式十五糎砲(弾300発)、四十五口径十一年式十二センチ砲が二門(弾600発)あったと記されています。そして、今回
高知県須崎市砲台跡その12015年11月、研究員T氏との合同調査にて砲台跡を確認致しました。須崎市では幕末(1800年代)異国の黒船を迎え撃つ準備下での砲台が有名ですが…今回、こちらでアップするこの砲台のことは、旧日本軍の資料に載っており、アジア・太平洋戦争末期の本土決戦準備下において日本海軍によって造られたものです。資料によると須崎には四十口径四一式十五糎砲(弾300発)、四十五口径十一年式十二センチ砲が二門(弾600発)あったと記されています。そして今回訪ねたこの地に
新聞掲載:262015年(H27)5月29日
高知県須崎市砲台跡調査と電探基地情報学芸員Fさんとの合同調査にて須崎市野見湾にあった砲台跡を確認致しました。須崎市では幕末(1800年代)異国の黒船を迎え撃つ準備下での砲台が有名ですが…今回、こちらでアップするこの砲台のことは、旧日本軍の資料に載っており、アジア・太平洋戦争末期の本土決戦準備下において日本海軍によって造られたものです。資料によると須崎には四十口径四一式十五糎砲(弾300発)、四十五口径十一年式十二センチ砲が二門(弾600発)あったと記されています。そ