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記事記録・紹介:《松本・安曇野・塩尻・木曽・信州の地域紙市民タイムスWEB2024年7月9日(火)》世界的彫刻家・高田博厚の功績再評価豊科近美で15日にイベント世界的な彫刻家・高田博厚(1900~87)の功績を再評価する朗読と音楽のイベントが15日、高田の彫刻作品を常設する安曇野市豊科近代美術館で催される。安曇野の歴史にまつわる研究や講演活動を展開する任意団体・あづみ学校(岩隈久代表)が「日本の近代彫刻史を知る上で地勢的に恵まれた安曇野の魅力を市民の手でより高め
安曇野市豊科近代美術館℡)0263-73-5638往訪日:2024年2月17日所在地:長野県安曇野市豊科5609-3開館:9時~17時(月曜休館)料金:一般520円大高生310円アクセス:長野自動車道・安曇野ICより5分駐車場:約100台※一部を除き撮影OKです《思わず固唾を嚥んだその均整に》(文中幾つか写真をネットより拝借しています)二月中旬に安曇野の豊科近代美術館を訪ねました。ここは彫刻家・高田博厚(たかたひろあつ)のコレクションで知られる市営美術館で
2月23日、「前線が南下する影響で、九州は雨、四国、近畿、東海は雲が広がる。関東は雪が混じる所も。関東から北海道は真冬の寒さ。」との予報。千葉は「北の風のち北東の風曇時々雨」とのこと。「日中の最高気温の低い方から」は、北海道宇登呂ー8.0℃、北海道朱鞠内ー7.7℃、青森酸ヶ湯ー7.5℃、北海道沼川ー7.4℃、北海道士別ー7.2℃、・・・、千葉千葉4.8℃とのこと。イソヒヨドリ♂前回、「イソヒヨドリの散歩にお供して」と題して掲載しました
高田博厚における哲学の意味という問題に集中して、私に出来るかぎりで、お応えしたいと思っております。今回の上梓版「ガブリエル・マルセル『稜線の路』」の訳者解説の終りのあたりに書いておりますように、私はじぶんの哲学をドイツの実存哲学者ヤスパースから始めました。これは正解であったと今でも思っております。というのは、この哲学者の哲学は、特殊な一哲学ではなく、哲学そのもの、本来の意味での哲学を意識的に対象としている哲学だからです。「哲学とは何か」が、この哲学者の根本主題なのです。彼の哲学におい
今日は、昭和生まれの私としては、天皇誕生日東武健康ハイキングに参加してきました!案内も、カラーで見やすい😊素晴らしい✨高坂駅スタート駅を降りるとすぐに高坂彫刻プロムナード高田博厚彫刻群です。カラーマンホールこのあたりから足利尊氏4男足利基氏の館跡へ堀切と、思われる場所ウィキペディアで調べるとこの辺りに、陣を置いたと書いてあります。弁天沼そして、岩殿観音参道岩殿観音は、鎌倉殿の13人でおなじみの比企能員の庇護があり発展したと伝えられています。仁王門
青い空へ飛び出す君の広々としたお尻に広がる大きなお空裸婦像彫刻家・高田博厚棟方志功記念館
本書前半は『ジャン・クリストフ』などを書いたノーベル賞作家ロマン・ロランと、日本人彫刻家高田博厚との間で1931年~1944年の間に交わされた23通の往復書簡です。後半は「付論」として、『蟹工船』で有名な小林多喜二の虐殺事件をフランスでニュースにするために、高田とロランが動いたという伝説が論証されています。さらに「付録」として高田やロランに関する文章や年譜が付されていました。1933年、治安維持法違反容疑で逮捕されていた、共産主義者、社会主義者であった小林多喜二が拷問によって虐殺されま
この投稿をInstagramで見る斉藤まさお(まっさん)(@saitomasao55)がシェアした投稿
初再呈示昨日の感得と重なる人間の魂への敬虔さがなければならない2020年09月26日(土)17時50分58秒テーマ:高田博厚芸術論著作集III、310-311頁、311-312頁「音楽とバロック」高田さんは史実をよく体得している。《傑作は常に私たちに「宗教感」を与える。・・・「宗教的」という言葉が持つ危険性を知りながら、私はあえてこう言う。なぜならば、宗教に対する体感がヨーロッパと日本ではちがうからであり、ヨーロッパの「人間歴史」が
鎌倉文学館鎌倉文学館鎌倉にゆかりの文学者は川端康成、夏目漱石、芥川龍之介、与謝野晶子ら300人以上います。鎌倉文学館で鎌倉ゆかりの文学者の直筆原稿や手紙、愛用品などを収集保存し、展示しています。www.kamakurabungaku.com鎌倉3洋館のひとつですね鎌倉は何度も来ていますが、こちらははたちのころ、来たきりでした💦ムチャブリ!の1話で浅見社長と雛子がパーティに来ていましたねあと、ミステリーと言う勿れでも整くんとガロくんがここで会っていましたね薔薇が咲き始めたとのことで訪
2021.10.30≪彫刻家・高田博厚における「自然」と「神」——アンドレ・マルローの美術論と比較しつつ——≫古川正樹彫刻家・高田博厚における「自然」と「神」、というテーマは、いまの私の課題としているものである。「自然」と「神」は、抽象的概念で言えば、各々、「世界・内在」と「超越者・超在」と換言して大過ないものであろう。このテーマについて、私のだいたいの見通しはついているつもりであるが、最近、美術論者としてのアンドレ・マルローに関する精緻な邦人研究者の著書を読んでいて、高
日課と、高田博厚の勉強を両立させることを始めよう。「抽象美」を再読。『もう一つの眼』51-54頁感銘を受けてマーカーをつける。『人間は、自分が「感覚」すること自体がすでに抽象なのである。・・・「もの」(対象、即ち「自然」)に触れ、「自分」に感覚することが抽象であり、だから自分の感覚を直接、純粋にするためには「もの」を熟視しなければならない。そして「感覚」することが「形」の表現に至るまでには、さまざまの段階を経てゆく―・・・「もの」に触れて得る「最初の印象」を、仕上げの際
高田博厚の思想と芸術ぼくの世界観のまとめ日記2021-03-2417:46:11繰り返し一貫して言ってきた、神と創造主は異なる、ということだ。高田さんもこれに気づいていた。「神」と「運命」とは異なるのだ。だから、アンドレ・マルローの言うように、「芸術は反運命的」なのである。巷でも、地球の生体系を創造した存在は、愛に反する型の異星人である、と、比喩的に語られる。しかし生そのものに内在しつつ、外的生存体系によって自己疎外を強いられている魂の本質は、愛なのである。高田さんも
百歳の生きる姿の胸熱し野見山暁治画家を生きいるNHKで最近の野見山暁治の活動を紹介した番組を見た。百歳の今も創作を続けている。創作姿勢や生き方に胸打たれるものがある。パリに留学したとき高田博厚からアトリエを譲られたことを最近知った。高田は好きな彫刻家である。野見山は窪島誠一と戦没画学生の遺族を訪ね遺作を集め無言館で展示している。20年前に妻と訪れ別所温泉に泊をとった。そこでは山本宣治やタカクラテルの意外な事実にもふれることが出来た。コロナが収まればもう一度訪ねる予
2019年12月13日(金)02時19分03秒テーマ:自分に向って高田博厚は無論直接にロダンからだが、この文章から、とくに森有正が思想生活への影響をリルケから如何に受けているか、如実に確かめられる。ぼくにとっても繰りかえし読むべき文章である。この文章に現わされているのは、無論、言葉の世界ではない。言葉を超えた世界である。2019年04月06日(土)16時30分06秒テーマ:リルケノオト《リルケは、1907年に獲得した自分の芸術手段を名匠のような確かさで用
今夜は、なにも読まず、書かず、人間の尊厳が因って来るところの、「自然」と照応する人間、「神」と照応する人間のことをずっと思念していた。芸術が「反運命」であることの根源もこの照応境位にあるのである。この照応境位は、極限的に個人的な境位であり、その個人(としての人間)と照応する「自然」と「神」も、具体的な個としての人間にとってのみ現前し開示されるような本質のものである。運命の外的な力も、この個の内面的な境位を本質的に侵食することはできない。高田博厚とマルローが強調し証言するのもこの点である。
すこし前から、ヤスパースとマルセルの翻訳を静かに開始した。これが生活の軸ではなく、ぼくがやっておかねば適任者がいないからだが、強いられたのではない社会奉仕意識があり、ほんとうの仕事へのウォーミングアップにもなる。ピアノを30分以内で二曲弾いて、これで仕事準備完成となる。ぼくにとっての真の仕事は高田博厚について思索し書くことだ。その自由を得るための手堅い日課であればよい。『哲学』はヤスパースの主著。既存の訳は成功しているとは言い難い。すっきりして解りやすい訳を呈示したい。最も枢要な第二
高田博厚彫刻群の続き裸婦立像女のトルソ女のトルソシニャック女の大トルソ憩いカテドラル女のトルソ高村光太郎ガンジーパラスのトルソ女のトルソ海水浴アラン水浴大地遠望間違っていたらスミマセン🙏ご覧の通りトルソが多いのでね順に撮ってはいても(角度変えて撮ったりもするので)混乱するのです😓(おまけ)東松山といえばノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章先生のご出身地でもあります先生には直に一度だけお目にかかったことがありますが物腰のやわらかな紳士です
東松山こども動物自然公園の最寄駅の高坂駅前道路には高田博厚の彫刻が設置されています高田博厚彫刻家高田博厚とは?|東松山市ホームページ高坂彫刻プロムナードに並ぶ彫刻群の作者、高田博厚氏を紹介します。www.city.higashimatsuyama.lg.jp彫刻始めオブジェなど屋外アートの好きな妹がこのプロムナードを訪れたらさぞかし喜ぶだろうなぁ前に訪れたとき↓は暑い時期でしたのでバスに乗っちゃったのですが、この日は穏やかな冬晴れでしたので、動物園から歩いて駅に向かいながら撮影し
「音楽と詩」と題された文の最初の一部であるが、これだけで高田博厚がどういう存在であるか、その、歴史のなかにおける個人が、感得される。ぼくにできることはこういうものを紹介するぐらいだろうか。こういう人物の存在の傍らにたたずむことができるだけで、自分を得るやすらぎを覚える。ぼくの使命は、こういう存在の前に佇み、こういう存在を紹介する(指し示す)ことだと思うと、安堵と落ち着きをおぼえる。現在はそういう個人を押しつぶそうとする前代未聞の第三次世界大戦のなかにあり、すでに人類の八割ぐら
中田光雄著『諸文明の対話マルロー美術論研究』を今月22日に完読したが、読むほうも大事業だった。頁が上下段に分かれてびっしり引用とともに書かれており、読んでいる間じゅう、感銘を覚える箇所もすごく多いのだが、引用されているマルローの原文を解説する著者の文章が、マルロー自身の精神の高揚や律動とは異質で、開放感がなく息がつまってしまう、それにつき合うのがものすごく大変だった。思想を生きている人間と、それを枠組み立てて説明する人間との差異は、これほど大きいのか、という思いを強烈に焼きつけられた。
自己の根源に沈潜することこそが普遍につながるという不思議が、歴史上の傑作に共通のことである。このことをアンドレ・マルローにおいても確かめる。2018年03月18日(日)17時57分50秒テーマ:愛の修道院の路でこの大事さは、ぼくが言うまでのこともない。この大事さがわかっている者は、まず自分の情操教育をすべきである。これは己れの内部に祭壇をつくり保つ行為、「神」の探求となる。ここにおいてこそ知性の意識行為が意味をもつ。そのことをずっと言い、探求してきた。「情操」といっても、
自節紹介XI04月30日23:46自分の根本情態を想起させる諸節07月17日02:41”素描内部に在る普遍”05月07日18:56✙”良識を意識して突破する者”'1705月07日22:57””記録・証言|省察(898)”「触知し得るイデー」覚書”芸術論05月08日01:25時間を否定するマルセルノオト05月08日23:38高田さんを大事にする理由(わけ)は05月08日23:41✙”
初再呈示2015年08月16日(日)23時20分14秒テーマ:自分に向って松永安左衛門(1875-1971)「わが人生は闘争なり」。(大学中退時に記す。)「反対が多かろうが、圧力が強かろうが、心を鬼にして、信念を絶対に曲げなかった。その信念も大局観に基づいたものだったから、周囲が受け入れた」。(壱岐松永記念館、定村隆久氏-2007年時管理人-)実人物写真、言葉は、2007年5月11日付新聞より。高田先生の作品は作品集で見知っていたが、偶々新
マルローのいう「運命」は、ヤスパースの「限界状況」であり、芸術創造は限界状況の我有化の証である。こういう思想を見いだしてぼくははなはだ満足である。ぼくの経験してきたあらゆる思想を総合することができる。そこにおける「普遍」の意味は、高田博厚のそれと厳密に一致する。
高田博厚の思想と直結するゆえに、このアンドレ・マルロー自身の言葉をここに引用する。≪「ギリシャ、ローマ、中世は、なによりもまず彼らが遺した記念碑、彫像、詩ではないとすれば、いったい何であろうか。アレクサンドロスは、数多の戦歴によってその貌(すがた)をわれわれの脳裡にきざみつけているのではなく、彼が呼びおこし、それゆえ彼をわれわれのもとへと運びくる夢によってこそ、われわれの記憶にとどまるのである。芸術家たちによって知られぬあいだは、征服者といえどもたんなる勝利した兵士にすぎない。彼らの
《「運命」は人間がそれを蒙るという受動性の立場から、幸・不幸の視点から捉えられるべきものではなく、人間がそれにたいしてどのように対峙するか、その能動性、あるいは人間存在にたいするその哲学的・倫理的意味から捉えられなければならない。「運命」とは、人間にたいして人間の条件の如何を明晰に自覚させ、それへの関わりの決断を求める存在論的作用なのである。》中田光雄『諸文明の対話マルロー美術論研究』61頁これはマルロー自身の言葉ではなく、マルローの思惟を咀嚼したこの著者
高田博厚の思想とアンドレ・マルローの思想は根本のところでぴたりと重なる。芸術創造を人類の根源的意志とみなす洞察において。そこを押さえているかぎり、思想研究はぼく自身の思索を源泉において養う。この意味での勉強をして、腰を据えて我有化しなければならない。美術・芸術というものは、人間にとってどうでもいいものではないということ、それどころか根源的なものであることが、反省的思惟によってあきらかとなるまでに納得すること。
哲学に関わらない芸術は真の芸術ではない。芸術に関わらない哲学は真に哲学していない。高田博厚とアンドレ・マルローは、芸術創造の意志を人類に普遍的な根本意志としてとらえている点で完全に一致している。両者を照応させることは、ぼくの人間思想を堅固に確認するために甚だ感謝すべき成果をもたらす。
これがマルローの芸術観の核心である。そのとおりだと思う。そして、この問いの意識は、言表的に自覚されなくとも、作品そのものに顕現されているものである。『秒速5センチメートル』も、創造主と競り勝っている(原型風景との比較においてよく解った)。こういう創造が、マルローのいう芸術なのだ。(なにせこの作品を美術の時間に観せた学校がやたらあるようだ。)