ブログ記事133件
テレビを買い替えました.緊急性はなかったのですが、新しいテレビの世界を見てみたかった。(最近のワイドショーは表が多いので、大画面が便利ですね。アマタツの天気はまだ良いのですが、ほかは一画面に情報盛り込みすぎです。)基本的に私は放送作家なので、テレビは仕事の道具。必要経費として申告しています。できれば令和2年のうちに買いたかったんですがちょっと遅れてしまいました。今回購入したのはシャープの60型の4Kテレビです。なぜ新しいテレビが欲しかったのか、少しお話しさせてく
2021年(令和3年)になりました。今年は辛丑(かのとうし)ということで、痛みを伴う衰退と新たな息吹が生まれる一年と言われています。私は今も、仕事を始めた21歳の頃や、駆け出しの30歳、仕事が増えた30代後半から40代の気持ちでいましたが、気が付けばなんと私は年男!「還暦かな?}なんて思っていたら、あっという間に古希を過ぎ、72歳のおじいさんになってしまった。(天皇ご一家の弥栄を祈り一昨年葉山に建立された梓亭)ご存知のように68歳のクリスマス頃に癌が発覚し、69歳で手術
2020年も、あっという間に11月になってしまいました。人にとって大切なものを考えると、時間も大切だし、一日一日幸福を感じること大切です。1月までは平和でした。2月横浜港の大型客船ダイヤモンドプリンセスで起きた新型コロナウイルス騒動からおかしくなってきて、3月からはコロナ、コロナで騒ぎになって、今も未曾有の混乱と、経済界では大きな赤字と、一般社会では生活の困窮などが続いています。(10月31日湾岸線から横浜市内方面うっすらと富士山を観つつ)しばらく語っていません
10月2日に本田技研工業がF1活動の終了を発表してから3週余り過ぎた。オートスポーツやF1速報。他のメディアでもさまざまな人々の意見が発表されていたが、私は私なりの見解がある。病気療養中で雑誌には相手にしてもらえないので、この私的ブログで意見を述べておきたい。【HONDA依存症から、さよなら】日本人だけとは言わないが、日本人は何かに依存していないと生きられない。縄文時代なら酋長に依存。弥生から米作が始まると、長く米の取れ高に依存。戦国時代、武士は一升飯を食べて走った
いつの頃からか私は、心ひそかに2020年の10月1日を心待ちにしていた。私がこの世界に入って50年。そのスタートが10月1日であり、出来れば友人たちをお招きして祝宴でもやりたいな。という夢を持ちながら、頑張って参りました。しかしそれは叶わなかった。新型コロナ感染症のため、大きなパーティができない。私自身が病魔に襲われ、闘病している。収入も減ってとてもとても祝宴などできる財力もない。でも、僕はこの50年胸を張って堂々と生きてきた。サラリーマンになったほうが、生活は安定しただろうけれ
新型コロナウイルスで仕事のスタイルが大きく変わってしまいました。驚いたのは会社員の方々が自宅でテレワークをして、給料がもらえるというシステム。私は自宅で仕事をしていますが、ワンショットのギャラだけなので、羨ましい限りです。今年自分は仕事らしい仕事をしたのかと言われればスーパーフォーミュラーシリーズのオフィシャル・ホーム・ページで「高桐唯詩スーパーグリップ」と言うコラムを持っていますが、レースは春先、開催される予定でしたが、3月はテストだけ。その取材すらままなりません。私は病気を抱え
7月中旬、ドイツ在住の次女が帰国した。前回帰国したのは2月だったから、コロナ騒動が始まったばかりの頃でさっさとドイツに帰り、何事もなかった。今回は羽田空港でのPCR検査があり、公共交通機関以外での移動を義務付けられ私が体調悪く運転できないものだから長女の婿に運転してもらって、無事我が家に帰った。(羽田で渡されたガバメントからの紙)そこから14日次女は我が家から出ることを許されず、時々厚生労働省の電話に出ると言う隔離生活に入った。移動禁止が開けた7月
作家として、詩人として描かなければならないのは、人の心の内側の思い・・・言い方を変えれば「心のひだ」をいかに丁寧に描くかということに尽きる気がする。.人間は、どう生きるかについて悩み、他人が自分をどう思っているかについて悩みながら生きている。それを描くのが作家の仕事であり、それがどんな分野であっても変わることはなく私は書いてきたつもりである。春過ぎから、私のブログも新型コロナウイルスに関連した記述が多くなってきた。今回もその流れで、たどりついた思いについて書きしるしたいと思う。
5月の24日になった。今日は1992年にこの世を去ったレーシングドライバー小河等さんの命日だ。新型コロナウイルスは、未だに世界を覆い尽くしている。かの中国はもうすでに過去のものにしてしまっているようだ。さて私自身、時々忘れているが私は闘病中の身である。2018年に、大きな手術を受け、大学病院のICU(集中治療室)からHCU(ハードな治療室)を経て一般病棟へと移り長く入院した。また2019年には放射線治療と抗がん剤治療を受けるため再入院。大病院での入院生活をたっぷり
①勝者なき戦争。世界秩序の完全崩壊。4月15日の時点で新型コロナウイルス感染者は全世界で194万9210人。死者は123,348人。感染した国と地域は215ヶ国に及んだ。アメリカ合衆国では60万人ほどの感染者。うち2万4485人が死亡している。私のブログはしばらく新型コロナウイルスをテーマに語りたい。新型コロナウイルスが露呈したものはたくさんある。まず第一にあげなければならないのは、世界中の国が、思い思いの方法で、新型コロナウイルスの拡大阻止に当たった。今も激戦だ。これに関して、ど
私は子供のころから色が白かった。母親も色が白く、まあ美人のほうであったし、父親も色黒ではなく、平均より白い肌だった。だから手も足も、体も顔も白く、私が育った田舎の子としては異様なほど、色の白い子だった。(葉山森戸海岸。闘病してずいぶん老けました)赤ん坊の頃、有名な歌い手さんが私を抱いて「博多人形みたいだ」と言ったそうだ。友人のほとんどが肌は浅黒く、夏には真っ黒になるが、私は焼いても赤くなって火ぶくれするだけで、また白く戻る。(1980年代
卒業式で歌う「仰げば尊し」という歌がある。「思えばいととし、この年月~」というフレーズがあるが、多くの人は「思えば愛しいこのとしつき」だと思っているかもしれない。本当は「思えばいと疾し(ものすごく速い)この日々」という意味である。まさしく日々はものすごい早さ「疾風のごとく」過ぎていく。(1月は曇天が多かったですね。ようやく晴れた心境。)1月16日、新年会でフランス料理をいただいた時、僕は出されたものを、ほぼ半分しか食べなかった。それは新年11日から新しい「飲
1月7日に熱海へ出かけてからすでに1か月が過ぎた。「2020年よ、良かれ!」そう願って毎日を丁寧に生きているが、人生はそう甘いものではない。この1か月も様々なことが起きた。まず悲しかったのは昔からの友人であり、F1の先導師であった今宮純さんが1月4日に急逝されたことである。まずはFacebookにも投降した追悼文で私の心境を表わしておきたい。(1991年オーストラリアグランプリ。みんな若かった)「F1伝道師今宮純さんの霊に捧ぐ」高桐唯詩。1970年代、
皆様、明けましておめでとうございます。令和初のお正月いかがお過ごしでしたか?(文中登場するMRJ)私の元旦はここ十年決まっていて、早起きしてコンビニまで歩き、各新聞の元日特集を買ってきて読むことをならわしにしています。なぜ、そうしているかというと、新聞各紙が主張する「これからの国のあり方」を読み解きたいということが一番。次いで、地球全体を俯瞰して「未来はどうなっていくのか?」未来学というか、この先の人類の可能性にワクワクしたいという気持
先日Facebookに載せたお話を拡大保存版として、ブログに残しておきます。話はちょっとさかのぼり、2013年からはじまります。お世話になっている芸能界の大御所、ギタリストで歌手のアントニオ古賀さんが、ミャンマーに残された日本人(兵士)の、みたまに捧げるギター「献奏」をするという話が持ち上がり、私は「TVドキュメンタリー」を作る勢いで、さまざまな新聞記事のスクラップを始めました。(2013年のスクラップから)ちょうどその頃はこの国の軍政が解かれ、民主的な国
夏ももう終わりですね。ちょっと前の話ですが、かかりつけのお医者様I先生ご一家が、夏休みを取って「石垣島」と「小浜島」に行くと言っていたので、ぼくの友人である小浜島のミネさんを紹介しておきました。ミネさんは、小浜島の観光のコンシェルジュ第一人者ともいえる人です。ミネさんには電話をして、先生には小浜島のミニ知識プリントを渡しておきました。先生の夏休みが終わって、定期的な診療に行ったら、「先日、行ってきましたよ。ミネさんに会いました。紹介してもらって良かったです」とお礼を
お久しぶりです。6月の湯河原以来のブログです。7月は体の治療に専念していました、8月に入ると、~旅する自転車レース~ツール・ド・フランス「絶景で振り返る第106回大会」というJスポーツの番組の執筆に入っていました。もはやツール・ド・フランスは、説明が不要なくらい有名な、世界最大の自転車ロードレースですが、実は日本ではNHKが1985年に放送しています。その番組を制作したのは僕の友人で、NHKディレクターだった堀川君です。当時コロンビアから参戦したルイス・エレラ選手を追って、
奥湯河原の旅館加満田を初めて訪ねたのは平成5年(1993)の11月9日だった。なぜ加満田か?といえば、ここが「文学の宿」だからである。水上勉、小林秀雄、檀一雄、池波正太郎が足しげく通ったと聞いただけで本物の証明であり、どこを切り取っても日本旅館の真髄が感じられたからである。1993年、僕はラジオ2本、テレビ5本のレギュラーを持ち忙しかった。フジテレビでF1が始まって7年目、多くのことが軌道に乗っていた。が、F1の仕事はシステマチックに完成し、放送作家も歯車の一部、プロデューサーには
私の作家人生に、大きな影響を与えた人物の一人として、有名な脚本家市川森一さんの名前をあげねばならない。市川先生についても今回、まさに初めて書くことになる。(上海にて中国の作家と・・。私は二日酔いのようである)1999年(平成11年)6月偉大な脚本家岩間芳樹先生が急逝された。当時、日本放送作家協会の理事であった私は、茫然としてしまったが、2000年になると周囲の推薦もあり、市川森一さんが理事になられ、選挙の結果、理事長の職を継いでくださった。そういう放送作家の「組織としての話
大恩ある脚本家であり社会派ドラマの巨匠と呼ばれた岩間芳樹さんについて語ろうと思う。岩間先生について書くのは初めてであり、読者の皆様には、どういう方かわからないだろう。まず経歴を紹介する。(岩間先生と私。1995年ヴェニスからベニスの空港まで向かう)岩間芳樹(いわまよしき、1929年10月31日-1999年6月13日)静岡県出身の脚本家。福島県立福島高等学校を経て、早稲田大学第一文学部に入学。学生時代にNHKラジオドラマで脚本家としてデビュー後、1952
薫風心地よい5月20日の午後、わが家のインターホンが鳴り、家内が応対した。すると血相変えた家内が「パパ大変、出て」と言う。モニターに映った女性と話すと「高桐〇〇と申します。高桐唯詩さんですか?」とおっしゃっている。突然のことなので私の頭も大混乱したが、ひとまず入っていただきお話を伺うことにした。ご婦人は「高桐Mさん」と言い、ご両親とお兄様をここ3~4年で亡くされ、相続のため戸籍謄本を取り寄せ、整理しているうちに、岐阜県の高桐本家にたどり着き、本家の主から系図をいただいたという。
令和元年を迎え、早く所感を書こうと思っていたが、「いや、待てよ。お前は平成について何の総括も出来ていないではないか?」と、私の心が叫んでいて、なかなか令和を祝うことができなかった。(1980年代のF2時代)ほんのちょっと前だと思うが、妻のこんな言葉が耳に焼き付いている。「パパ、家族のアルバム整理をやってね」「うん、わかった。そのうちやる」そう言ったのは、平成に入ってすぐの頃だった。しかし、私はその1990年代の家族のアルバムを整理したことがなかった。なぜなら、私は忙しすぎて、時
「モータースポーツってなんだろう」高桐唯詩【Whatisit?TheMotorsports】TadashiTakagiri2019年5月11日モータースポーツってなんだろう?「ぶるんぶるん」と、音がするエンジンが大好きで、思いっきり持てる力を引き出し、スピードを出し、競争する。その魅力に取りつかれてしまった人たちのスポーツ、なのかもしれない。モータースポーツってなんだろう。初めて行ったサーキット。遠くから聞こえてくる甲高い音に心
今日は昔話をさせてください。タイトルを長い英語で書いたので、日本語が入りませんでした。改めて書くと「私をパディントン駅まで連れてって」ということです。1975年9月、僕はたった一人でヨーロッパに旅立った。まずオルリー空港に降り立ち、パリで1泊。ついでロンドンで4泊ほどして、友人だった加藤和彦さんの「サディスティック・ミカバンド」のコンサートをウェンブリー・アリーナで見た。(もちろんロキシーミュージックの前座だった)そして本当の目的であるオッ
去年(2018年)私が書いた「父のアンテナ」ニッポンの田舎にはじめてテレビが映った日という小説は、1950年代にVHFアンテナをめぐって、難視聴地域のテレビアンテナ工事に奮闘したわが父のお話である。世界で使われてきた無線電波は、船舶無線などで使う長波に始まり、我々が良く聞いた深夜放送ラジオなどの中波があり、初期のテレビ放送で使ったVHF帯があり、やがてUHFというように、だんだん波長が短くなり、現在に至っている。さて昨今、雑誌や新聞、WEBメデ
4月、清明の季節に新元号「令和」が決まり、日本は来るべき5月の祝意の祭典に向けて動き出しました。喜ばしいことだと思っております。私自身の2月、3月はあわただしいことのみ多く、なかなか雲が張れませんでした。でも3月31日、雲は晴れたように思っております。歌手の日野美歌さんは20年来の友人で、家族ぐるみのお付き合いです。美歌さんは桜に魅せられた人で、桜のシーズンには必ずコンサートをやってこられました。私もどちらかというと桜狂いの人間で、さくらの歌を好んで書いてきました
「今年のスーパー・フォーミュラは絶対おもしろい」昨日発表したブログその①では、2019年はすべてニューマシンになること。未知の外国人ドライバーがどっと参戦することを挙げた。調子に乗って書いていたら、字数オーバーし、アップできなかったため、前編後編に分けここから後編です。2019年スーパー・フォーミュラ、日本人ドライバーの動向についても書かねばならない。何と言っても2018年のチャンピオン山本尚貴がMUGENを離れDOCOMOTEAMDANDELIONに移籍した
「今年のスーパー・フォーミュラは絶対おもしろい」と断言したところで「スーパー・フォーミュラって何ですか?」と聞かれると困っちゃうけれど、これはつまり日本最高の自動車レース。歴史的には1970年頃から続く「一人乗りのフォーミュラ(レーシングカー)による日本選手権」で、私は古い人間だから70年代のF2時代からこのレースにつきあってきた。その歴史と伝統が、進化と昇華を重ねて2019年の「スーパー・フォーミュラ」へと発展してきた。そうお考え下さい。「F1とどう違うの?」と聞かれれば、
私は1970年にロック番組のディレクターとしてFM東京で仕事を始めた。71年に初来日したエルトン・ジョンには渋谷公会堂の楽屋で密着し彼がブリーフ一枚になってステージ衣装に着替える所にもいた。その後私は3年ほど国内アーティストの大コンサートを主催していたが、加藤和彦のサディスティック・ミカバンドがロンドン公演をする1975年、英国に渡り、ロキシーミュージックとミカバンドをウエンブリーアリーナで見て、そこから1年オックスフォードに住み、ロックコンサート三昧の日々を送った。そ
本来なら東京で挙行されるのがふさわしい、業界の友人たちによる新年会が、私の地元、葉山で開かれました。(PhotobyMHirata)1年前の手術、入院から復活し、リハビリ中の私を気遣っていただき、「お前のところまで行ってあげる」というわけで、本当に嬉しい限りです。場所を決めてくれ、といわれ悩みました。日影茶屋では七五三のお祝いみたいだし旧音羽楼(一葉)は移転。魚佐だと宴会できない。というわけで森戸海岸の魚料理「なじま」さんを予約しました。もっとたくさんお招きしたいと