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お盆が近いので、試みにご先祖様、讃岐高松家の系譜を考察してみた。自分の代から祖父、曽祖父までは分かるが、そこまででだいたい戸籍制度の開始された明治初期か江戸末期になる。それ以前を調べるとなると菩提寺の過去帳、墓碑銘などからだろうか。残念なことに江戸時代中期から末期の讃岐高松家の詳細は明治期に菩提寺で内紛があったそうでよく分からない。南北朝時代の高松頼重から数えると自分で26代目位の末裔と聞いている。現在もどうにかならないものか調べてはいるのだが(^_^;)・・・。天正年間の高松
『讃岐人名辞書』は戦前に出版されたものなので、イロハ順で人名を探すことになる。またデジタル書籍は慣れないと扱いが難しく目が痛くなる(-_-;)しかしながら讃岐の古今の人物の伝記が記されているのでなかなか興味深いもの。岡山には山陽新聞社から出版された『岡山県歴史人物事典』があるが、香川にはこれほどの大著はまだ無いようである。四国新聞社から出版されないかな~?ところで『讃岐人名辞書』には高松左馬助頼邑について以下のように述べられている。「高松頼重の裔なり。道勝と諡す。喜岡城に居
香川県高松市六条町、下田井町、林町周辺には讃岐高松家に縁のある神社仏閣がいくつか存在している。三宮神社(さんぐうじんじゃ、鹿島大明神)、貢八幡神社(みつぎはちまん)、下田井八幡神社、広庭神社、讃岐長専寺などである。また長専寺はもとは由良遠江守兼光の居城であった六条城跡と言われている。『林村史』によれば、長専寺(行基山青樹院)は高松市六条町にある。宗派は浄土真宗沸光寺派である。本尊は阿弥陀如来(行基作と伝う)。縁起は天正年中に沙門順誓が創建した。順誓は初め又五郎といって高松内匠(秀
秀吉の四国侵攻以後の高松家はどうなったのか?滅亡してはいないのです・・・。高松左馬助頼邑が喜岡城で討死にしましたが、事前に妻子、一族郎党を田井郷(高松市下田井町)に逃したと伝わります。その後については『高松内匠武功』、『桑名人物事典』、『大坂の陣・なるほど人物事典』などにより、おおよその来歴を知ることができます。高松家系図景行天皇―神櫛王・・・高松元頼(高松氏祖、奈良時代)・・・・・・高松(舟木)頼重(南北朝時代)―頼春―頼冬―
南北朝時代に讃岐を舞台に華やかに登場した細川定禅に対し、それに追われた高松頼重。その後いったいどうなったのか?『太平記』など史書には喜岡城の戦いに敗れ、屋島の浦から舟で逃れたとあるだけで、その後の行方は不詳です。そしていったい高松頼重の墓はどこにあるのか・・・?それは高松市下田井町に特に目印もなく田畑の一角に頼重の墓であろうと伝わる五輪塔がひっそりとたたずんであります。ボクは高松の地名の由来、起源なのだから高松市の重要文化財に指定されても良いと思うのですがねぇ・・・。みなさん、どうで