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かなりマニアックだが、大阪の八尾市には木村重成と高松信重の墓がある(-∧-)合掌・・・高松信重は応仁の乱(1467~1477年)の際に細川勝元の東軍に属して、西軍の山名宗全と戦い亡くなったと伝えられている。『姓氏家系大辞典』によれば河内の高松氏、讃岐高松家出身の武将ではないかと思われる。讃岐高松氏の室町期の動向はよく分かっていないが、旧高松城(今の古高松にあった喜岡城)を本拠地にして、讃岐の豪族である細川四天王、つまり香川景明(元明)・香西元資・奈良元安・安富盛長の4人などと
お盆が近いので、試みにご先祖様、讃岐高松家の系譜を考察してみた。自分の代から祖父、曽祖父までは分かるが、そこまででだいたい戸籍制度の開始された明治初期か江戸末期になる。それ以前を調べるとなると菩提寺の過去帳、墓碑銘などからだろうか。残念なことに江戸時代中期から末期の讃岐高松家の詳細は明治期に菩提寺で内紛があったそうでよく分からない。南北朝時代の高松頼重から数えると自分で26代目位の末裔と聞いている。現在もどうにかならないものか調べてはいるのだが(^_^;)・・・。天正年間の高松
『讃岐人名辞書』では高松内匠頭について以下のように記されている。「高松左馬助の子なり。性勇猛にして、武術に達し、特に槍術を能くす。慶長年大坂の時、豊臣秀頼に招かれ、冬の陣の時鴫野にて、一番槍をあわせ、功名し明る。夏の陣には木村長門守(木村重成)が手に属し、五月七日若江合戦に、井伊掃部守(井伊直孝)の手に伐かかり、高名すと云え共、其時、長門守は戦死し、大坂落城せしかば、紀州に遁れかくれ居しに、其後大坂落人赦免ありしかば、故郷なれば讃岐へ帰り、生駒家に仕え天寿を全うせりと、寛永頃の人。」
香川の高松市六条町や下田井町周辺で高松家と縁が強いのは貢八幡神社とそれを移転した下田井八幡神社である。貢八幡神社の由緒には「藤原家成十二世の孫、新庄太左衛門長光は初め豊臣の家来であった。もとより八幡宮を信仰し、ある夜夢の枕頭に松の木の高さ十丈余のものを生じ、八幡神が松上に現れた。そのために改めて、高松氏とした。故あって三野郡大野原に帰り、後山田郡田井郷に移る。その子太郎兵衛は長重内匠と名を改めた。慶長四年正月十五日(1599)夜、夢で六条貢が原の八幡宮を場所を選んで移すようにとお
『古高松郷土誌』によると牟礼(むれ)氏は讃岐高松家と縁のある一族になるようだ。しかし、現在ではその牟礼氏が居城とした牟礼城はどこにあったのか確かなことは分からなくなっている。『新選讃岐風土記』で松岡調氏は「中山城山著『全讃史』の牟礼城、牟礼村にあり。今の揚小四郎(揚弘斎)の宅は、その跡なりというのに対して、揚氏の宅地は山田郡古高松村なれば、牟礼城と言うべき筈無し、この地を神櫛王の殿跡と言う伝説あれば、同王の後裔と言えるより混りたるならん」と述べている。牟礼村か古高松地区の何処かにあ
香川県高松市六条町で高松氏に縁のある神社は鹿島神社(三宮神社)、貢八幡神社、下田井八幡神社、広庭神社などが挙げられる。その中で鹿島神社(三宮神社)の由来は少し変わっている。『林村史』などによれば、林村は上林村、下林村、六条村の合併村で、上林村には拝師神社、下林村には岩田神社、六条村には鹿島神社をそれぞれ氏神として祭っていた。ところが、昭和19年(1944)当村に軍用飛行場が設置されたため、岩田神社と拝師神社は、鹿島神社に合わせ祭られた。その後、昭和23年(1948)に社号を三宮神社
秀吉の四国侵攻以後の高松家はどうなったのか?滅亡してはいないのです・・・。高松左馬助頼邑が喜岡城で討死にしましたが、事前に妻子、一族郎党を田井郷(高松市下田井町)に逃したと伝わります。その後については『高松内匠武功』、『桑名人物事典』、『大坂の陣・なるほど人物事典』などにより、おおよその来歴を知ることができます。高松家系図景行天皇―神櫛王・・・高松元頼(高松氏祖、奈良時代)・・・・・・高松(舟木)頼重(南北朝時代)―頼春―頼冬―