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清水寺の後は高村光太郎記念館https://www.hanamaki-takamura-kotaro.jp/へ。記念館と山荘で入場料は700円。記念館の中は撮影禁止。彼の作品が展示されていました。有名な手もあったよ。そして、少し先に高村山荘。高村光太郎はここに疎開してきたんですね。初めは花巻の宮沢家にいましたが、空襲の後にこちらに移ります。まるで賢治のように耕作して過ごしていたのいうのは面白い。戦争協力詩をたくさん書いたために、というより自責の念が強かったようですが、戦後もこの粗末
何時もブログをお読み頂き有り難う御座います。m(._.)m❗️昨日から姉二人と家内の計4人で温泉慰労会で、今朝は朝風呂を満喫してから朝食バイキングを頂いて帰宅の途に付き、途中で高村山荘と高村光太郎記念館を見学しました。自宅に戻ってからは、大根の収穫を手伝って貰い、洗って干して「いぶりがっこ」を漬ける大根にしますよ🎵三姉妹の収穫体験記念にパチリ❗️そして、今宵は収穫大根を使った「ブリ大根汁」、聖護院かぶの「蕪蒸し」、牛肉を朴葉味噌の上で焼いた「いわて南牛の朴葉味噌焼き」、「大根サラダ」、
春の岩手旅行記『【イーハトーブへ・浄土ヶ浜編】さながら極楽浄土のごとし』春休み。とても久しぶりに東北新幹線に乗って3泊4日の岩手県旅行へ行ってきました♪息子の卒業旅行も兼ねて。宮古・浄土ヶ浜へ浄土ヶ浜の名前は、天和年間(16…ameblo.jp『【イーハトーブへ・花巻編】宮沢賢治の心象世界へ』『【イーハトーブへ・浄土ヶ浜編】さながら極楽浄土のごとし』春休み。とても久しぶりに東北新幹線に乗って3泊4日の岩手県旅行へ行ってきました♪息子の卒業旅行も…ameblo.jp高村光
優しい時間優しい時間というのは、カフェの名前です。母が、子供のころから住んでいた実家があった場所の隣にカフェができました。私たちが泊まりにきたら、一緒に行こう!と思っていたそうです。高台にあるカフェで、素敵な建物に、駐車場もゆったり。外観の写真を撮り忘れたのですが、まだできてからそれほど経っていないのに、近所の女性たちの憩いの場となっているようです。こちら2枚の写真は、、実家の花です。花巻温泉の薔薇園にも行ってみましたが、5月中
つづき東北の湯治8日目物凄く寒いありえないけど吐く息が白いしかも部屋の中なのに朝風呂は白猿の湯母は既に4時半頃に朝風呂を済ませている朝風呂入ると疲れるから嫌だと言ってたくせに毎日朝風呂入ってる母でも白猿の湯は深くて怖いらしくもっぱら桂の湯部屋に戻ると私の布団もあげられお湯も沸かされていた10円ガスも使いこなしたようだ流石母朝食そろそろパン食べたいな卵にベーコンウインナーと交互に出される横にバ
今回はタカハシ菓子工房さんです。道の駅はなまき西南で見つけた一品で、高村山荘カフェで作られてると思ったら、タカハシ菓子工房さん作、高村山荘さん販売、道の駅はなまき西南さん場所貸し…みたいな?ベイクドチーズケーキを。ハーフで340円です。しっかり酸味もありつつ甘さ控えめで、おっちゃんmasa-pekoには、いい感じです。さぁ~て、次はどこいこ
年末に花巻で温泉♨️に浸かって二泊三日。最終日にどんぐりと山猫号で、高村光太郎記念館と高村山荘を見学して、小さいギフトショップでこの本を購入。光太郎が花巻にきた理由をきれいな写真付きの説明あって自分への土産にしました。
西日透く光太郎作明かりとりフーザンボー昨日の続きで、高村光太郎が戦後7年間暮らした高村山荘(岩手県花巻市)のことです。写真の一枚目はお借りしました。厠(かわや・トイレ)の扉に「光」と書かれた字、お分かりでしょうか。これは高村光太郎が厠の扉を「光」の字にくり抜いて、明かり取りにしたのです。当時、トイレ内に電灯がなかったのです。それで光太郎は、この明かり取りを工作したのです。「光」は、光太郎の「光」でもあるかな。拙句は「西日透く」としましたが、「月光や光
知足安分光太郎居の土間涼しフーザンボー知足安分・・・高望みしないこと。「足るを知り分に安んず」とも読む。自分の境遇を満足のものと思い、自分の分際に安んじるの意。(大辞林)盛岡に赴任していたとき、花巻市の高村山荘を訪ねたことがあります。だいぶ前のことで記憶が定かではないのですが、とても質素な建物でした。高村光太郎は、昭和20年5月に東京の自宅を空襲で失い、岩手県花巻の宮沢家に疎開。同年秋から小屋で暮らすようになり、そこで7年間を独りで過ごしています。
高村光太郎さんが岩手花巻で8年間過ごした山荘に行ってきました。孫たちも行きたいと言うもんで、私も随分久しぶりです。こういう風景の中で暮らされていたんですね?何とも癒される風景です。高村光太郎記念館です。有名な「道程」の詩などの語り映像や数々の彫塑が展示されててとても興味深いものでした。小さな小川が流れています。高村山荘。小さな池とか。。昔の山荘の写真があり。。紹介看板です。光太郎さんの写真も。。小屋の中で。。鉱山の小屋を移築したとか。。裏山。。お天気で歩くのも気持ち
戦後、高村光太郎が7年ほど暮らした粗末な小屋です。…これ、套屋です⬆実際の小屋はマジにボロいので、保護のため覆われていまして⬇こちらが当時の套屋のない状態の山荘です(比較対象の光太郎は190cm越えです参考まで^^;)レモン哀歌でおなじみの光太郎がなぜ花巻くんだりに!?それは宮沢賢治が結んだ不思議な縁なのですよ(割愛東京大空襲で東京のアトリエを焼かれ花巻の宮澤家で花巻大空襲に会い終戦を迎えた光太郎は戦意高揚の詩をたくさん書いていたことで数多の批判を受け
花巻に行った際に、高村光太郎記念館にも行きました。↑巨大なリースがありました。ドライになってもきれいでした。出来上がった時はさぞ美しかったと思います!彫刻家であり画家であり、詩人であった高村光太郎。父親は高村光雲という有名な仏師で彫刻家でした。上野の西郷さんを作った方です!高村光太郎の作品は早くから注目されていました。同じく芸術家であった妻、智恵子は思うように評価されない自分の作品にプレッシャーを感じ、心の病に陥り亡くなります。智恵子の死後、光太郎は