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皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜いよいよ今川が攻められる時…ってことで第11話の感想ぉ!今川義元が織田信長に桶狭間の戦いで討死してから急落する今川氏。今川を見切る武将が多々出る中、田鶴は今川を見切ろうとした夫、飯尾連龍をクズ…氏真に密告し、連龍は斬られ、遠江の引間城の女城主となっていました。夫を密告するとは…そんな今川を狙うのが…武田信玄。家康は信玄に会いますが、タコ入道ではありませんまだ若い家康は格が違いますね。凄い迫力に家康や本多忠勝も声も出ませんでした
●太源雪斎(1496年~1555年)の家系図③完庵原氏(いはらし。五百原君いほはらのきみ祖?)※廬原国造(いほはらのくにみやつこ)が、駿河国西部を支配する。(駿河国庵原。静岡市清水区)。数代※藤原秀郷(ひでさと。891年~991年?)数代蒲生惟俊(がもうこれとし)(近江蒲生郡。滋賀県日野町)蒲生俊忠(駿河国庵原へ移住する)(上野田忠俊)数代庵原政盛(?~1505年)(庵原城主)正室・興津正信の娘(興津水軍。横山城主)太年尼(たいねんに?)
●山本勘助・穴山梅雪・太源雪斎の家系図①(ウィキペディア。武家家伝他)〇山本氏(紀伊国牟婁郡むろぐん。和歌山県西牟婁郡上富田町潮来いたこ。居住)新羅三郎義光(1045年~1127年)③源義清→武田信玄①源義業(よしなり。佐竹氏祖)(1067年~1133年)山本義定(?~?)山本義経(?~?)→山本勘助〇吉野氏(大和国吉野郡。奈良県吉野町)源満政(?~?994年頃)(美濃国方県郡八島はしま、居住。岐阜県
初めて富士山を見たのは、三保ノ松原からでした。高校2年10月の修学旅行の時でした。前日は芦ノ湖畔に泊まりましたが、今にも雨が降りそうな厚い雲で、富士山は見えませんでした。東京に住んでいた頃、東海道新幹線の富士川の鉄橋付近で富士山をよく見ました。昼間、通った時は雨降りがなく、いつも山頂が見えました。太平洋側から見た富士山です。表富士ですね。反対側から裏富士を見たいと思いました。「風林火山の旅」と称して、甲府、諏訪、松本、松代(現在は長野市の一部)を廻りました。甲府市では、武田信虎、
杉並区を探索しています。観泉寺にやって来ました。寺の前の道が三差路になっており、その間のデルタ地帯には、多くの仏像や石碑が集められています。珍しい猫の供養塔。道を挟んだ反対側には、地蔵菩薩や如意輪観音が並べられています。余談ですが、寺の前のデルタ地帯は交通の緩衝エリアになっていて、休憩中のタクシーの列が出来ていました。観泉寺の山門前には、今川家の菩提寺であることを示す石碑が建っています。今川義元が桶狭間の戦いで敗れた後、武田信玄と
本日二回目のブログ更新です。仲間から、「これが、ツアーの写真や」と駿河遠征の写真が届きました。「嫌味会」での駿河遠征の一部コースは嘗て、訪問した記憶があります。6年前のことです。ロープウエイに乗り、富士山の展望を楽しむ場所(名前も忘れたわ)も同じです。今回は爺ばかりですが、前回、別グループでは人畜無害のおばちゃんたちとも合流し、浮名を?流したものです。今回と同じく、曇り空で富士山は拝めませんでしたが・・・・
戦国無双4DX始めました。アクション苦手な私でも手軽に爽快なプレイを体験出来ます。ゴリ押しとも言いますが!章ごとに使える武将が違うので、安定の幸村を使いたくて武田の章から始めました。(章をクリアしていくとロックがかかってる章が遊べるようになります。)最初はやはり川中島の戦いですね。幸村をメインにしてパートナーはくのいちにしました。久しぶりにプレイするので幸村で肩慣らしです。駿河侵攻クリアして、三方原の戦いで恐ろしく硬く一撃の攻撃力が高い本多忠勝を倒して三方原の戦いもクリア。長篠
皆の者お早うさんじゃ!大ふへん者前田慶次である。我が日記帳開き大義。けふも戦働きに励んで参ろう!して、本日も皆に歴史を伝えるべく筆を執り申す。四百年前の今日何が起きたか。。。此度の題目武田信玄、同盟破棄をし今川氏真討伐の為駿河へ侵攻!(題目が長い…!!)1568年12月6日に起きた出来事。武田信玄公は知ってあるな?甲斐国(山梨県)の領主にして天下に武田の騎馬隊を轟かせた智と武を有した戦国無双の男!今川氏真殿は桶狭間の戦いで敗れた今川義元公の子息にして今川領主を跡を継
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。1569年11月、武田信玄(たけだしんげん)が再び駿河国に侵攻してきました。先の三増峠の戦い(みますとうげのたたかい)から1ヶ月しか経ってないのに、信玄さんは攻めてきたんだよ。1570年になり、綱成(つなしげ)は氏政(うじまさ)に呼び出されました。氏政「信玄が横山城(よこやまじょう)や蒲原城(かんばらじょう)を落としよった。」蒲原城跡(現在の静岡県静岡市清水区蒲原城山)綱成「信玄は先の小田
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。1569年、駿河侵攻してきた武田信玄(たけだしんげん)は常陸国の佐竹氏(さたけし)や安房国の里見氏(さとみし)に我が北条を牽制しるよう呼びかけました。しかし綱成(つなしげ)の嫡男・康成(やすしげ)らがそれらを抑えたのです。康成は戦前に綱成からあることを言い聞かされていたのです。康成「父上、佐竹や里見を抑えても越後の上杉輝虎(うえすぎてるとら)が攻めてきたら、さすがに抑えることは難しくなります。