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昨日の長篠城城外編の続きです。『天然の要塞長篠城を城外から観察』昨日(9月9日)、奥三河の長篠城に行ってみました。天然の要塞と言われる長篠城に向けて豊川を遡ってみました。なかなか豊川が作る渓谷は道路からは見えづらいです。…ameblo.jpこのブログの続きです。長篠城の城外編もう少し続きます。長篠城址のすぐそばに中央構造線が露頭している場所があり行ってみました。長篠城の崖に露頭はあります。寒狭川が浸食した崖の一部に断層が露出してます。露頭は鳥居強右衛門の磔趾より少し
旧東海道菊川坂石畳を登りきったところにある「茶房・こもれび」で涼んだ後、JR金谷駅に向かいます。この菊川坂石畳を登り始めたとき、もう心折れ、今回の旧東海道歩きは、島田宿及びその東は諦め、JR金谷駅で終了し、帰名すると決めました。JR金谷駅までは下りで30~40分ほどで行けそうです。その前に、茶房の前・旧東海道沿いにある「国史跡・諏訪原城跡」を訪ねます。天正元年(1573)、武田勝頼は遠江侵攻のための拠点とするため、家臣馬場美濃守信春に命じて牧之原台地に城を築きました。城内に諏
先日、5月21日は、旧暦の長篠の戦いの日でした。この戦で、武田勝頼率いる武田軍は、織田・徳川連合軍と、現在の愛知県新城市にて戦をし、武田軍は重臣を含む多くの戦死者を出し、大敗しました。この戦で亡くなった武将の1人が私が住む甲斐駒エリアゆかりの人物、馬場美濃守信春です。旧暦のご命日に、白州町の自元寺様にある馬場美濃守信春公のお墓詣りに行きました。ニアミスでお会いできませんでしたが、この日は命日だけあって関西の知人の方もお墓詣りに来ていたみたい本当は設楽原のお墓に行き
次は、立札の後ろにあるお地蔵様に、願い事をすると叶うみたいな事が書いてあったので、(//∇//)ちょっとだけ、願い事しました。(//∇//)⬆︎この池で討ち取った首を洗ったらしい…なので首洗池と呼ばれたみたい…もう少しで終わる…_| ̄|○ので、⬇︎は、真田信綱、昌輝兄弟のお墓設楽が原からは、少し離れた山中にあった‼️真田信綱信綱の最期天正2年(1574年)5月に幸隆の死去に伴い正式に真田家の家督を継いだ信綱は[4]、その一年後、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い
おはようございます😃(株)ハヤノ早野石材店のジャム爺&憲吾です。長篠城址の続きです♪───O(≧∇≦)────♪見えないですが、断崖になっており更に川が流れて、敵の新入を拒んでます。⬆︎、内堀長篠城と言えば鳥居強右衛門‼️それが此方‼️観た方も多いかとは思いますが…味方を助ける為に、囲まれてる城から命懸けで、脱出し家康、信長に援軍要請‼️約定を取り付けたら、またその脚で城に戻る途中で捕まり…城兵に援軍は来ないと言えば命を助けると言われ、承諾城兵の前に…そこで
静波、相良の波checkをしまして…小波で人は少ないし、いまいち気分がのらずちょい様子をみて待ってみようとその間、すぐそばにある…本当にいつものpointのすぐそばにあった、滝境城なんとっ馬場美濃守が築いたお城っ道理でUはこのpointがお気に入りなわけだわ何だか心地いいんだよねそぉかぁ、武田がそばにいたのねぇ~と感激しながら車はこの看板脇に路駐しちゃっていざ~~~っちなみにbackのお山が滝境城址細い住宅街を進むとこの看板矢印の指す方角は、若宮八幡神社さんテンション
今回は久しぶりの、おいで~ComeOn~♪家紋~♪です。まずは武田信玄に仕え、生涯無傷を通して鬼美濃と呼ばれた『馬場美濃守信房』が使用していた『花菱紋』元々は、馬場美濃守信房は、教来石景政という名でしたが、信玄の父であった信虎が武田家臣団内での名門であった、馬場氏を粛正してしまいました。信玄の代になり、その馬場氏の名跡を継いで馬場信房と名乗る様にと、信玄から命じられて改名しています。この『花菱紋』は、馬場氏の紋でしたが、武田家はその
昨日10月11日(火)は、武田信玄公菩提寺の恵林寺にて、不死身の鬼美濃、馬場美濃守信春と、おもてなし出陣をして参った!!昨日も、ここ甲斐国甲州市は葡萄(ぶどう)が食べ頃でもあり、多くの観光客がお越し下された!!主に、東京、神奈川、千葉、埼玉、長野、大阪、そして織田信長の愛知からであるが、哀しいことに、恵林寺は織田軍に焼き討ちされた歴史がある・・・よって興味があったようじゃ!!不死身の鬼美濃も、子供達に優しく声をかけたりして一生懸命おもてなしをしておった!!これからは益々、恵林寺境内は紅
高野山の武将の墓めぐり、馬場信春のお墓です。人物名墓のある施設住所馬場信春高野山奥之院和歌山県伊都郡高野町高野山誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読み込みすると表示されるようです。馬場信春の墓は高野山奥之院にあります。右地図は奥之院の弘法大師御廟をマークしてありますが、墓は一の橋から弘法大師御廟へと続く参道にあります。高野山
戦国時代の武将で猛将と言われる人物程、実は強さだけでなくて敵将への敬意や情けも持っています。猛将本多忠勝の、袈裟(けさ)に掛けた大数珠姿は有名ですが、あの大数珠は戦において敵の中に、童(わらべ)の姿を見て取るも、戦国の習いに従い討ち取る事になりました。その後から、自ら討ち取った敵将達への供養の意味で、以後は身に付け出しています。武田信玄率いる武田家には猛将と呼ばれる武将が数多くいましたが、信玄の父信虎の時代より仕えていて、武田二十四将にも数えられたり(この二十四人は、上げられる人物がまちま