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0泊2日の弾丸旅行へ行ってきました!仕事終わらせて家族へのやる事を全て終わらせてから!車に布団積んで!いざっ!デッパツ🚗夫婦初の車中泊旅行🚗今回の旅先は、福島県会津若松!会津に来たのは多分、22年ぶり!妻と結婚して初めての旅行が会津若松でして!2人ともまだ18歳か19歳だったかな?😅当時は、お金もなくて海外旅行に連れて行けなかったな😭貧乏旅行で良い思い出だったのか?分からないけど!そんな会津に最近また行きたいと言う妻!日光へ行くつもりでしたが!思い切って会津若松まで行く
令和5年12月20日現在、『愚直に生きた下巻』(歴史春秋社)ですが、カテゴリー・新刊案内で1位、注目の書籍では3位となっています。Amazonでは在庫がなくなったり、補充されたりとかのようです。https://www.amazon.co.jp/%E6%84%9A%E7%9B%B4%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%9F-%E4%B8%8B%E5%B7%BB-%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%93%B2%E4%B9%9F/dp/486762
本書は、『会津人群像№38~41』まで連載を行ったうち「愚直に生きた⑯⑱」二編に次の原稿を書き加えたものです。『会津人群像№40』の「土方歳三の新史料が語るもの」、『会津人群像№43』の「波乱に満ちた維新後の生涯飯沼貞吉伝」に戊辰戦争以前の生涯を加筆校正したもの、新選組副長助勤であった永倉新八の生涯を新たに加えた三編です。「愚直に生きた⑰大庭恭平」は機会があれば、後にまとめたいと思います。今回も新たに見つけることができた史料を組み込み、書き続けたものをまとめました。多くの史料を駆使して、
みんなの回答を見る『愚直に生きた上巻』が出版されてから1年経過しました。数か月後には、『愚直に生きた下巻』が書店に並びます。来週にはゲラが来るようです。
飯盛山には、白虎隊唯一の生き残り飯沼貞吉の墓参りです。飯沼貞吉とは嘉永7年3月25日生まれ。慶応4年会津藩の白虎隊編制のとき15歳を16歳といつわり入隊。新政府軍の会津攻撃の際、飯盛山で隊士19名とともに自刃をはかったがただひとり生還。維新後貞雄と改名。逓信技師となり、仙台逓信管理局工務部長をつとめ日清戦争にも従軍した。昭和6年6月12日死去。78歳。飯盛山の墓には、遺髪と歯が埋葬されております。
8年振り2回目、1986年の放送をリアルタイムで観ているので観るのは3回目です。分かっていても、OPの鈴木瑞穂さんのナレーションに「愛しき日々」でもうそして、いやもう豪華!出演者、セット、ロケ、合戦シーン、そして衣装!新たな気づきも。佐川官兵衛は本田博太郎さんでした!若き日の本田さん、派手な殺陣を見せてくれました世良修蔵の泉谷しげるさんは思ったより出番が少ない。もっと多い印象でした。強烈なインパクトのせいですねこの頃の時代劇ではお歯黒がまだあった。今
新潟・会津4泊5日の旅part14~白虎隊とさざえ堂~次は飯盛山方面に向かう。会津武家屋敷からは車でせいぜい10分ほど。市営飯盛山観光客専用駐車場に車を停める。時刻は午後3時過ぎ。駐車場は6割程度の入り。道路を渡って仲見世通りへ。「小池菓子舗飯盛山店」に寄る。ねらいは粟まんじゅう。妻が日持ちについて尋ねたところ、「今日を入れて二日」ということだったので、栗まんじゅう(こちらの方が多少日持ちする)と一緒に6個ずつを購入。
『WiLL11月特集号』がワック出版から送られてきました。何だろう?と思い、文中を読み進めると、中村彰彦さんの連載「歴史の足音第71回」において「白虎隊・飯沼貞吉「長州滞在説」の崩壊」を書かれていました。そこで、『会津人群像43号』に寄稿した飯沼貞吉についてを色々と賞賛されておられました。『愚直に生きた下巻』に収録されるということまで書かれておられます。
『会津人群像№43』(歴史春秋社)が出版されました。私は「波乱に満ちた維新後の生涯飯沼貞吉伝」を寄稿しています。飯沼貞雄の新史料を掲載しました。季刊2021no.43ISBN978-4-86762-001-4B5版・並製・192頁佐々木長生、鶴賀イチ、三角美冬、安藤智重、大場美弥子鶴賀申之助、河野十四生、平山誠一、池月映、伊藤哲也今回の特集は、英才を多く排出した会津藩校日新館になっております。また、現代に蘇る奥会津の究極的民俗芸術南郷刺し子や会津の船乗りたちなど
(会津と長州・・・前置きが長くなります)数年前、「飯盛山で自刃した白虎隊士の生き残りが長州で養育されていた」という山口ローカルのTV番組を観てビックリしました。現代でも会津人は長州人(=山口県人)にわだかまりを持っているほど会津戦争の恨みは晴れていない、とどこかで読んで信じていたからです。実際、山口県に住むようになって知り合った人からは直接、『そのために福島の方に行った時に嫌な思いをしたことがある』、と聞いいたことがあります。この小説を読む機会に調べてみると、・”会津の
よく新刊の売り出し文句で、帯とかに「●回泣いた」と書いてありますが、それは大ゲサだろ〜そんなことあるかいな〜と疑り深いわたしは思っていました。が、今回本当に体験しました。●回泣くというのを。4回だったか5回だったか…ちょっといろいろと感情移入しちゃったな。題材がもう泣けます。戊辰戦争時に会津藩の若者達で構成された白虎隊が、飯盛山で集団自決したのは有名ですが、このうち飯沼貞吉だけが死にきれずに蘇生し、たった一人の生き残りとなりました。その飯沼貞吉の余生の物語
会津の鉱山や白虎隊を調べて書いてこられた佐藤一男氏が他界されたそうです。私との共著となりますと、『会津藩士銘々伝』でした。佐藤氏が飯沼貞吉を執筆されました。佐藤さん、白虎隊の会の役員か何かしていたかとも思いました。気になり、白虎隊の会HPを開くと会報が読めたのでチラリ・・。子孫の隊は木田さんの夢から始まった。木田さんは藩侯行列の数週間前に他界されたと書かれておりました。確かに、そうです。でも、斎藤一忌後の隊士行列には参加されているのです。御子孫3人で私が組長・井上源三郎でした。新聞には子供を
こんにちは、せんたろうです。週末は友人宅のリフォームDIYをしていました~今回はクロスの塗装をしました。当初の予定ではクロスの貼り替えをすることにしていましたが、ここにきて、リフォーム代を節約したいということで、クロスの塗装に変更になりました。キッチンの壁はけっこう汚れてますね~塗装でキレイになるんでしょうか・・・。反対側の壁も汚れてますね~まずは壁の汚れをサッと落としてペンキが付かないように分電盤や巾
千里の虎ファン@senrinotoraBISTROSUNSHINE│α-STATIONFM京都https://t.co/u3QuScZVsQ#radiko#αSTATION#FM京都#山本量子#飯沼雅浩#西京焼き#グルメ#京都速報#京都旅行#京都散策#京都文化#カワイイ#美人女子アナ2021年01月13日14:02
2020年11月2日前回のブログの続き・・・熱塩加納町にある、山の様子センサーカメラに映っていた物!https://ameblo.jp/gottu0422/entry-12635433183.html山の様子を見に行った帰り、グーグルマップで面白い場所を探していたら、『白虎隊の飯沼貞吉ゆかりの地』なるものを発見!帰りに寄ることにしました。墓標みたいなのがありました。その奥に不動尊堂があります。古い額に入った絵がありました。奥には、小さな滝があります一通り見学を終えて、
「ひとり白虎」会津から長州へ植松三十里久しぶりの傑作!とっても面白い本でした。飯沼貞吉さんの苦労が報われて良かった。来月の会津への旅でこの本を思い出すでしょう。ちなみに貞吉は、山崎賢人!頼三は、鈴木亮平を配役にして想像して読みました。
堅固な守り、名残今も紀宝町文化財「京城跡」中日新聞紀宝町大里の相野谷(おのだに)中学校の隣にある小さな山。町文化財の「京城跡(みやこのじょうせき)」で、歴史ファンらから注目されつつある山城だ。今後の...遊行寺宝物館で時宗二祖上人七百年御遠忌記念特別展「真教と時衆」神奈川産経ニュース遊行寺宝物館の会場に入ると、ガラスケースのなかに重要文化財「真教上人坐像」(鎌倉時代)。背面のガラス越しに、壁面に貼られた真教筆の「六字名号(真教上...まるでミイラ?東京・高輪の「ゆうれ
白虎隊に関する作品みたことある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう白虎隊あります面白くなかったな白虎隊は16歳から17歳までの少年で編成されていたらしい。悲劇として語られている。町に火の手が上がったのを落城と思い自刃しましたが、鶴ヶ城が降伏により開城したのは1ヶ月後のことでした。そそっかしいやつらだ。しかしながら、自刃というのは美徳なんですかね。今じゃ考えられませんけれどその思想は第二次大戦まであっ
飯盛山にやって来ました今回で3度目の訪問ベルトコンベアを使わず階段を183段登るのが私流.......ローマ記念碑▼ムッソリーニは日本の武士道を高く評価していたんだよね~まずはやっぱり白虎隊自刃の地へ向かいました......この隊士が眺めている方角にあるのがあの......鶴ヶ城......戊辰戦争の悲劇の一つですね......飯沼貞吉さんの前でも合掌です.......奇跡的に生き残ったことでこの悲劇が明らかになったのですもちろん白虎隊十九士の前でも
北海道2日目の天気も小雨と強風モエレ沼公園などの景色の良い場所に行く予定でしたが、御朱印行脚に変更地下鉄東豊線豊水すすきの駅下車札幌第一ホテルの一角に・・・白虎隊唯一の生存者飯沼貞吉の住居があった地に碑がありますたったこれだけなのですが先日読んだばかりの「ひとり白虎」の余韻もあり訪れてみました会津松平家十三代の書です石碑から少し歩くと成田山札幌別院新栄寺手水舎龍が向かい合わせで珍しい
白虎隊の生き残り飯沼貞吉助け出された後、何と長州藩士楢崎頼三に引き取られ、美祢市で育てられます。会津では生き残った事で虐められたそうです。美祢に行ってからも自決をはかっています。しかし、勉学に励み電信技師になります。逓信省(当時は工部省)に入り下関に赴任、九州、新潟、広島、東京、札幌そして仙台にて工務部長に就任し電信電話に貢献するのです。長州に引き取られた事は一切口にする事は無かったそうですが、近年になって明らかにされてきました。この話を知って気になったのは、当時の会津と長州の宗教
6月7日(金)白虎隊十九士の墓の次は、『鶴ヶ城』です鶴ヶ城🏯の中もリニューアルされたようで、変わっていました中で撮った写真はこの3枚2枚目の写真は、私が大好きな白虎隊士篠田儀三郎3枚目の写真は、1人生き残った白虎隊士飯沼貞吉こちらの2枚は、展望台から撮った景色です天気が良かったら、もっと綺麗なのになぁ
小さい頃読んだ白虎隊の飯盛山での自決に感動して中学校の時に青春18切符で伊勢から会津まで鈍行列車に乗って行きました。以降も大学、社会人と震災前まで5度ほど訪ねました。街並みも好き。飯盛山訪問時に白虎隊自決者の中1人生き残った飯沼貞吉という人がいて、維新後に偉くなったということ聞いて興味を持っていました。しかし飯沼貞吉さんの人生は生き残った人にしか理解できない苦しさに満ちたものでした。明治維新の元会津藩士としてのつらさと会津藩内での生き残ったことでの孤独
飯沼貞吉の生家、会津若松市西栄町1-82飯沼貞吉之墓、会津若松市一箕町大字八幡弁天下-1404−4参考①飯沼貞吉の育ての親、長州藩士・楢崎頼三(参考)②飯沼貞吉が下関市の電信局を作った
こんにちは(*^-^*)ひろむです。訪問ありがとうございます。9月22~24日の3日間福島県の会津まつりへ行ってきました。会津の旅【1日目】です。会津若松駅に到着し、まずは新撰組·斎藤一さんにご挨拶しようかなと阿弥陀寺へ向かうことに(*^-^*)しかし、市内循環しているバス「あかべえ」と「ハイカラさん」の運行時間が合わず、先に飯盛山を目指すことにしました(*´-`*)ゞ戊辰戦争で亡くなった白虎隊のお墓がある場所です(*´ェ`*)上へ行くスロープコンベア(有料)もある
前回の続き飯盛山の近くの駐車場に車を止め、すぐ近くの飯盛山に7時20分頃に着き、前方を見ると結構な階段があるのである。右横にはスロープコンベアーと言う物があり時間を見ていると運転時間の開始には時間があるようで階段を上っていくしかないかと思っていると、横の料金所の中に人がいて今から動かしてもいいですよ、と言いながら、でも、あまり意味がないですよとも言うので階段を歩いていく事にした。ここ飯盛山は徳川時代の末期の頃の戊辰戦争で白虎隊が集団自決した所で特に有名な所だが、この戊辰戦争では会津藩は賊軍と
1868年白虎隊が飯盛山で自刃した日。白虎隊って知ってる?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう生き残りの飯沼貞吉の話では16名が本当は15名だそうです(ノД`)…。・゜゜(ノД`)
BLGフレンズナベちゃんさんですリブさせていただきましたありがとうございます
1868年白虎隊が飯盛山で自刃した日。白虎隊って知ってる?会津の悲劇の話ですよね。飯沼貞吉が生き残ったことで、後々まで伝えられることになりましたよね。高校卒業のときに会津の白虎隊記念館行きました。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
自分で過去のブログをリブログ二年前にこう書いていたその頃は駐車場に奥まって立てられていた碑いまは通り沿いにいまも相変わらずポケモンgoのポケストップ