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スポットのひとつ久々利城現在開催中のエリア限定めぐり「森一族闘将の系譜」に関して、終了日である2月23日(月)が迫ってまいりました!!今回のエリ限は、岐阜県可児市、長野県長野市・飯山市、岡山県津山市をめぐるという、可児市さん協賛の企画としても、エリ限の歴史的にも異例の超広域スタンプラリーです。にも関わらず今日までにたくさんの方が全制覇され、森三兄弟を登用いただいています。しかも今年は寒波がたびたび訪れて、特に長野エリアなどは制覇が大変な中で、本当にありがたく思っております..
10月2日。大人の休日クラブパスの旅4日目。飯山線を乗りに行くことにします。上野駅からはくたか551号で飯山へ。朝ごはん。下北で買ってきたロールケーキ。飯山駅着。251002北陸新幹線はくたか551号上野から飯山https://www.youtube.com/watch?v=d9L7NrauBewエキタグ貰いました。飯山駅前に寺の山門みたいな建物がありました。中にはかって善光寺の参道に立っていた二王像。飯山の職人が作ったそうで、今はこちらに移さ
先週金曜日に詳細を発表した舌の根もまだ十分にうるおっている状態の中、本日続報をお届けします。詳細発表時に、“今回のエリ限は森忠政をテーマとしたものです”と書きました。しかしながら、洞察力に優れた方ならばお気づきかと思います、現状、家臣団コレクションに森忠政はいません。エリ限の主役にしておきながらそれはまずかろうということで、スタート日(8月27日)から限定ではない通常武将として、森忠政が家臣団コレクションに登場します。城攻めでも遠国探索でもどちらでも発見可能ですので、以後よろしくお願
先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば
大変お待たせいたしました。7月25日に発表したエリ限第三十一弾についての詳細をお届けします!!既報の通り今回のエリ限は、森忠政をテーマとしたものです。題して、「森一族闘将の系譜」。忠政は、父・可成(よしなり)が志賀の陣で戦死、いずれも兄である、可隆が手筒山で、長可が長久手で、蘭丸・坊丸・力丸の3人が本能寺で、それぞれ戦死したことから、六男でありながら森家の家督を継ぎます。強敵と戦って戦場に散った一族の魂を受け継ぎ江戸時代に家名を残した忠政が、美濃金山城(岐阜県可児市
6月24日、長野県中野市の中野陣屋へ。天領陣屋跡と書かれた石碑。天領とは、徳川幕府の領地という意味。つまり中野陣屋は徳川幕府の直轄ということです。この館は戦国時代初期から高梨氏館の高梨氏が治めていたが、上杉景勝が1598年に会津移封となり、高梨氏も会津へ移動し高梨氏館は廃城。江戸時代初期に幕府の直轄地となり、高梨氏館の代わりに政庁の拠点である陣屋が置かれた。明治になると引き続き「中野県の県庁」となったが、わずか10ヶ月後に県庁は長野市に移転し、県名も「長野県」となりま
陣山砦(真庭市上水田字井殿・宮地)故事来歴は不明であるが、飯山城跡の出丸であったとする説がある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)主郭北東帯曲輪下段主郭北東帯曲輪上段主郭中央上段主郭南東下段主郭西下段主郭南下段南二郭上段帯曲輪南二郭南三郭上段帯曲輪南三郭陣山砦遠望軌跡ログ旧上房郡北房町の城
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ
飯山城址弓道場そうはいえば茂左衛門の会場にも弓道場ありました。国道292号冬季閉鎖草津から渋峠通行止め
名称:飯山城(いいやまじょう)城郭:平山城築城年:室町時代築城主:泉氏改修者:上杉謙信、岩井信能主要城主:泉氏、上杉氏、岩井氏、関氏、皆川氏、堀氏、佐久間氏、松平氏、永井氏、青山氏所在地:飯山市飯山2752-1指定文化財:県指定史跡石垣南中門南西隅櫓跡本丸へ本丸桝形虎口石垣本丸櫓台石垣井戸跡北中門跡、土塁縄張図
長野県飯山市飯山城跡次来たとき飯山城の御城印もらいたい。中野市谷厳寺暑いからイオンモールに寄ってきた
かつての飯山城のイメージと言えば、重厚な櫓門がぽつんとあって、そこからお城っぽくない空間が広がって、突然本丸の石垣が現れる・・・といった風情だったと思うのですが、久しぶりに訪ねてみたらずいぶん様相が異なっていました。あれ?こんなんだっけ?西の丸のところが芝生の広場になって見通しが効くようになり、主要部との段差に設けられた切岸が威圧感を持って聳えていました。これ、昔からでしたっけ?昔の筆者の目が節穴だったのか、それとも最近になってこの一帯が開かれたのか・・・。いずれにしても、多分に近代
木造駅舎の北飯山駅です。写真左側が飯山方面です。駅前の案内板。北飯山駅は飯山市街地の中にあります。飯山城に近いため、駅周辺は寺院や神社が多いです。十日町方面を撮影。飯山方面を撮影。
飯山藩は~野尻湖から黒姫山まで含まれていました~長野県立歴史館所蔵の「松代封内図」~昨日4日の「大聖寺開基450年記念講演会」で、飯綱町いいづな歴史ふれあい館小山丈夫さんが、飯山藩の所領地に上水内郡の飯綱町などが飯山藩に属していたと話されました。いいづな歴史ふれあい館が、飯綱町10周年を記念してまとめられた「飯綱の地をひらいた殿様~佐久間兄弟と長沼藩・飯山藩」の中に、長野県立歴史館所蔵の「松代封内図」が掲載されています。これは、寛永5年~9年(1628年~32)ころの北信濃諸大名の領地色分け
500城址攻城ブログ🏯(東日本編・中日本編・西日本編)306城目は雁田城ですよぉー本日最終目的地となるコチラ麓の小城と中腹部の大城と一体で雁田城跡とされる山城跡登城起点は岩松院4月にも長野の山城巡りましたケドそん時の埴原城やら山家城ら同様にマイナー寺社~マイナー城址へと閑散貸切状態かと思いきや一帯の駐車場はほぼ満杯で大型バスすら乗り付ける賑わいっぷり後で調べたところ皆様のお目当ては↓葛飾北斎直筆の『八方睨み鳳凰図』が岩松院本堂天井に在るらしい(
500城址攻城ブログ🏯(東日本編・中日本編・西日本編)305城目は飯山城ですよぉー秋山郷→鍋倉山と秘境巡りを経てココ最近は山城跡ばっか続いた中で久々の平山城跡の飯山城跡たいそう立派な城門復元をくぐり本丸跡へと向かいませう長屋跡は公園へリフォームされ本丸跡はお社が祀られる定番系城跡さては残念系かと思いきや石垣跡は至る所に遺っておりビジュアル面は個人的に及第点本丸二重櫓跡や不明門跡と想像で楽しむ箇所もあれど本丸門跡や坂口門跡と残存遺構を愛でる箇
今日は一日お仕事でした。我が社の今後を占う大事な大事な会議でした。一日がかりで様々な視点で議論しました。正直、疲れた。一歩間違えれば、やる気を失いかねない状況です。自らの士気を高めるって、なかなか大変ですね。さて、城画像の紹介は、とうとうラストを迎えました。今回は、米子市にある飯山城です。①~⑤実は、米子城の目の前の城です。米子城との間に、国道9号線が突っ切っています。米子城を巡るお家騒動から発展した混乱の舞台だったようです。次回からは、「古墳・旧跡」の画像を
全国お城の「石・石垣シリーズ」は、今回から『「石」の加工度×積み方』の「谷積み(落し積み)」を導入しているお城を、日本の北から南にかけてお届けしていきます。今回は、「東日本(北海道、東北、関東、甲信越)」のお城の中で見られる「谷積み(落し積み)」をお届けします。「谷積み(落し積み)」という積み方は、変則的な積み方の一つとして、成形した石を斜めに積上げて行く手法で、石の重みによって石が下がるので、比較的積みやすく、江戸時代末期以降に多く使われるようになりました。同じお城でも、今ま
いつも、千曲川の道を走っていると気になっていた飯山城。法人会青年部の会が長野市で開催をチャンス!として行って来た。飯山城の城門遺構。平山城。結構な勾配です。なかなか素敵な城跡でした。飯山城は上杉謙信が武田信玄への備えの全線基地として改修、使用。北信濃支配の重要拠点だったそうです。また、当地の堀家と親戚の堀家が治めていた時期もあります。明治維新後には藩庁が置かれていたそうです。わかさん着物専門店いしかわや
こんにちは~。長野、すごい雨が降ってきました。最近雨続きで、いやですね~。雷もなってるし。前回の続きになります。新町宿本陣跡を出て、北へ向かって歩きます。追分に出ました。北國街道は直進ですが、右は飯山街道になっています。ちゃんと道標も残っていますよ。右:いい山なかの左:志ぶゆくさつ道と書かれていて、左:北國街道と書かれています。慶応元年(1865)建立のものです。渋、草津温泉は昔から有名だったのですね。薬師堂がありましたが、民家感が凄くて入りにくかったので、道路から
飯山線撮影後は地元のニュースか何かで見た飯山城へ桜が出迎えてくれましたバックには千曲川自然の堀なんでしょうね場内にあった長野県スキー発祥の地の碑です長野でのスキーはここから始まったのですねここで20分ほどのんびりして高速で移動です。飯山城を出る頃から雨になりました帰り道にていくら標高が高いといっても雪ではありません。高原野菜発祥の地長野県川上村です。白いのはレタス畑のマルチですね♪この近くを走っているのが小海線最高地点に向けて30/1000の急勾配区間が続きま
ご無沙汰しております。ぬるですけども現在、北陸新幹線飯山駅に来ております。ローカル線にあるごく普通の駅だった飯山駅も北陸新幹線のルートに組み込まれて駅舎もだいぶ立派になりました。暗くて見づらいですが駅舎の右側に在来線ホームがあります。駅の改札口。左側が北陸新幹線、右側が飯山線の改札口です。わたしの旅スタンプ台。飯山線車内に設置されていただるまストーブ。飯山線改札口です。豪雪地帯を走行します。割と大きな地震もたまにあります。飯山線在来線ホーム。十日町方面を撮影。飯山線在来線ホー
長野遠征12回目は上記4城。マイナー城しか残っていません。飯山城はややメジャーですが、山城、合戦というキーワードにあてはまらないので私の優先度は低く、今回になりました。本当は上記4城に加えて小諸城にも行く予定でしたが、のんびりしすぎて小諸まで行っても十分見学できない恐れがあったのでやめにし、松代温泉に入りました。春山城所要時間135分(蓮台寺に駐車し、こしき岩までの往復)明確な遺構はほとんどありませんが、↓は堀です。尾根上に城跡があります。城域及びやや山頂方向に展
只今、「門」と「櫓」を兼ね備え、特に「大手」等の重要箇所を固めた最強の門であった「櫓門」シリーズをお届け中です。今回は、第28弾の「飯山城」(長野県飯山市)の「櫓門」です。「飯山城南中門」(移築復興)移築復興「飯山城南中門」「飯山城」の歴史は、伝承では鎌倉時代の砦がスタートですが、「武田信玄」の侵攻によって、当時の飯山周辺の国人達は「上杉謙信」に救援を求め、「飯山城」は「謙信」のものとなり改修が行われます。その後、「御館(おだて)の乱」で勝利した「上杉景勝」は
米子城全ての道を歩く。三の丸駐車場から飯山城跡(采女丸)へ登り城と関係ない慰霊碑が有るのみ、米子城天守の石垣を見るだけ。采女丸から本丸を見る、ちょっとだけ天空になる9号線を西に歩き南西側から登り、本丸の少し下毘沙門石仏から中海展望台方向に歩く、そして本丸に上がり駐車場に戻る一番しんどいルートだった。南西側から本丸本丸天守の一段下になる石垣、熊本城に似てる武者返しに見える。上からは足がすくむ。最後に枡形と発掘調査中の場所を見学。枡形も当時とは違うか?近年に、一度は修復された痕跡があ
娘がとびひになって保育園行けないので、週明け数日くらいは家で大人しくしていないとです。今回は、現在の長野県飯山市にあった城、飯山城です。飯山城跡は現在、飯山城址公園(城山公園)として整備されていて、北飯山駅から徒歩5分ほどで行くことができますし、飯山駅千曲川口からも20分くらいで行くことができます。北飯山駅。JR東日本の飯山線が乗り入れています。飯山線は豊野駅からしなの鉄道北しなの線に乗り入れいてます。電化されいてないローカル線で、北飯山駅を含め多くの駅が無人駅のため、降りる際は一番
①これは、今日の昼メシ。CoCo壱番屋のカツカレーのほうれん草トッピングです。12年前まで住んでいた山口県宇部市に居た頃は、嵌りすぎて週2~3回は通っていました。今回は、3辛です。12年前は、5辛までいけたんですよけどね~。お子ちゃまになりました(^_^;)さて、今日は宿直明けからのお休みの日でした\(^o^)/朝から盛りだくさん。8:00~9:45湊山公園に車を止めて、歩いて「飯山城」巡り。9000歩……残念!1万歩いかず。10:00~10:30オートバックスに
№25294月15日(金)6日目群馬県~長野県あさま・白根・志賀さわやか街道経由つまごいパノラマラインキャベツ畑は春キャベツの収穫終了していて次の作付準備中ここにキャベツが!!!凄い広大な面積なのに日本人はキャベツ好きなんだ①愛妻の丘須坂長野東から上信越自動車道へ小布施PAで食料調達②飯山城址公園飯山城址公園|信越自然郷www.shinetsu-shizenkyo.com再建された城門千曲川が流れています
長野遠征11回目は昨年6月に済ませました。12回目をつくりました。横山城→割ケ岳城→飯山城→春山城→小諸城緊急事態になる前に行きたいです。
攻城日:2018年11月29日↑復元?模擬?城門(表)↑飯山城は、長野県飯山市にある城跡デス♪↑"飯山城址整備"解説板↑城跡は、JR飯山線北飯山駅の南東およそ400mにあり、現在は城址公園になっています。↑駐車場脇の石垣↑飯山城は、上杉/武田領の"境目の城"として争奪戦が繰り広げられたおシロデス♪↑復元?模擬?城門(裏)↑そういった意味では中世城郭なのですが、その後も幕末まで用いられたため、現在見ることの出来る遺構は近代城郭のモノになります。↑"復元城門"解説板