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千佳今回は桜満開、春爛漫の4月12日に書き始めました。長戸というわけで明日花見に行かないか?豚白俺は忙しいから2日で行ってらっしゃい。それでは始めよう。千佳前回は【夫婦別姓】北条政子さんの亡き子ども達ヘの思いが見えた回でしたね。豚白1223年9月24日、【夫婦別姓】政子の守り本尊を祀っている持仏堂で、地蔵菩薩の開眼供養が行われた。指導僧は【景観基本計画】観基だ。長戸やはり【夫婦別姓】政子の信心ネタ多いよな。千佳年もありますかね。豚白小ネタを先に続けよう。26日、大地
先日、倉敷市郷内地区に後鳥羽上皇の皇子、頼仁親王のお墓があると聞いて見に行った時、近くに「五流尊龍院」というお寺があることを知りました。この「五流尊龍院」について。ウィキペディアから。この五流尊龍院は、天台修験系の一宗派「修験道」の総本山だということ。伝承によれば、修験道の祖、役行者の五人の弟子が、それぞれに熊野本宮大社の御神体を持ち、それぞれに、お寺を建て、その中でも、この「尊龍院」が、中心寺院になったということ。奈良時代には、紀州の熊野と同じ社殿(十二社権現宮)を整え、近くの木
倉敷市郷内地区の地図を見ていると、「旧由加街道」という道があるようすね。今は、由加山を越えて倉敷に抜けるには、車で、県道玉野福田線を走るのですが、この玉野福田線の東側に、旧由加街道があるよう。かつて、岡山方面から由加詣でをする人たちは、この旧由加街道を歩いたのでしょう。そして、この「旧由加街道」沿い、「木見」と呼ばれる地区に「頼仁親王」のお墓があるようなので、行ってみました。この「頼仁親王」は、「承久の乱」を起こした後鳥羽上皇の皇子で、乱の後、備前国児島に流されたということは知ってい
後鳥羽天皇皇子頼仁親王墓岡山県倉敷市頼仁親王は承久の変で、父の後鳥羽上皇が隠岐の島に配流されると、親王もこれに連座して児島に配流されました(当時、児島は島だった)。五流尊瀧院で亡くなりました。修験道総本山五流尊瀧院の歴代の大僧正は、頼仁親王の子孫と伝わっています。五流尊瀧院『【倉敷市】五流尊瀧院』寺社No.26御朱印No.185総本山五流尊瀧院岡山県倉敷市天台宗修験道1999年2月28日御朱印No.10502009年4月27日御朱印一期一会(朱色の記憶2)
201911/16癌治療の化学療法、一コース目を入院にて消化。16日午前中に無事退院、外に出ると丁度紅葉の時期。帰宅して友人に退院を告げると、すぐ紅葉を見に行こうとなった。と言うか、私が煽ったようなもの。早く外界にに馴染みたいのである。ろくろく家に居る時間もなく友人と外出、行く先は児島・林地区にある五流尊瀧院。訪れる人も少なく、綺麗な紅葉をゆっくり楽しむことができる、超穴場!今年も期待を裏切らず、美しい紅葉を見せてくれた。ここは天皇家に繋がる由緒ある場
本日は五流尊龍院と熊野神社を訪ねました。かつては五流尊龍院と熊野神社を合わせて新熊野権現として信仰されていましたが、明治の神仏判然令で分離されました。よくある話です。1300年あまり前、修験道の祖、役行者が児島に上陸し、紀伊の熊野本宮の分霊を安置して新熊野三山を開いたのが始まりと言われています。岡山駅の瀬戸内線ホームから電車に乗って木見駅に向かいます。木見駅に到着しました。木見駅に停まる電車は一時間に一本。こりゃ不便ですなあ。画像右奥の方向に向かって2㎞ほど歩
先日の郷内散策の続きですが、後鳥羽上皇の皇子の頼仁親王が承久の乱で児島に配流され、五流尊瀧院で生活したとか…これはその頼仁親王歌碑この里にわれ幾年を過ごしてむ乳木の煙朝夕にして蟻峰山を🚶上がると山腹でなんと弘法大師の磨崖仏にお会いできたぁそのものズバリは写せませんでしたが、何とも言えない優しいお顔で⤴⤴⤴この日一番の私の感動でしたさて、こちらは山崎拓巳さんのビジネスセミナーで参加されていた
上寺山餘慶寺に、南朝方の武将児島高徳の供養塔があり、その系図から後鳥羽上皇の頼仁親王の曽孫だと知り、児島高徳の生誕地を探して児島へ出掛けました。修験道の五流尊瀧院を訪ねると、茅葺の邸宅が見えて来ました。五流尊瀧院の詳細は後日アップしたいと思いますが、承久の乱で隠岐に遠島となった後鳥羽上皇に連座して、上皇の第4皇子頼仁親王が児島に配流となりました。頼仁親王は衰退していた五流の寺院と十二社権現宮を再興し、南北朝の頃まで大いに繁栄しましたが次第に衰微し、現在は尊瀧院のみが残っ