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都忘れ(ミヤコワスレ)ー都立水元公園グリンプラザタナゴ釣の帰りに撮りました!毎年は花が少なくなり、今年は濃い紫が無くなり寂しかった。原産地:日本科/属:キク科/ミヤマヨメナ属開花期:5月〜6月ミヤマヨメナの日本産園芸品種として多く栽培され、ミヤコワスレの名は、鎌倉時代に承久の乱に敗れた順徳天皇が北条家によって佐渡島に流された際に、この花を見て心を慰め、都恋しさを忘れたとの伝承による。byGoogle
さてさて…………………【まるか食堂】にて、至福のランチタイムをとって元気モリモリのココロは、次の目的地へと向かって歩いた…………………【開田城跡の土塁】歩いていると、史跡に出会う【八条ヶ池】この【八条ヶ池】の向こうに【長岡天満宮】が鎮座する。『天下分け目の天王山⑪〜長岡天満宮〜』さてさて…………天下分け目の【天王山】を出発した我々は、次の目的地に到着した…………到着したのは…………【長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)】京都府長岡京市天…ameblo.jp【長岡天満宮】のココロ過去
花にも物語がありますね春日野に煙立つ見ゆ娘子らし春日のうはぎ摘みて煮らしも(万葉集:読み人知らず)万葉植物:うはぎ(ヨメナ)承久の乱(1221)後、佐渡へ配流された順徳天皇は御所周辺に植えられていた白菊を見て「いかにして契りおきけむ白菊を都忘れと名づくるも憂いなし」という歌を詠み、都への思いを忘れようとしたところから、この花を「都忘れ」とも呼ばれるようになったと言われていますティータイム~身近な情報が一番です~
ミヤコワスレ🔽庭に咲いているミヤコワスレを一輪挿しにこの色このsize母が好んで茶室に飾って居ましたっけ🔽netより検索:花言葉は「しばしの慰め」「しばしの憩い」「しばしの別れ」です。これらは花名の由来とされる順徳天皇のエピソードが由来です原産地🇯🇵やはり歴史の逸話が載って居ました
BODYPITKYOTO院長藤崎進一です。2024年5月18日(土)水無瀬神宮・大阪三島一万人のお宮奉仕一万人のお宮奉仕お申込期日:5月13日まで限定:15名よい鎌倉時代、後鳥羽天皇が都から足繁く通われ「わがふるさと」と思し召された水無瀬の離宮跡。時代に翻弄され隠岐、佐渡、阿波でお隠れになられた三天皇の御霊を弔う大切なお宮。大阪府唯一の神宮。御祭神:後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇docs.google.com大阪府下唯一の神宮である水無瀬神宮の清掃奉仕の募集が始まりました⛩
さてさて………………【三千院】を出発したココロは、次なる目的地を目指した…………………【三千院】への参道入口には、こんな石碑もありました。はいっココロが目指した次なる目的地とは……………【後鳥羽天皇大原陵】【順徳天皇大原陵】京都府京都市左京区大原勝林院町引き続きの雪景色の初参詣【後鳥羽天皇(ごとばてんのう)】1180年〜1239年日本の第82代天皇。高倉天皇の第四皇子。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟にあたる。文武両道で、「新古今和歌集」の編纂でも知られる。
『愛国百人一首』の選定された36首目は藤原定家です。これより鎌倉時代の歌となります。(著者所持の『愛国百人一首』の源実朝の絵札)曇りなきみどりの空を仰ぎても君が八千代をまづ祈るかなこの歌は、1215(建保3)年の順徳天皇時代に詠まれた歌です。歌の意(こころ)からりと晴れた雲一つない緑色の空を仰ぎ見る時でも、天皇の御世が千代八千代と続くのを祈るばかりです。藤原定家
本日は旧暦では10月10日で出雲の神在祭始まりの日ですが、建保六年十月十日、西暦では1218年10月30日は、順徳天皇の第三皇子の懐成親王が誕生した日となります。その翌月には立太子し、満三歳の承久三年(1221年)四月三日には順徳天皇が父の後鳥羽上皇との倒幕に関わって譲位されたため践祚しています。その討幕、承久の変の結果、同年七月九日には鎌倉幕府の沙汰により幼い天皇は廃され、後堀河天皇が即位しました。『承久の変・・・歴史の彼方から日本の不思議な時の流れをみる』本日は旧暦五月十四日です
『正治初度百首』を完成した直後、内親王の病状は悪化します。『明月記』正治元年九月九日に、定家は次のように記しています。大炊殿、昨日自(よ)リ殊二重ク悩ミ御ハスト云々。去ル二日御鼻垂レ、此ノ三日温気御ハスト云々。「悩ミ」は病気、病状、「温気」は熱を意味します。おそらく百首歌を仕上げるのに、無理をして、病が嵩じたのでしょう。この後二か月あまり、定家は、大炊殿に頻繁に参り、御足が腫れたり、御熱が出たりしていると記し、御灸、火針などを施した治療が行われたとあります。そうこうした後、十二月二十六
寂光院、建礼門院陵から再び大原女の小径を菜の花畑。京都〜、大原、三千院〜🎵三千院の近くまで来ました。後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵へ到着。前の通りは外国人を含め観光客がいっぱい行き来してますが、こちらを訪れる人は極少ですオーバーツーリズムの喧騒から逃れられる空間第82代後鳥羽天皇大原陵。(1180〜1239)在位1183〜1198。高倉天皇の第4皇子。名は尊成。祖父後白河法皇の院政下、神器継承なしに即位し、譲位後、土御門・順徳・仲恭3帝にわたって院政を執った。北条義時追討を謀
第八十三代土御門(つちみかど)天皇は、鎌倉時代の天皇です。御父、後鳥羽天皇の第一皇子、御母は源在子(ざいし)。順徳天皇は異母弟。建久六年(1195年)生。諱名は為仁(ためひと)。ご在位は建久九年(1198年)から承元四年(1210年)。後鳥羽天皇の譲位により四歳で即位され後鳥羽上皇の院政が敷かれました。皇太子になったのは占いによって三人の皇子から選ばれてのことでした。藤原定家は日記『明月記』にて、このような重事が軽率に行われたことを非難いたしましたが、これは在子の養父で
BODYPITKYOTO院長藤崎進一です。本日、11月9日(木)一万人のお宮奉仕で大阪府に鎮座します水無瀬神宮へ清掃御奉仕に上がりました⛩本日は玉串奉奠の大役を仰せつかりました。宮司講話、禰宜講話と神職の方々にいつも温かくお迎えいただいています。ありがとうございます。境内の落ち葉掃きに終止しましたが、11月にも関わらず蚊との闘いに心折れそうになりました(^^;)次回の水無瀬神宮の御奉仕は2月10日(土)の予定です。後鳥羽天皇、順徳天皇、土御門天皇をお祀りす
2019/03/10配信<第84代順徳天皇>百人一首の百首目「ももしきや古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり」承久の乱〔佐渡配流〕源実朝・金槐和歌集共に歌は藤原定家より学ぶ歌合せを多く開催
【都忘れ(ミヤコワスレ)と順徳天皇】フラワーショップで「都忘れ」が欲しくて探しましたが、春の花なのでやはり見当たりませんでした。でもよく似ているアスターに心惹かれました。たくさん買って硝子の花器にタップリと生けました。サイドラインを張り出させてラグビーボールの様な形に生けてみました♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡『いかにして契りおきけむ白菊を都忘れと名づくるも憂し順徳天皇』武士が台頭し力を強めた鎌倉時代、父である後鳥羽上皇
建久八年九月十日(1197年)、後鳥羽天皇の第二皇子守成親王が誕生しました。後の順徳天皇です。本日は旧暦の9月10日となるので826年前の今日の事です。※なお、改暦は何度もありましたので、単純に旧暦に当てはめています。順徳天皇といえば、現在一番よく知られているのは百人一首の百番歌の順徳院としてだと思います。百敷きや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけりなんといっても百番に選ばれた歌です。この百人一首についてはねずさんの目からうろこの百人一首本があって、本当に目からうろ
第八十四代順徳天皇は鎌倉時代初期の頃の天皇です。御父、後鳥羽天皇の第三皇子、御母は藤原の重子。先帝の土御門天皇は異母兄です。建久八年(1197年)生。諱は守成(もりなり、もりひら、ともいう)在位、承元四年(1210年)年から承久三年(1221年)。後鳥羽上皇の強い意向により、兄の土御門(つちみかど)天皇に譲位を迫られ、それを受けて十四歳で即位しました。才気活発と言われ気性も激しかったようですが、後鳥羽上皇の院政の為目立った事績はあげられませんでした。しかし幼い頃より和歌をたしなみ、歌
10月7日が命日・忌日の有名人・著名人1242年(仁治3年9月12日)44歳崩御(?)順徳天皇陛下第84代天皇1849年満40歳没(?)エドガー・アラン・ポーさん作家1915年40歳没(戦死)フリードリヒ・ハーゼノールさん物理学者E=mc²を1904年に発表1918年70歳没(?)チャールズ・ヒューバート・パリーさん作曲家「エルサレム」⇒『チャールズ・ヒューバート・パリー(1848年2月27日生~1918年10月7日没、作曲家)』1973年満62歳没(
[書遊び]「百人一首」<100番・ももしきや>⭐lightです。『百敷(ももしき)や古き軒端(のきば)のしのぶにもなほあまりある昔なりけり』順徳院(訳)「宮中の古びた軒から垂れ下がる忍ぶ草を見るとしのんでもしのびきれないが、昔はどんなによき時代だったのだろうと思う。(せつないなあ)」(書)「もゝしきや婦る支農支盤のし能ぶ尓も那本あ万利あるむ可志奈利介里」「百敷」は、「内
100百敷(ももしき)や古き軒端(のきば)のしのぶにもなほあまりある昔なりけり順徳院(じゅんとくいん)【出典】『続後撰集』巻十八・雑下・1205「題知らず」順徳院御製++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++皇居の古い軒場に生えている忍草を見るにつけ、しのんでもあまりある昔の御代だよ。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コードで読み解いた新訳】□□□□□□□(※『和歌暗号(
99人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は後鳥羽院【出典】『続後撰集』巻十七・雑中・1202「題知らず」++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++あるときは人をいとおしく、あるときは人を恨めしく思う。この世は自分の思い通りにならないと思うものだから、思い悩む我が身であるよ。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コードで読み解いた新訳】□□□□□□□(※『和歌暗
本日は旧暦五月十四日ですが、承久三年(1221年)、802年前のこの日は承久の変が始まった日です。※改暦が何度かされていますので単純に旧暦にあてはめています。この年の一月、鎌倉三代将軍実朝が暗殺され、鎌倉幕府を興した源氏の血は三代にて途絶えており、幕府は北条氏中心のものとなっていました。そこで後鳥羽上皇は、院内の親鎌倉派を粛清し、流鏑馬揃いとして諸国の兵を招集しましたが、京都守護として上洛していた伊賀光季は拒んだため、翌十五日に討伐し、時の執権、北条義時追討の院宣を渙発されました。
長戸自業自得ってあるんだなあ。千佳そんなの、歴史にいっぱいあるじゃない。長戸いや、リアルな世界の話。豚白なにがあったか知らないけれど、それでは始めよう。千佳前回は【得宗】北条義時さんの話がメインでした。豚白1218年9月13日の夜、【渡宋計画】源実朝は御所で和歌の会を開催した。千佳【渡宋計画】実朝さんらしいスタートです。豚白会の最中、鶴岡八幡宮で騒動になったと知らせが入った。なんでも恥ずかしめられた宿直の者が、寺の者を殴ったという。長戸宿直の者って武士だろ。恥か
第八五代仲恭(ちゅうきょう)天皇は鎌倉時代初期の天皇です。生年は建保六年(1218年)。御父は順徳天皇、御母は九条良経の娘、東一条院・藤原立子(りゅうし)。御名は懐成(かねなり)親王。承久三年(1221年)四月二十日、順徳天皇は北条討伐準備に参加するため第四皇子の懐成親王へ譲位。四歳で践祚を受け即位。この頃鎌倉では三代将軍の源実朝が暗殺され、五摂家の九条家から源頼朝の妹の曾孫にあたる頼経を将軍に迎えることになっていました。しかし、赤子であったためその成長を待っていた将軍不在の時でした。
今日の誕生花はミヤコワスレキク科シオン属ミヤマヨメナの園芸種。ミヤマヨメナは深山嫁菜山深いところに咲くよめな。別名野春菊都忘れにはエピソードがあって。承久の乱で敗れ北条により佐渡へと流された順徳天皇が、都を忘れるためにこの花を見て心を慰めていたとか。たしかに優しげな、寄り添ってくれそうな花です。でも、都忘れが出来たのは、その時代より後のこと。おそらくはミヤマヨメナを見て心を慰めていたのでしょうね。そして、園芸種として開発されたミヤマヨメナの新種に都忘れと名付けたの
〈思い立ったら今年は旅に出よう〜佐渡吟行①〉中尾ミエさんに誘われて始めた俳句GW明けのタイミングで佐渡に行ってきました。またまた晴れ女のパワーを発揮し1日目の途中から雨が上がり2日目は晴天に恵まれました奈良時代に流刑地に定められた佐渡。今から800年あまり前に承久の乱で敗れた順徳上皇、鎌倉幕府や他教を批判した日蓮聖人600年前には時の将軍の怒りを買った能楽の大成者である世阿弥など政争に敗れるなどした貴族や知識人が流されてきた島。また「今昔物語集」にも記録があるそうですが昔から金が採れる島
京都府長岡京市金ケ原金原寺。金原陵駐車場。🛵第83代土御門天皇金原陵。参道を進みます第83代の天皇(在位1198~1210)。名は為仁(ためひと)。後鳥羽天皇の第一皇子。母は源通親の女(むすめ)在子(ざいし)(承明門院(しょうめいもんいん))。建久(けんきゅう)6年12月2日誕生。後鳥羽天皇の譲位を受けて4歳で即位。16歳のとき弟の守成(もりなり)親王(順徳天皇)に譲位。1221年(承久3)の承久の乱では、討
前回からの続き(令和4年11月26日のこと)になります先にも書きましたが、大原でのもう1つの目的、天皇陵へも行きました後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵住所・京都市左京区大原勝林院町こちらは入り口から左へ向かってその先でまた右へ折り曲がっています紅葉に囲まれ、いい時期に行けました右側に後鳥羽天皇陵十三重塔があります後鳥羽天皇第82代天皇生没年1180〜1239年在位年1183〜1198年享年60歳平氏が安徳天皇と皇位の象徴である三種の神器とともに都落ちしたため、三種の神
千佳さて、2023年一発目ですね。長戸スタートに相応しくなく雪だが。荀攸冬の北陸に天気の期待するな。それでは始めよう。千佳話は1215年に移っていました。荀攸4月1日、【渡宋計画】源実朝は鶴岡八幡宮に出掛けている。お忍びだったようで、女物の輿を使っている。長戸歴史書に残ったら意味がない(笑)荀攸2日、【渡宋計画】実朝は甘縄神社参詣後、【打倒三浦】安達景盛の館を訪問している。千佳確か【打倒三浦】景盛さんの館って焼失したので、再建ですよね。荀攸在京の御家人に職務怠慢
長戸大河ドラマのせいか、この時代の人物が俳優の顔で連想されるよな。千佳それはあるけど、イメージがあわないエピソードもあるよね。長戸確かにな。だから歴史は面白いんだろうな。荀攸あまりそのイメージで固定化されると俳優も苦しいけどね。それでは始めよう。千佳1214年に話は移っていました。荀攸1214年2月14日、【渡宋計画】源実朝は葉山に出かけている。千佳まずは平凡な話からですね。荀攸弁当を【ミステリー列車は消えた】長江明義が出している。長戸初登場の人間だな。荀攸
こんばんは~今日は久しぶりに雑記です。「鎌倉殿」の記事を書くために、いろいろWikipediaを読んでいたら。この姉妹が興味深くてネットサーフィンしてしまった(それで大河記事が遅れた💦)シルビア・グラブさんが演じておられる藤原兼子、通称・卿局。この方にはお姉さんがおられて。藤原範子という。通称・刑部卿局。この姉妹、ふたりそろって、尊成親王(のちの後鳥羽上皇)の乳母となっています。姉妹が、のちに皇統を継ぐ親王にお仕えすることとなった経緯は、少し複雑で。