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史記項羽本紀より(新書漢文大系より)項王の軍、垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢の軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重。夜、漢の軍の四面に皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、漢、皆すでに楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや、と。項王則ち夜起ちて帳中に飲す。美人有り、名は虞、常に幸せられて従う。駿馬あり。名は騅、常に之に騎す。是に於て、項王乃ち悲歌忼慨し、自ら詩を為りて曰く、力は山を抜き気は世を蓋う。時利あらず騅逝かず。騅逝かず奈何かす可き。虞や虞や汝を奈何せん。と、歌うこ
劉邦紀元前(BC)255年12月26日辰刻年乙巳月戊子日壬子時甲辰空亡:寅卯7丁亥、17丙戌、27乙酉、37甲申、47癸未、57壬午・本人が官職を得て、それは公の財を伴うが自分の財とはしない・自分も含む集団は武芸等の技術を伴う大運年運出来事癸未辛卯BC209年沛県の亭長、反秦活動に参加癸未壬辰BC208年項羽らと共に秦王朝に反乱癸未甲午BC206年咸陽陥落項羽より漢中へ左遷癸未甲午BC206年楚漢戦争(項羽vs劉邦)癸未丁酉BC203年垓下
張良劉邦の幕僚のなかでは比較的まとも現在の漢民族の祖である「劉」氏は、無能な一族であった。漢の始祖:劉邦が最もビッグネームだが、ごろつきだったのを警官として利用されただけの才覚しかなく、項羽の相手になれるはずのないデクノボウだった。蜀の劉備も同様で、諸葛孔明が付かなくては、冴えない地方勢力に過ぎなかった。この諸葛孔明については、以前のブログで詳細に触れているので、簡単に書くが、彼は自分の名誉欲を実現するため、無能な劉備に仕え、結果として、
今や世界中のリーダーが愛読している『孫子の兵法』。この書こそ無駄な戦いを避ける極意の集大成だ。その中に、「敵の10倍の戦力であれば、敵を包囲すべきである。5倍の戦力であれば、敵軍を攻撃せよ」とある。戦いの場では相手の5倍の力がついて初めて好戦的になってもいい。勝ち目のない戦いには臨まず、圧倒的に勝てる態勢を作って、できたら戦わずに勝つのだ。これが実践されているのが、実は動物の世界である。彼らの世界では強い者が生き残るという考えがある。しかし、これは大きな間違いだ。正しくは、「
城臨み風の向こうに玉さまの愛しき日々を君追いかけて😸君(白花)は、勝竜寺城の堀端に立つと、天守を模した建物を眺めていた。玉さまと忠興公が、まだ仲睦ましく過ごしていた、その愛しき日々を、君は風へと想い描き、追いかけているようだった。そしてやがて君は、「お城に入らせて頂きましょう」と、僕へと視線を移し微笑んだ。将敗れ城焼け落ちて石垣ぞ残りて無念今へと伝え😸勝竜寺城公園の北西部の隅には、古い石垣が残っている。嘗ては
15.結論項羽こそ呂布をモデルにしたのではないかここまで呂布と項羽について歴史書の記述を確認し、概略は以下のようになっています。・歴史書を見る限り、呂布と項羽が実際にどれほどの武勇(※1)を持っていたかはわからない。ただ、歴史書の記述から、ある程度高い武勇を持っていたと考えられる。・呂布と項羽は、物語(「三国志演義」と「西漢通俗演義」)が成立する過程で、最高の武勇を持つ人物像が形成された。・呂布と項羽は歴史書上に多くの類似点が見られることから、同じタイプの人物として扱われた。こ
14.呂布と項羽を比較した共通点の整理呂布と項羽は最強の武勇(※1)を持つ人物と位置付けられていますが、歴史書上に一騎討ちをしたことはほとんど記されておらず、実際にどれほど武勇が優れていたか定かではありません。呂布は「三国志平話」では張飛の方が強いものの、「三国志演義」で最強の存在になっており、「三国志演義」が成立する過程で最高の武勇を持つ人物として形成されました。項羽は「秦併六国平話」で一騎討ちをしていないものの、「西漢通俗演義」で一騎討ちをするようになり、ここで最高の武勇を持つ人
13.人物評前回まで、呂布と項羽の事績を中心に歴史書の記述を確認してきましたが、両者と同時代の人物はどのように評価していたのでしょうか。ここまで長々と続けた比較の最後として、歴史書における人物評を確認します。(※1)(呂布に対する評価)・陳登が曹操に語る評価「呂布は武勇があるが無計画で、軽々しく人についたり離れたりする。」・曹操が陳登に語る評価「呂布は野蛮な心を持った狼の子」「呂布は鷹を飼うのと同じで、腹がすけば役に立つが、満腹になれば飛んでいってしまう。」・高順が呂布に対して
古代中国の英雄たちの戦いを描く「項羽と劉邦」。この物語を単なる合戦譚だと思っていませんか?実は、彼らの熾烈な争いは、食事と食糧を巡るサバイバルでもありました。現代の私たちが「何を食べるか」で悩むのとは次元が違います。彼らにとって食事とは、命そのもの、あるいは天下を左右する「戦略物資」だったのです。今回は、史実に基づいた『項羽と劉邦』の「食」にまつわる笑えないほどリアルで、思わず拡散したくなる逸話7選をご紹介します。1.恩返しは現ナマ一千万円!?「一飯千金」の真実「一飯千金」という
その異相、マジで大丈夫ですか?古代中国の偉人に関する伝承は、時に我々の想像を遥かに超えた「ぶっ飛んだ」身体的特徴を伴います。「瞳が二つある『重瞳』」は序の口、皇帝に至っては「まさかの『四乳』や『三漏』」といった、思わず二度見してしまうような異相が語り継がれているのです。本記事では、これらの非凡な身体的特徴が「正史に基づいた揺るぎない事実なのか?」、それとも「後世のファンによる盛大な大喜利(創作・脚色)なのか?」を徹底的に比較検討します。最高権力者の権威付けのために、古代人は一体どれほどぶ
「歴史は、勝者によって書かれる」これは、古より語り継がれてきた冷徹な真実です。敗者はその声を奪われ勝者は自らの正当性を証明するために過去を都合よく編纂します。しかし、もし、その勝者の記録の中に敗者の真実の声をそして、勝者自身の隠された罪を後世に伝えようとした者がいたとしたら。その人物こそ、歴史の父「司馬遷」です。彼は、絶対権力者である漢の武帝の監視下という絶望的な状況の中で歴史書『史記』を著しました。司馬遷は漢の武帝の太史令として宮廷史官を
12.命運が尽きる最後の戦い呂布は下邳[下ヒ]で、項羽は垓下で最後の戦いに敗れ、死を迎えます。この最後の戦いについて、歴史書の記述を確認します。(※1)(呂布)・曹操軍は下邳[下ヒ]を包囲し、呂布は袁術に救援を求めるため1000騎あまりを率いて出陣するが、敗北して下邳[下ヒ]に戻る。曹操は沂水と泗水を溢れさせて城を水攻めにし、城内の不和もあって侯成、宋憲、魏続が陳宮を縛って曹操に降伏。呂布は白門楼に登り、包囲が厳しくなると降伏した。一説には、囲みが厳しくなると、呂布は部下に自分の首
11.劉備と劉邦劉邦(前漢の高祖)と項羽は、最初は秦を倒すためともに戦いますが、後に天下を争い勝利した劉邦が皇帝の座に就きます。劉備は劉勝(劉邦の曽孫)の末裔と称していますが、事実であれば劉邦の遠い子孫になります。劉備と呂布は、項羽と劉邦の争いより規模は小さいとはいえ、一時期徐州で共存し、後に争う関係になりました。今回はこの二組に関する歴史書の記述を確認します。(※1)(a)兄弟関係・呂布は兗州[エン州]で曹操に敗れ、劉備の下に身を寄せた時、呂布は劉備を弟と呼んだ。(『英雄記』から
さてこんかいは!秦の滅亡と漢の興亡になります。主に項羽と劉邦の戦いや三國志の時代へのつながりについて解説します目次秦の衰退項羽と劉邦前漢の興亡後漢の誕生と政治の腐敗秦の衰退中華統一を成し遂げた嬴政は皇帝を名乗る。中国では史上初めての皇帝だったため、始皇帝と呼ばれることとなった。その後、北方の匈奴への備えとして万里の長城の建設を指示した。また、儒教についての書を全て燃やさせ、儒家を生き埋めにする「焚書坑儒」という政策を行った。この頃より始皇帝は不老不死を追い求めるようにな
10.陳宮と范増呂布には陳宮、項羽には范増という軍師がいます。軍師は主君に適切な進言を行い、志を果たす力になる存在であるはずですが、一筋縄ではいかなかったようです。今回は陳宮、范増に関する歴史書の記述を確認します。(※1)(a)参戦・陳宮は曹操に仕えていたが、張超らと反乱を起こす。張超の兄である張邈[張バク]に世の趨勢を説いて、呂布を迎え入れるよう進言する。呂布は陳宮らとともに兗州[エン州]を攻撃し、一時期は大半を制圧する。しかし、反撃してきた曹操と濮陽、雍丘、定陶などでの戦いの末
9.袁術と英布(黥布、※1)呂布は董卓殺害後、諸勢力を渡り歩いたがあまり良い扱いは受けず、項羽は各地に諸王を封じたものの次々に背かれており、周辺との関係はあまり良好と感じられません。周辺の勢力の中でも、呂布にとっての袁術、項羽にとっての英布は、味方にもなることもあれば敵対したこともある勢力です。袁術と英布は異なるタイプのような印象がありますが、共通点を探るため歴史書の記述を確認します。(※2)(袁術)・呂布は董卓殺害後、袁術を頼ろうとしたが受け入れられなかった。・袁術は皇帝を僭称
8.ゆかりの地、徐州との関わり呂布と項羽は同じような形で徐州にゆかりがあり、その内容を歴史書の記述から確認します。(※1)(a)本拠地・呂布は董卓殺害後、いくつかの勢力を転々とする。最終的に劉備を頼るが、劉備から下邳[下ヒ]を奪い、本拠地にする。・項羽は彭城にいた懐王を義帝にした後、自立して西楚の覇王となり、彭城を都にした。義帝を彭城から長沙に移すが、その道中で人に命じて殺害させた。(b)最後の戦いの地・呂布は本拠地としていた下邳[下ヒ]を曹操に攻められ、降伏し処刑された
*この記事では少女ウォーズのUR閃項羽の性能を見ていきます。初めての方、初めまして。またブログを見に来てくださった方、ありがとうございます。へたれゲームプレイヤーのリムルと申します。今回は、スマホゲーム少女ウォーズの話題です。百戦錬磨と破軍が強力なUR閃項羽(こうう)の性能について見ていき、ポイントや、強みなどを紹介していこうと思います。目次注意点UR閃項羽の見た目UR閃項羽の性能スキルパッシブ奥義火炎Lv1火炎Lv2火炎Lv3氷魂Lv1氷
7.内なる敵の存在前回は呂布や項羽を明確に裏切り、去っていった人物のことを記しました(『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(六・配下との関係)』)。それとは別に、敵という表現はやや行き過ぎかもしれませんが、表面的には呂布や項羽に従っているものの、不利な方向に導く人物が見られます。例によって歴史書での記述を確認します。(※1)(呂布と陳父子)・呂布と袁術が婚姻を進めようとした時、陳珪は国のためにならないと危惧し、呂布を説得して婚姻を中止させた。・呂布が左将軍に任命された時
ピョートル大帝:なかなかの人物。中国の歴史家司馬遷は、時の皇帝:漢の武帝の逆鱗に触れ、男性性器を破壊されて子孫を残せない刑:宮刑に処せられた。この不運の根本原因は、小心者の武帝が司馬遷を恐れたことにあるだろう。「一際巨きな司馬遷という男の子孫は、きっと漢王朝を脅かすだろう、それなら、司馬遷の子孫を、孫子代々抹消すれば、漢王朝は安泰だ。」と漢の武帝はひそかに考えたのだ。陰険である。そもそも、漢の始祖である劉邦からにして、小物・無能だった。ライバルだった項羽が部下を大事にしな
6.配下との関係呂布、項羽はともに主君の殺害や裏切りをしており(『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(三・裏切りと主君の殺害)』参照)、配下として忠義を尽くさせるのは難しいタイプです。一方、両者の配下にどのような振る舞いがあったのか、歴史書における配下との関係性を示す記述を確認します。(※1)(a)呂布からの離反・陳宮と謀り、郝萌[カク萌]が反乱を起こす。・曹操軍に下邳[下ヒ]を包囲されていたが、侯成、宋憲、魏続が陳宮を縛り降伏する。・呂布は配下の将を厚遇していたつも
5.貂蝉と虞(虞姫、虞美人)呂布には貂蝉、項羽には虞とのエピソードがありますが、歴史書上で両者と女性との関わりはどのようになっているか確認します。(※1)(呂布)・曹操軍の攻撃に対して出陣しようとする呂布に、呂布の妻は「陳宮と高順は仲が悪く、城を守り抜くことはできない。間違いがあれば呂布は根拠地がなくなる。(『英雄記』からの引用)」「曹氏は陳宮を大事にしていたが見捨てた。呂布は曹氏ほど手厚くない。変事が起これば呂布の妻でいられない。(『魏氏春秋』からの引用)」と告げ、呂布は出陣を決
4.武人としての姿呂布、項羽ともに同時代で最強の武勇(※1)を持つイメージが定着しており、大胆な創作でもない限り、諸葛亮の智謀や関羽の忠義のように切り離せない要素です。では、歴史書において両者は、武に関してどのように記述されているのでしょうか。(※2)(a)武勇・呂布は袁紹のもとで張燕を攻撃した際、成廉や魏越と共に敵陣に突進して撃ち破る。・項羽は、項梁が挙兵する直前に会稽守通(殷通)を訪問した際、殷通を殺害し、続けて百人近くの部下も一人で殺害した。・項羽は垓下の戦いで四方を囲まれたが、
史記全8巻セット(ちくま学芸文庫)李陵(中島敦)より@@@@@@・・・要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみて、はじめて判然とする底のものと思われた。彼の胸中にあるもやもやと鬱積したものを書き表わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創るという形でしか現れないのである。自分が長い間頭の中で画いて来た構想が、史といえるものか、
呂布と項羽はともに、物語になる過程で最高の武勇(※1)を持つ人物に造形されたと考えられますが、歴史書を見比べると武勇以外にも多くの類似点があります。「正史三国志」および「史記」の記述を中心に、少々こじつけが過ぎる場合もありますが、両者の共通性を見出します。(※2)3.裏切りと主君の殺害三国志において裏切りと言えば呂布の代名詞のようなもので、まずはこの観点で確認します。(呂布)・丁原の配下だったが、董卓に誘われて殺害する。・丁原殺害後、董卓のもとに来て父子の契りを結ぶ。その後
にほんブログ村昨日からやる気スイッチの講師がわいせつ罪で逮捕~とかニュース流れてるwう~む・・・なかなか由々しき事態じゃw職業柄、永遠のテーマじゃw(大袈裟w)そういや何年か前に近所のバリバリの進学塾でもあったわwあと、小中高の学校は知らんが、ウチでは就業規則は元より抑止のために監視カメラも一部取り入れてるのw時代やな~w経験上、女性講師はまず大丈夫だが、男性だとまずは彼女いるかどうかやねw彼女がおればセクハラの心配はほぼないねw(当社比)それより
2.項羽の強さ前回『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(一・呂布の強さ)』では、史実でも呂布は一定の武勇(※1)が認められるものの、三国志演義の成立において最強の人物になり、個人としての強さは後世作られたイメージが大きいと考えました。同じように呂布のように高い武勇を持つ人物には、秦末期から楚漢戦争の時代で最強といわれる項羽(項籍)がいます。今回は、項羽の武勇について確認します。「史記」によると、項羽は剣術を学んでも上達しなかったと記されています。それでも、挙兵の際には
1.はじめに-呂布の強さ-三国志演義における最高の武勇(※1)を持つ人物を問われた時、呂布を選んで異存がある人は少ないでしょう。劉備陣営が好意的に描かれる三国志演義において、虎牢関の戦いで張飛と関羽が同時に戦っても呂布を倒すことはできませんでした。もっとも、虎牢関以降に呂布が武勇を発揮する場面は意外と少ないのですが、それでも呂布の武勇は張飛と関羽より格上の存在と言えます。正史三国志での呂布は、弓術と馬術に優れ、腕力が強く、人中の呂布と言われていますし、袁紹のもとで張燕と戦った時は、部下
石破総理が退陣を表明しました。それを知った時のわたくしの反応は・・・。嗚呼ッ!日本は、いまのアメリカのように、自らの運(うん)を、自らの手で投げ捨ててしまうのか!?っという思いです。ちなみに、現在のアメリカには、運がありません。このまま、ある時期までは、まぁ~、非常に長期間の可能性もありますが・・・。自らの手で自らの首を絞めるようなカタチで、下降線をたどっていくことでしょう。それとは反対に・・・。トランプには、運があります。っと言うか、
故事成語シリーズ|道徳教材「四面楚歌」学習指導案検索キーワード:四面楚歌道徳教材/四面楚歌由来意味/中学生道徳学習指導案/音読教材社会人主人公/発問例板書計画四面楚歌の意味と由来四面楚歌(しめんそか)は、四方から敵に囲まれ孤立無援の状況のこと。出典は『史記』項羽本紀に見える楚漢戦争の一場面で、項羽が夜営で四方から楚の歌を聞かされ、味方の離反を悟った故事に由来します。授業では「孤立」で止めず、反対の声の出どころを可視化し、合意形成へ進む視点を育てます。授業のねらい・価