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オリヴィエ・アンソニー・トゥリラ、1971年10月18日に生まれました。ラ・ショー・ド・フォン在住のスイスのトランペッター兼指揮者です。彼はスイスの時計職人で発明家のザビエル・ジョゼフ・トゥリラの孫です。フランス人の母親とスイス人の父親の間に生まれました。オリヴィエ・アンソニー・テュリラは、パトリック・レーマン(ラ・ショー・ド・フォン音楽院)、ロジェ・デルモット(ベルサイユ音楽院)、アントワーヌ・キュレ(パリCNSMD)、レイモンド・メイズ(ジュリアー
セッション2015年4月17日公開名門音楽大学に入学したドラマーと、天才を生み出すことにとりつかれ異常なまでの完璧さを求める鬼教師との狂気のレッスンの行方を描くヒューマンドラマ。あらすじ🥁偉大なジャズ・ドラマーになるという野心を抱いて、全米屈指の名門校シェイファー音楽院に入学した19歳のアンドリュー・ニーマンは、何とかしてフレッチャー教授の目に留まりたいと考えていた。彼が指揮する“スタジオ・バンド”に所属すれば、成功は約束されたも同然だからだ。ある日、一人で練習するニーマンの前にフレ
今回訪れたかった場所のひとつ、ÉcoleNormaledeMusiquedeParisエコールノルマル音楽院。バスとMetroとを乗り継いでたどり着けました。ピアニストであるアルフレッド・コルトーが立ち上げに加わって1919年に創立された音楽院です。幾人もの音楽家たちが学んだ場所。併設されているホール、サルコルトーでコンサートを聴くことができました。修士学生によるフルートとピアノの演奏。SalleCortot:concertsclassi
当時イモラの入学試験は私の入る三年コースは・古典派のソナタ全楽章・ショパンのエチュード・ロマン派・近現代でリサイタルを構成することになっており私は・ハイドンのソナタ変ロ長調・ショパンOp10-4・シューマン交響的練習曲・デュティユーコラールと変奏の1時間ほどのプログラムを用意していました。そして受験当日。午前中の予定が昼すぎになり、昼すぎが更に遅くなり、、、イタリアタイム炸裂😂⚡️でも沖縄出身の私としては弾かせてもらえたらいつでもいいさーねーくらいに思っ
アベーテ音楽院20周年記念チャリティーコンサート2023年8月11日(金・祝)13:30開場14:00開演かなっくホール(JR東神奈川駅徒歩1分)全席自由3,000円(高校生以下1,500円)アベーテ音楽院が、今年創立20周年を迎えます。それを記念し、8月11日にかなっくホールにてチャリティーコンサートが開催されます。ピアノ、ヴァイオリン、声楽、フルート、クラリネット、トランペット等、各楽器の講師が、聞き馴染みのある有名なクラシック曲をお届けします。私は、ベートーヴェンのピ
娘・ぺあすく1娘・ぺあすく1|食いしん坊女将の独り言。ameblo.jpこの日は幼稚園のオープンスクールがあり、ギリギリまで参加(少し遅刻)したのでそのまま体操服で駆け込みました。それにしてもこの日は朝からコンタクトレンズを紛失したり、掃除機のコードが出てこなくなったり、色々トラブルが起こったので心配性の夫が嫌な予感しかしないと「事故起きてからでは遅い、休め」と言ったのですが、逆らってしまって全て休まずに行きました(この後言語訓練もありました)。この日も4階だ
このブログを訪れてくださり、どうもありがとうございます。感謝いたします。なかなか本題のホラーク・メソッドのレッスン内容、及び、ホラーク・メソッドの心理的効果に辿り着かず、前段階で時間がかかっていて申し訳ございません。また、後ろから順番に読まないと内容が分からないブログなので、ブログの形態では非常に読みにくく、ご迷惑おかけして申し訳なく思っております。実際に書いてみて、ブログという形態は私自身もとても書きにくいことが分かりましたので、AmazonKindleで書籍化することにしました。書
件の5年生達に笑われて、しばらく気落ちしていた私だったが、麗子ちゃんと玲子ちゃんの励ましで、気を取り直した。「A先生のレッスンをいきなり受けるのが心配なら、近々、A先生が音楽院内のコンサートホールで公開レッスンするから見に行ってみたら?」と2人のレイコちゃんに勧められ、私はその公開レッスンを見に行くことにした。公開レッスン当日、ホールにはたくさんの人達が見に来ており、満席だった。そこには件の2人を含む5〜6人ぐらいの5年生達もいて、私に気づくと、こちらを見てヒソヒソ話をして笑っていた。
A先生しか連絡先が手に入らなかったものの、A先生は自分には敷居が高すぎることが分かり考えあぐねていた時、2人のレイコちゃんの1人である、麗子ちゃんに音楽院でばったり会ったので、一緒にお茶することができた。その時、A先生がとても有名な先生だと、つい最近知ったことを私は伝えた。他のピアノ科の学生は誰一人、自分の師事する先生を紹介してくれなかった中、そんなすごい先生を親切にすぐに紹介してくれて、本当にありがとう、とお礼を言った。そして、麗子ちゃんはいったいどういう風にしてA先生の門下生になった
いろいろ情報を集め、自分にできる手は尽くしてみた結果分かったのは、その国での滞在期限もある中、自分には選択肢が2つしかないこと、つまり、①このままB先生の門下で来年も続ける。または②たとえ非常識と言われても、A先生のプライベートレッスンを受けてみる。という2つの選択肢である。なぜなら、音楽院でのピアノレッスンは終わっているタイミングなので、他の先生に音楽院で会って門下生にしてもらえるか交渉することはできない。なので、その時期に可能なやり方は、他の先生にプライベートレッスンを受け
次に、A先生についての情報も集めてみた。学生だけでなく、関連科目の先生に授業の後に尋ねてみると「かの有名なA先生は、この国で一番プライベートレッスンの値段が高い先生だよ。」と冗談めかして教えてくれた。ピアノ科の別の友人達にA先生について尋ねると件の5年生と似たような反応、つまり有名な先生だから名前は知っているけど、敷居が高すぎて、自分が習ってみようとは思ったことはなかった、という反応は多かった。もっと上級生では、A先生は有名すぎて、門下生が50〜60人もいるため、かなりのレッスンがア
5年生の2人のおかげで、A先生がすごい先生であることがわかった。また、件の5年生の2人の反応で、自分には音楽の世界の常識があまりにもないことに気づいた私は、もう少しいろいろ情報を集めてみようと思った。まず、A先生ほど敷居の高くない先生で、私の面倒を見て下さる先生がいないかと、他の先生を探してみた。私は関連科目で一緒の他の4〜5人の友達に、自分が先生を変わりたいと思っていること話して、その人達が師事している先生を紹介してもらえないか聞いてみた。しかし、皆、自分の先生の自宅の連絡先を知らない
その後しばらくして、件の5年生の2人に音楽院の廊下で偶然会い、先生を変わりたいと言っていた件はどうしたか聞かれた。今年度の音楽院でのピアノ科のレッスンはすべて終わってしまっているので、A先生の門下生である友達に、A先生の電話番号を教わった。なので、とりあえずA先生のご自宅でプライベートレッスンを受けるつもりであることを報告すると、彼女達は驚愕の表情を浮かべて、「A先生って誰か知ってるの?!」と叫ぶように言った。「え?よく知らない。門下生である友達からは、どんな作曲家の曲の指導もできる
先生を移ったりしてもいいのだ、と驚いていた折も折、私は同じB先生門下の1学年上の5年生の留学生の2人とお茶した。すると、彼女達は来年度からB先生からC先生の門下に移ることにしたと言う。なので、一体全体どうやってピアノの先生を移るのか、その方法を聞いてみた。彼女達によると、何回かC先生のレッスン見学させてもらって、この先生ならいいかな、と思えたので、門下生にして欲しいとお願いしたら、OKしてもらえたそうだ。これまで3ヶ月ぐらいかけて、何度かC先生のレッスンに通い、見学させてもらっていたらし
ピアノって、そんな陰険な世界なんだ、と強烈なカルチャーショックを受けた私だったが、私の半分の年齢とは言え、音楽の世界を私より知っている彼女達の言うことである。真実味があった。あまり信じたくはなかったが、確かに先生に嫌われているような気は前々からしていたのだ。ここの音楽院に入ってみてわかったのだが、音楽院というのは、若い子ほどエリートが多い。コンクール出場には年齢制限があるので、才能のある子達ほど、早めに海外にやってきて、本場でコンクールの審査員などの有名な先生の元で、コンクールの準備をする
4年次に入学した私は、理論系の関連科目の授業で、日本からの留学生である、2人の友達ができた。2人は、漢字こそ違ったが、同じ発音の名前だった。ここでは仮に、玲子ちゃんと麗子ちゃん、としておく。2人のレイコちゃんは、どちらも高校を卒業したばかりで留学してきた18歳で、私の約半分の年齢。2人ともA先生の門下生。私はB先生の門下で、門下は違うが、同じ授業を履修していたことで、私達はすぐに気が合い仲良しになった。アナリーゼの授業の後、彼女達とランチしながらおしゃべりするのが、とても嬉しかった私だが、
今とても心惹かれるキャビネット刺繍がしてあるの
私はホラーク先生に昔聞いた言葉を思い起こしていた。"あなたは、まだ基礎が出来ていません。今は基礎をきちん身につけることが一番大事です。なのであなたの場合は、コンクールにあまり振り回されすぎる必要はありません。""「本当に音楽のわかる人」というのは、こわいものなのです。1曲弾けば、すべてばれてしまいます。何ひとつごまかすことができません。だから、そういう人の前に出た時に恥ずかしくないようにしなさい。基礎を身につけなさい、いろいろな分野の一流の芸術に触れなさい、教養を身につけなさい、いろいろな経
「これを知らない人に卒業証書をやるわけにはいかないな。ここは音楽院の専門教育の中でも、非常に大事な部分だ。よし、4年次に入れ。そして、こういう理論を1からキッチリ勉強して、きちんとマスターしなさい。そうしなければ卒業はさせない。」これで関連科目の試験が終わった。「で、ピアノは誰に師事したいかね?」私はあっけにとられた。そんなこと、何も考えていなかった。第一、受かるかどうかわからなかったし、試験の準備で必死で、そんな事まで考える余裕はなかったのだ。「すみません、まだこの音楽院の
「次は音楽史の試験を行う。モーツァルトの生まれた年は?」「モーツァルトは1756年1月27日に生まれ、1791年12月5日に亡くなりました。」と即答すると、副学長は驚いた様子で「あなたは音楽史の知識もたくさん持っていそうだね。よし、音楽史もパスだ。」とあっさりパス。実は私はモーツァルトオタクなだけだった。モーツァルト以外の作曲家については殆ど何も答えられない状態で、他の作曲家については、ベートーヴェンがモーツァルトより確か15歳ぐらい年下、という程度の知識しかなかった。モーツ
そう言い終わると、「では、今から関連科目の試験を行う。」と唐突に副学長は言った。関連科目の試験と聞いて私は動揺した。ネットで調べた時には、2次審査は「専攻科の楽器演奏の実技」とだけあったはずだった。そもそも関連科目が必要ないから、出願していたのだ。とにかく自業自得とはいえ、この30分の間に、ジェットコースターのようにあまりにもいろいろ思ってもみないことが起こり過ぎていた。しかし、「ここに来て座りなさい」と副学長は容赦ない。心の準備もないまま、いきなり関連科目の試験が始まった。
その人は続けて語った。入学は、副学長である私の権限で許可できるが、卒業試験は凄く厳しいぞ。公正を期すために、演奏者のことを直接知らない、数人の審査員が厳正に審査を行う。この音楽院の卒業証書をそう簡単に渡すわけにはいかない。自力で突破しなさい。それから、この音楽院であなたが学ぶべきこと。それは、自分の制御だ。あなたはコントロールが悪い。言いたいことがあり過ぎて演奏中、コントロールをしばしば失っている。ここではコントロールの仕方を学ぶことだ。音楽は時間の経過と共に展開する芸術だ。
「あなたは私が思っていたような人ではなかった。」背後で流暢な英語が聞こえた。(えっ、英語?)と驚いて振り返ると、「お望みなら、〇〇語でもいいよ。」とユーモラスな様子で肩をすくめながら、今度は別のヨーロッパ系言語で言って、微笑んでいる。今までの激昂が嘘のように、別人のように穏やかな話ぶりで、その人は話し始めた。あなたが完全に理解できるように英語で話そう。私は思い違いをしていた。あなたは私が思ったような人ではなかった。あなたは音大を出ていないが、ちゃんとした音楽の専門教育を受
もう他にアピールできることは何も残っていなかった。もう帰るしかない、と思ったその時、「言葉ではなく音楽で自分を語ってみろ、もし音楽家ならば!」と言う声がした。顔を上げて見ると、その人は、こちらに背を向け窓のそばに立ち、腕組みしながら外の風景を眺めている。そして、もう一度言った。「こういう書類でではなく」と床に散らばった志望理由書を指差し、「音楽家なら音楽によって自分自身を語ってみろ。1曲弾け。そうすれば全てわかる。」その時、この人の口にした「音楽家」という言葉の引き金が、私に1
顔を真っ赤にして怒っているここの音楽院の教授であろう、審査員らしき男性にむかって、私は「志望理由書を書いてきたので、見ていただけませんか。」と書類を渡した。志望理由書は提出が必要な書類ではなかった。だが、音大卒業という出願条件を満たしていない私である。最後は交渉が必要になる可能性も考えて、欧米の通常の大学では要求される志望理由書を用意していたのである。しかし、激昂していたその人は、その書類を受け取るや否や、「こんなもの!」と言って、空中にばーっとぶちまけたので、書類がヒラヒラと空中を舞っ
音楽院の受験を出願してからしばらくして、2次審査の日程の連絡がきた。指定された日は、およそ3週間後で、その音楽院に直接出向いて演奏せよ、とのことである。外国に在住の場合は、音源を送ればいいのだが、私が既にその街に住んでいることが住所からわかったため、直接来なさいということになったのだろう。予想した通り、この国の事務処理は雑だったらしい。書類の内容を精査せず、卒業証明書という形式要件が整っていたので、機械的に2次審査に進めたようだった。もっとも見落としであることは確かなのだから、そのまま今
私は30代後半になっていた。とあるヨーロッパの街に住んでおり、その頃は幼稚園生の子供の子育ての真っ最中だった。12歳で父に強制的にホラーク先生のレッスンを辞めさせられ、14歳で音大附属音楽教室を辞めさせられ、15歳でピアノレッスンそのものを辞めさせられた。その後しばらくしてから、泣いて抵抗したにもかかわらず、「もういらないでしょ。邪魔なんだけど。」と今度は母にグランドピアノを二束三文で売られてしまった。そのため、働き始めると同時に家をでて、初任給で分割払いで電子ピアノを購入し、その後はその電
個性的で唯一無二「独自の指導法」生徒さんお一人お一人に合わせたカリキュラムの個人レッスンピアノとチェンバロ似て非なる「2つの鍵盤楽器」を自在に扱う全国でも数少ない「音楽教育家」西田和美のピアノ教室/チェンバロ教室「気まぐれレッスン日記」です。★教室のホームぺージHome|NishidaKazumiPianoCembalo福岡県北九州市八幡西区・中間市のピアノ教室西田和美ピアノ教室/チェンバロ教
今日もブログにお越しいただき、ありがとうございます。今日は宇宙元旦ですね一大イベントが終了しちょうど良いタイミングでこの日を迎えられましたと言っても自分の行事ではなく、娘ちゃんのコンサート。音楽院時代の仲間達と4人、ピアニスト2人+パーカッション2人で演奏。演奏曲はドビュッシーの「小組曲」から始まりメインはストラヴィンスキーの「春の祭典」でした難解な曲を自分達でアレンジして見事な演奏っぷりしかも、ありとあらゆるメディアで宣伝させて
18世紀までは、音楽家は職人だった。バッハにしても、ハイドンにしても、自分が芸術家であるという認識はあまりなかったと思われる。自分の仕事人としての能力を磨き、常に最高のものを作ろうという職人気質を持つ、雇われ人だったのだ。しかし18世紀後半、フランス革命によって世の中の様相が大きく変わったことと、ベートーヴェンという天才の登場が重なったことで、音楽家のマインドも大きく変わってくる。この辺りから、いわゆる近代的な音楽院、音楽学校が乱立してくる。しかしそれはまだ実業系学校の範疇を出るもので