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整理して再呈示(他欄)。価値は褪せていない。精神の自立ができている主体的な感謝のみが正しい。2016年06月27日(月)02時05分44秒テーマ:集合的容喙現象『真実の目外へ向かう目には悪魔の嘘が混じり真実を見失わせます知恵と知性でうちに向かう目を養って心の目で真実を見極めてください悪魔について悪魔について書いてみます悪魔は秘密は人目のつくところにおいて置くはずがないという盲点(誇示隠匿)という手法を好んで使い、人間に悟らせないように真相をよ
(2日に書いたもの)ぼくは、集合的容喙現象が起きるのは、人為と形而上的(高次元的)作用との複合による、と、ぼく自身の経験から、ずっと主張してきたが、現在、やはりその通りである、と確かめるに至っている。この複合現象への対処も、ぼくの主張してきた通り、複合的な、つまり二重の仕方が必要である。ぼくは、この問題について呈示してきたぼくの見解はすべて妥当なものであり、いささかも変更する必要はない、と思っている。すなわち、この現象は、人為性において社会問題であり、責任者層を法的に取り締まってゆ
これは書いておく意味があると思う。さきほども、ぼくがアルファベットのスペルを書き間違えたかと思うより前に、書いた瞬間に、外の車のクラクションが鳴って、注意してくれた。これは偶然のタイミングではないことは、長年の経験でぼくには判る(と思っている)。以前は邪魔ばかりすると思っていたのに、協力的にもなってきたのか?これと現象的に別様態であるが、きょう朝も、ぼくが寝床でぐずぐずしていたら、「遠隔モーニングコール」があった。あきらかに、そして実際に確かめたが、宅の内からでも外からでもない(主観的
他欄の見解によると、要するに、人間は宇宙人の遺伝子工学によってつくられた生物で、ブッダやイエスはただの人間で、後の宗教によって神格化されたのであり、宗教は真実とは関係なく、支配意志の道具であり、宇宙人のなかにも、支配意志のものと、愛のものとがあり、おのおの、人間に関与している、ということであり、ここまでは単純明快である。人間は支配意志の宇宙人によって創られたらしい。それを、善意の宇宙人が、その意志から解放しようとしている。しかし、人間はもともと支配意志の宇宙人のものなので、人間の解放のために
ぼくは、集合的容喙現象の解明には、高次元の観点からも考察することが不可欠だと感じているので、敢えてスピリチュアリズムの、希望のもてそうな見解を観察しているのだが、まだまだ甘いとおもう。宇宙人が人間を創造したというのはよいが、その宇宙人は三次元の存在なのか、高次元のものなのか、曖昧にして、われわれのほうで意識次元を高めればよい、と言って済ませているのは、どうか。次元の観念に混同がみられる。高次元すなわち善ではない。集合的容喙現象は、高次元の悪によって起こされている面があるのだ。高次元そのものの
ぼくは、じぶんの怒りには自信をもつべきだ。怒りを表出することとは、これは別の問題だ。怒りは自尊心からのみ生ずるのではない。自分への不正な行為を怒るのは当然だ。そのとき、自分も気づかずに怒りに相当する波動を発していたのだろうから仕方がない、などという思弁を内的に行なうことほど、自己欺瞞なことはない、とぼくは思う。ぼくは、さきほど第二部と付録を読了した、マルセル形而上日記を読むのに十年はかかっている。無論、正常な生活状態のときでも不断に読めるような内容ではなかった。そして、その間、あの忌まわ
拡散に協力します。
2015年11月14日(土)19時50分00秒テーマ:集合的容喙現象いま、多言しようとは思わないが、ぼくが東京で集合的容喙現象の被害に遭い、第二の住居にも居られず、郷里に飛行機で帰ることになった時、やはり周囲の「異常」を経験したことをいずれ報告すると、ぼくは以前この欄で言っておいた。ぼくが問題の最初のマンションからこの第二の住居に「避難」することになった際にも、一時避難滞在先〔自分の宅で寝れなくなっていた〕のホテルの従業員の言葉から、ぼくらの「被害事件」のことを、周囲の社会は内々に知っ
さて、きょうは問題の7月1日である。説明は要らないと思う。警視庁は、都議会に条例改正案を提出した時点で、具体的に動く用意は出来ているものであり、その行動の認可を得るために議会に働きかけるのであるから、この条例改正案成立は単に形式的な法整備にすぎないと見做すのは間違いである〔改正案の文言から、集合容喙を取締る意図のものであることは瞭然としており、しかも案件(問題の事柄)の特殊性から、議会への周到な根回しを要したろう。議会側も警察の意図を了解した。この、集合容喙撲滅に向けての一連の流
カント「純粋理性批判」のカテゴリー表を参照してもらえれば分るように、世界の現象を解釈するための道具である諸概念は、対象の側にあるのではなく、思惟し認識する主観であるわれわれの側にあるのである。即ち、「原因」や「結果」という概念も、「空間」・「時間」という現象の直観(Anschauung)形式〔現象受容の枠〕とともに、主観に属するのである。だから、三次元(空間)・四次元(時間)をも超えた所謂高次元に思いを馳せる場合は、現象を解釈するわれわれの概念のいっさいを捨てて思惟しなければならない。さ
>自節紹介VII素描反省07月16日01:01縁真実を逆さにみるな07月15日15:30『芸術とは、魂の独立性であり、そのような力である。思想がもたらすものと等しい。思想とは、魂の秩序であり、美は、その実証である。この意味で、芸術は思想行為である。』(古川正樹)”高田先生作トルソ像芸術と思想は魂の独立性である”ほか全身像…07月14日03:08「殺し」は跳躍台07月13日16:48誠実とは、自己の感
放送の公平性を定めているという放送法が見直しをされているそうだ。いま、インターネットのほうで事実報道に接しているので、放送のほうの報道はまったく見なくなっている。いまの放送が公平だなどとだれも思っていないし、インターネットより偏向している。情操的にも、ネットよりひどい。その土台となっているのが放送法なら、もっと見直しされるべきだろう。知的にも精神的にも、放送に信頼はない。それより、ネットで、玉石混淆の情報のなかから、自分の判断で妥当な認識を形成することのほうがよい。集合容喙(集団ストーカ
ぼくは集合容喙(集団ストーカー)の、薬害被害にまで至った被害者であるが、インターネット世界によって、そういう問題が夥しくこの世にあることを知ることができたばかりでなく、この世とは謂わば一線を画した次元に避難して、自分を再建することができた。この世界がなければ、孤立した自分の状況のなかでたいへんなことになっていた。インターネットは、謂わば〈神々〉と闘いうる第二のプロメテウスの火である、といえる。そのことをここに感謝する。そしてこの知の力によって社会がこの問題を認める日の来るのを確信し、
いま、この問題は、社会全体があっさり認めるべき時期に来ている。インターネットでの、そして日常生活での、報告と周知活動の蓄積が、おのずからそういう時期をもたらしているのである。もういいころだな、と思い、先日、あっさり新聞に訊いてみた。すこしの気負いも必要とせず。向こうも、すでにもう知っているような雰囲気で、やや逃げ腰ながら、とても自然で感じがよかった。はたして、翌日、すぐ記事になったのではないが、現象に或る影響の兆候が感ぜられた。とても敏感に反応するのだなあ、と思い、これまでの経験
きょう、大新聞社の一つに電話を掛け、「集団ストーカー」という社会問題を、新聞は扱わないのか、と訊いてみました。電話口に出られた方は、どういったものですか、と訊かれるので、基本的な説明をし、自殺に追い込まれている人々もいます、と言い、ネットで検索すればいくらでも記事が出て来る社会問題であることを言いました。電話口の方は、その間、新聞で記事の例があるか調べてみます、と、その場で調べてくださり、「集団・・・」というかたちではないようですね、と答えられました。わたしは、被害者の方々は、新聞やジャーナ
2017年12月21日(木)14時20分21秒テーマ:集合的容喙現象あなたがたはちゃんと生きている。ぼくは生きる土台(身体)を崩されたのに生きている。この差は大きいです。はっきりとは言えませんが、国にしつこくメール等で訴えることは、全然効果がないわけではないようです。そのあたりのネットワークはもちろんわかりませんが、なにかの勧告系統みたいなものができているのではないか、と、ふと感じられることがあります。気おくれしないで試みることですね。その際、憶測みたいなことは訴
「被害者」のブログで、よく、戸外で遭遇する集合容喙のタイミングの絶妙さが問題にされますが、ぼくは自宅にいながら、自分の行為に応ずる、けっして偶然とは思えない戸外の現象を経験しています。そしてその共時性は、どんなに高度のスーパーコンピューターシステムを想定しても埋められないであろう誤差・時間差を埋めており、人間技術を超えていると直接的に確信します。人為を超人為的ななにかが操って(補佐して)いるとしか思えません。逆に、人為をくい止めて超人為の働きを阻止することもできると思います。これがやるべ
集合容喙現象をなくするにはどうしたらよいか、かつて、同じ被害を受けているとき、同居者に、人工テレパシーを通して向こうに訊いてもらいました。答えは、現象に気をとられているのになくすことはできない、現象に気を向けるのをやめるほうが先だ、というものでした。つまり、やっつけようとしたり、興味を向けていたりしているかぎり、やまない、ということです。ぼくの思うに、状況がどうあれ、人間として真摯な生き方をつらぬく、ということでしょう。そういう生き方が中心になることが鍵だということです。内面的に自立し
集合的容喙現象は、一般的な諸類型を見いだせるものであると同時に、向こうは、その諸類型を各々の被害者に応じて異なる比率で組み合わせて仕掛けてくるので、各々の対応の仕方はそれぞれ異なってくるのがむしろ当然、ということを、基本的な了解事項としておくべきと思います。ぼくも、自分の経験からはこういうことが言える、と語れるのみです。そのなかには、他の被害者にとっても参考となることもあるでしょう。そういう意味合いで言うと、自らは加担者ではないのに、魔の共時性によって結果的に「被害者」に苦痛を与えてい
あなたがたはちゃんと生きている。ぼくは生きる土台(身体)を崩されたのに生きている。この差は大きいです。はっきりとは言えませんが、国にしつこくメール等で訴えることは、全然効果がないわけではないようです。そのあたりのネットワークはもちろんわかりませんが、なにかの勧告系統みたいなものができているのではないか、と、ふと感じられることがあります。気おくれしないで試みることですね。その際、憶測みたいなことは訴えないで、あくまで「被害」の事実をストレートに実証的に訴えることが重要と思いま
集合的容喙現象の実相というものは、ひじょうに複雑なのである。すでにぼくは、そのことを言っているので、くりかえさないが、われわれがもともとそれとの関係のなかで生きているものが、問題なのである。それが、《被害者》にとっては、問題を起こしている。「自然」は、もともと巨大な関連体系であり、それ自体は善でも悪でもないが、関連性のあり方によって、或る人々にとっては由々しきものとなる。ましてこの自然は、「生きて」いる「霊魂」の複雑関連体系なのである。われわれのできることは、これをもともとの正常な秩序に戻す
わたしの判断で、公益のため全文紹介させていただきます。「人間の遠隔操作について」(他ブログ)『ご無沙汰しています2017-12-1621:34:19テーマ:テクノロジー犯罪についてこんちには。随分と寒くなりました。今年一年お世話になりました。中々更新できないで申し訳ございません。先日、テクノロジー犯罪被害ネットワークの活動で地元の県庁と県警に行って来ました。要望書を出しに行った訳ですが、それなりに話を聞いて頂けました。ただ。その要望書がその後どのように扱
集合的容喙現象とぼくが呼ぶものの経験でぼくが知ったことは、この世はまったく信頼するにたらないと断定してよいということである。真偽こもごもの世界だなどと言うことは容易い。それは百も承知で、デカルトが方法的懐疑で為したように、こちらから意志的に、「まったく信頼するにたらない」、と、積極的に断定するのである。断定するのはぼくであること、ぼくの意志であることを、完全に知りながら。(読者に言っておくが、ぼくが思うことを書き留めておこうと、「集合的容喙現象」と書いた途端に、真冬の午前二時近くだというの
集合的容喙現象の事実を、警察関係者たちも認知し、その認知を認めるようになったことは、よろこばしいことである。警察関係者たちは、そうとうのところまで、一般市民よりも詳しくこの事実を認識していることは、ぼくもすでに見聞していたが、一般市民の質問にたいして警官が直接に公然と「それは知っています」と答えるようになったことは、状況の変化である。この現象を直接には知らない人々も、このことはよく認識しておいてほしい。もはや、無検証で統合失調症などというレッテルを貼ることは、完全に通用しなくなったのであ
よく、「昔のように」と書きかけて止めてしまう。「昔」と言うほど昔ではなく、「以前」と言ったほうがよい、と感じる。それはぼくにとってである。しかし数的に例えば二十年前だったら「昔」なのだろうか。だいたいの人は数の観念のトリックに掛かって、自分の実感を見失っている。はっきり意識している者には「時」は無いのだ。「昔」のことを想起している自分と、「昔」にそれを経験した自分とは、同一の同じ自分である。これがほんとうの実感である。ぼくにとってこの実感はきわめて明瞭な意識事実だから、「以前」ならともかく、
繊細であること自体をひとつの弱さと捉えると、偉大な精神でこの弱さを有しない者はいないだろう。偉大さとは、困難の克服であるなら、自らに弱さを抱える者ほど、克服すべき困難に恵まれていることになるからである。ここで克服とは、弱さを無くすることではなく、弱さを抱えたまま弱さを秩序づけることを達成することである。偉大な芸術や知性はすべてそれである。感じやすくないことを強さとする者は最も愚かな大衆であることは、誰でも知っている。知的高次元体は、三次元的制約から解放されている分、困難というものを
論文に拘束されてストレスで鬱屈した気分でずっといます。気分は即体調でもあるので、そこらへんの心身関係は微妙なところですね。ほんらいなら、書きたいことを書くのだから、それなりに充実した気分でもあってよいと思うのですが。他にたいして説明的に語るということが不向きになってきている。話題は変わりますが、集合的容喙現象に高次元知性体(ここでいう〈知性〉はほんらいの精神的「知性」では無論なく、計算的機械技術的知力)が関与しているという気持は、ぼく自身の当事者実感として確かだと思う
貴重な記事をありがとうございます。”被害者→統失となった人、のその後。”2017-10-1009:13:18参考:キューバ米外交官音波攻撃事件。http://www.sankei.com/premium/news/170914/prm1709140005-n1.htmlキューバでナゾの「音響兵器」が米外交官を襲った脳損傷、聴覚障害、吐き気…誰が何のために?(産経ニュース)ニュースプレミアム2017.9.1407:00更新キューバの首都ハバ
”邪悪な高次元は本当に問題です汗”2017-10-2618:39:55
集合容喙被害者の報告する、周囲者による「心理的引っ掛け」は、ぼくの経験に照らせば、かならずしも人為ばかりではなく、無意識に為されている要素もあると思う。しかし無意識であっても偶然ではない。この現象にはほんとうにそういう不思議な要素が、すくなくとも混入している。意識と無意識との混ぜ合わせなのだ。それを明瞭に確認させるのが、被害者の方々の報告のなかにある、「そっくりさんとの遭遇」を、ぼく自身の経験に照らしたときの実感である。ぼくも、集合容喙経験のピーク時に、外出の際、立て続けに、何人もの「