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<その1はこちらから>道内3日目は次の行程となりました。帯広→ナイタイ高原牧場→糠平→足寄→阿寒湖→雄別炭鉱資料館→釧路泊2024年6月17日の朝です。帯広のホテルをチェックアウトしました。天気が良さそうなので早めに行動します。北海道のこの時期の日の出はAM3:50前なので早いです。今回は特に、天気がいいので予定を変更してナイタイ高原に向かいたいと思います。ナイタイ高原は何度か訪れていますが、霧だったり曇りだったりなので、晴れていることを願い、出発します!帯広から士幌方面に
個人的な趣味で調査している心霊スポット恐怖レベルのまとめvol.8の更新です。これまで心スポ127か所を訪問しましたが、今回118話~127話+番外編のまとめとなります。恐怖レベルは1~6の6段階で評価し、6が最恐となります。判断基準は全て夜行ったと仮定し、①雰囲気、②過去の事件・事故や噂③到達難易度、④立地、⑤危険度、⑥携帯電波状況(電波が届かないほど高ポイント)等を総合的に判断し恐怖レベルを決定第1話~第117話までの恐怖レベルはこちら↓↓↓『心霊スポット恐怖レ
やっと週末にチョイツー出来ました。林道も行かなくなって久しいこの頃雄別に行ってみました・・・もちろん舗装路のみ道道222の舗装の終わりに、雄別炭鉱の時代に人の行き来があったと思われる「睦人道橋」があります。橋を渡った向こう側には、広い平場があったので炭鉱住宅などがあったのかも知れないですね。舗装の終点から少し戻ってくると、雄別炭鉱記念碑があり炭鉱殉職者の慰霊と閉山から50年の節目に炭鉱があったことを風化させない様にと建立された様です。眺めながら一服している
25.04.05(土)つづき阿寒湖から国道240号を南下し、途中の道道667号(徹別原野雄別停車場線)を通行します。やはり冬季間の通行止めでした。いったん国道240号に戻り中徹別小学校の交差点を右折して、国道247号を通り道道222号(道道雄別釧路線)との交差点を右折して布伏内を北上します。ベルツナイ川橋梁第2号橋と並行して鉄道橋(ベルツナイ川橋梁)の遺構があり、その先100mほど左側にはガソリンスタンド跡があります。遺構の宿命内部に
日本最東端の駅東根室駅↑からの続きです。釧路駅前のホテルに2泊しました。そして3日目最終日は・・・はい、またまたチェックアウトギリギリまで寝てました。朝食ありだったのですが、結局2日間とも食べてません(~_~;)部屋のカーテンを開けると・・・今日もいい天気!パチ屋のベガスベガスは既に営業しているようですね。チェックアウトし駐車場へ!チェックアウト時間ギリだからもうガラガラだわwで、最終日のこの日は・・・↓↓↓『北海道心霊スポット雄別炭鉱』極寒の地へ出発!↑
極寒の地へ出発!↑からの続きです。伊丹から羽田行きの機内でちょっと感動した出来事がありました。ドリンクサービスの時にキャビンアテンダントが私の隣に座っている女性の方へ「S様でいらっしゃいますか?本日はお誕生日おめでとうございます!」と手紙とJALのボールペンをプレゼントしていました。女性「えっ!?あ、ありがとうございます!」なんかうるっときちゃった。JALサービスいいね!そして羽田から乗り継ぎで釧路空港に到着!只今の温度-0.3℃思ったより寒くありませんな。はい、今回は北海道東
8月25日釧路市道の駅阿寒丹頂の里に行きましたここの道の駅に来るのは久しぶりです敷地内には温泉施設「赤いベレー」があります道の駅の裏手の方にキャンプ場がありキャンプ場の近くに「炭鉱と鉄道館」って施設があります観覧無料です雄別炭砿と雄別鉄道の展示物が見る事ができます入口に入ると炭鉱と鉄道の事が見れます雄別鉄道の展示物がありましたこれは車内の人を再現してるのでしょうか?当時の時刻の書かれた看板とか雄別バスの展示ここからは炭鉱関係の展示物こちらにも炭鉱関係の展示物雄
昭和の子ども達は、将棋を指しました。小中学校にも、将棋クラブとかあってね。近所のオヤジたちもみんな将棋を指しました。段持ちとかもけっこういてね。バイトの休憩時間にも、将棋を指したりした。何故か、近所の老人と将棋を指したりしました。いま、藤井壮太くんが、人気で将棋ブームとか言ってるけど、現在は、多様化の時代なので、皆が将棋を指すわけじゃない。昭和の子ども達は、親と将棋を指したりしたので、日常的に、遊びで将棋を指しました。だから、皆けっこう強くて、指している
自分のふるさとはどこか考えてみました。南風は、北海道名寄市出身です。父親が、北海道立高校の中間管理職(教頭)だったので、北海道中を転勤して回りました。小学校は、木古内町立木古内小学校入学。直後に転校して、瀬棚町立瀬棚小学校入学(転入学ではなく入学式から行った。)小学校の入学式を二回やった珍しいケース。阿寒町立布伏内小学校5年転入学。小学校五年から中学二年までは、阿寒町布伏内というところで過ごしました。アイヌ語で古潭(コタン)などと言う集落でした。雄別炭鉱が閉山にな
またまた、古潭(コタン)の思い出シリーズで申し訳ありません。皆さん、青大将って知ってますか?知っていても、みたことありませんよね。蛇じたい、見たことがある人は少数派かも?北海道から九州まで広く分布する蛇です。大きさは、1mから2m太さは5cmぐらいです。まあこんなもんかな?こんな蛇です。北海道には、大小さまざまな蛇がいました。青大将は、その中でも、最も大きな蛇です。古潭(コタン):阿寒町布伏内にも、青大将がたくさんいました。青大将との遭遇は、日常的なもので
皆さんは、カケスのバッタンコって知っていますか?まさか知らないでしょう?知っている人がいたら凄い!小学校6年生の頃。場所は、阿寒町布伏内の遊び場の山。自宅の裏山の反対側の山です。カケスって知っていますか?こんな鳥です。キレイな鳥ですね。ギャングエイジの子ども達は、こいつを捕まえるために、罠をしかけます。通称、「カケスのバッタンコ」です。もう、引き継がれていない技術だと思いましたが、なんと!ネット上で発見!そのままこれです。我々が作っていた罠と同じです。
南風は、北海道出身です。田舎者です。父親が、高校の中間管理職(教頭)だったので、北海道中を転勤して回りました。小学校は、木古内町立木古内小学校入学。直後に転校して、瀬棚町立瀬棚小学校入学(転入学ではなく入学式から行った。)小学校の入学式を二回やった珍しいケース。阿寒町立布伏内小学校5年転入学。小学校五年から中学二年までは、阿寒町布伏内というところで過ごしました。アイヌ語で古潭(コタン)などと言う集落でした。雄別炭鉱が閉山になって寂れた過疎の集落でした。1学年1クラスで
少年(ギャングエイジ)時代に遊んだ場所が、失われてしまいました。ところが!なんと!現在は、GoogleMapsを使えば、航空写真で観ることができます。それで、通行止めを乗り越えることが出来る!そう考えて、検索してみました。世界地図から日本に入り、北海道から釧路、阿寒湖と縮小して行って、少年時代に何時も、河原で釣りや焚火をした、舌辛川(シタカラガワ)と、シュンクシタカラ川(春句舌辛川?)を発見しました。漢字とカタカナ表記ですが、GoogleMapsでの表記です
ネット上で発見したこのふるさとの標識も、随分古いものです。毎日渡って、小学校に登校した「青雲橋」なんて懐かしい。旧小学校とか「ニレの木」とか「老人ホーム鶴の園」とか、なんと!バス停に「古潭(コタン)」って書いてある。父親の勤務先であった阿寒高校は、老人ホーム鶴の園になっています。GoogleMapsは航空写真を観ることができます。この古い「歩こうMAP」を見ながら検索してみました。世界地図から日本に入り、北海道から釧路、阿寒湖と縮小して行って、少年時代に何時も、河原で
鉄仲間の同僚が『2冊入手したんで、ひとつどうぞ』と。かなり奥深そうな本ですわ…読むの楽しみ。酔っ払ってない時に読むことにしますわ…なので、今はダメだな。
釧路の石炭を探る今回の旅。次は「釧路博物館」なんだか「The博物館」っぽい建物釧路博物館は入った途端にクジラなどの骨格標本がドドーンっと目に入って、ちょっとド肝を抜かれたわ(写真を忘れるくらい)こちらでの目的も“石炭”そして、運炭のための鉄道。ホントは去年の企画展を見たかったのだけれど、常設展示もなかなか見応えがあったわ。釧路の象徴タンチョウマンモスの骨格標本も。「ゴールデンカムイ」野田先生のサイン色紙も北海道はアイヌと切っても切れないからね。私は今まで、釧路って漁業と湿原
1970年(昭和45年)の全線廃線時に発売された記念乗車券です。4種類が発行されました。(1)(2)(3)(4)[路線データ]路線距離:釧路-雄別炭山間44.5km駅数:12駅軌間:1067mm廃止年月日:1970年(昭和45)2月1日※一部貨物線除く[解説]雄別鉄道は釧路駅から雄別炭山駅間の44.1kmを結び、雄別炭山から産出された石炭を運ぶ運炭路線として活躍しました。1970年(昭和45)に炭鉱が閉山されることとなり、同年4月16日に一部の貨物線を残し、
ワタクシの尊敬する藤田さんのTweet。今は釧路市内の住居も理容店も引き払い、札幌にご引っ越しされて。雄別炭鉱のことを日々語られていた数少ない情報発信者。有り難い存在です。https://twitter.com/Kiyoshi4771/status/1326323220300132352?t=rFN_MiFYHQaheNCXQzFEgQ&s=09ここ白糠町にある「老麺やはた」は今は無き雄別炭鉱にあったラーメン屋。それが今でもこうして食べれることの幸せ。単に美味いというだけではなく、
2021.8.12「消えたマチ雄別の記憶」写真展へ釧路市阿寒町布伏内(ふぶしない)コミュニティーセンターへ。経済産業省が認定した近代化産業遺産の一つ雄別炭山最盛期21000人が生活していた町雄別炭鉱閉山から50年雄別地区人口0人手前の布伏内地区69世帯198人子供のいない過疎地域です。釧路から雄別鉄道が走っていました。その線路は「雄鉄通」として幹線として残っている。昭和地区からの線路跡は道道835号釧路阿寒自転車道線「湿原の夢ロード」として阿寒
少し前に有楽町で入手した雄別炭山(D欄釧路)の櫛型印。鉱山局をやっていると伝えた切手商の店主さんがこまめに集めてくれたものの一部です。鉱山局をまとめた印象としては、炭鉱関連の郵便局は明治よりもエネルギー需要の増えた大正・昭和に増えたのではないかと思います。丸一型日付印も炭鉱関係は明治後半のイメージが強いです。さて、雄別炭鉱について調べると、Wikipedhiaに以下の様な記載があります。雄別炭鉱は、北海道釧路市(合併前の旧阿寒町)に存在した炭鉱。大正8年12月7日に北海炭礦鉄道株式
お店の外観は、和風ですがとんかつやトンテキなど、揚げ物や定食のお店ですねー♪今回はとんかつ定食1,150円平日のみのメニューでした美味しいトンカツ厚みもありましたとんてきが有名な浮舟さんですが…1,750円はちょっとお高いですね。他にも丼ものなどありますね値段が1番安いのがトンカツ定食でした美味しく頂きました。ラワンソフトクリームが食べたくて立ち寄りましたがまさかの道の駅がやっていませんでしたガックシ_| ̄|○気を取り直して、山菜ドライブですすると、子ギツネちゃん
雄別諸施設炭鉱病院へ通じる道沿いに残されている住宅地跡。大量の地下水が遥地下深くの坑道から噴出している。完全に塞がれている雄別坑口、入り口のアーチにかろうじて三菱のマークを見る事が出来る。道路から住宅地へはこんな階段を昇る。侵食されて段差が小さくなっていて、かえって登りづらい。一目で分かる、浴槽跡。車で走行中、非常に大きな音と衝撃を受けた場所がここ。道路の下に敷設された配水管のフランジ、一瞬床下に穴があいたのかと思ったくらい思い切りぶつかり肝を冷やした。住宅地の近辺には、
取材日時2008年8月26日コメント・地図とネットでの下調べとかなり違う印象の鉱山だった。どう違っていたかというと、思ったよりも山奥で思ったよりも荒れていたという事だ。そして、藪も深く最低地上高の低い車では間違いなく亀の子になるような深い轍の場所や大きな段差で、斜めに突っ切らないとバンパーが吹っ飛ぶような場所も有る。俺が探索している間も、地元のオフロードライダーのグループが周囲の林道を走り回っていたが、なんどか転倒する際の空ぶかしの音を耳にした。実際に町があったとされる場所を貫いてい
阿寒町の炭砿と鉄道館の展示物。ガス感知器。ここには鉄道関係のものも。命を守るということでは同じだ。。曜日限定の開館。ここは面白い!
9月16日のブログで紹介した「煙突」の有る場所。庶路地区の本岐炭鉱を後にして訪れた場所は、何処でしょうか?ヒント:”ものすごく辛い物を食べると”どうなる?様な名前の川があります答えは、舌が辛くなる・・・。舌辛川流域にあった「雄別炭鉱」の遺構です。「壇蜜古画」の第1回目(2013.07.26)に紹介された遺構場所で、作家の渡辺淳一氏が若かりし頃、医師として赴任した病院も有りました。探訪の翌日は「丹頂の里まつり」も開催され、それも目的の一つでした。雄別炭鉱の歴史
山の中の食堂大和さんへ豚肉を食べに行きました山道をずっと走り、鶴居村の幌呂という街にその食堂はあります。曲がり角を曲がってすぐの所にありました曲がり角はこんな感じ名物は三恵豚(さつまいもを餌に飼育)私は生姜焼き定食890円お肉が柔らかくて、味も濃厚で美味しかった。でもね、少し気になったのが周りに3組の近所の方らしきお客様が居まして、3組ともチャーハンとラーメンを頼んでました。私もチャーハンが美味しそうで、つられて頼みそうになりましたが、ここは豚肉だぞ!と言い聞かせて…生姜焼き
雄別に残るガソリンスタンド跡。ネットでよく出てくる。同じく購買所。こちらも有名な建物。いろんな噂がありますが。どちらもとてもきれいになっている。頭が下がります。
雄別産の石炭。夕張産。日本の発展を支えた北海道を代表する素晴らしい資源。惚れ惚れ。
雄別炭鉱(ゆうべつたんこう)は、1919年から1970年にかけて北海道釧路市に存在していた炭鉱です。営業当時は国内トップクラスの石炭産出地として栄え、周辺には病院、学校、映画館、住宅街、鉄道などがあり市街地も整っていました。人口も多い時では1万人を超えていたですが炭鉱という職場の特性上、常に危険が伴っており事故の記録も残されています。1933年(昭和8年)ガス爆発事故発生。死亡者5名、他怪我人多数。1935年(昭和10年)ガス爆発事故が発生し、95名の死亡者が出る。1955年(