ブログ記事1,333件
愚かな者は怒りをことごとく表わし、知恵ある者は静かにこれをおさえる。自分の思いを伝えても相手がそのように理解して動いてくれないと段々腹が立ってきて最後には怒りが湧いてきます。どこの教会も信者が減っていっても、うちの教会だけの問題ではないと、減少することに真剣に向き合おうとしません。外に向けて宣教をして、信者が増えないなら諦めもつきますが、何も宣教しないで大きな課題であると言っているだけには怒りと諦めの心が、私の内に交錯します。クリックお願いし
ガラテヤ書5章14節は私が大好きな聖句です。この世の人々が隣人を自分を愛するように愛することが出来ればこの世は天の御国のようになるのでしょうね。まずは教会がそのようになればと思います。残念ながら約二千年の教会の歴史はそれすら難しい事を証明しています。神の憐れみを請い願います。隣人愛を実践する力をお与えくださいと祈りましょう。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ
正しい者を悪い道に惑わす者は、みずから自分の穴に陥る。しかし、誠実な人は幸福を継ぐ。日々、誠実な生活をする者に、神の平安が与えられます。今日も、平安が与えられますようにと祈る者は、それにあった神に喜ばれる生活をしなければいけません。クリックお願いします。
兄弟たちよ。わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである。2000年前も死からの復活を信じている人と復活や天使とか霊を信じていない人たちがいました。現在と全く変わっていないのです。キリスト者は、復活祭を4月に祝いますが本当に復活を信じていますか?今の私は、信じたいという望みはありますが復活への喜びはありません。ただ、死を前にしたときには、復活を心から喜ぶであろうと思っています。ク
あなたの羊の状態をよく知り、あなたの群れに心をとめよ。一番小さな群れ、それは家族です。家族一人一人の思いを心にとめて、日々の生活を送りたいです。畑に小玉スイカの苗を植えてきました。今年は、6苗植えました。収穫目標は、30個です。クリックお願いします。
あなたが悩みにあう日には兄弟の家に行くな、近い隣り人は遠くにいる兄弟にまさる。カトリック教会に行っている時に信者さんが「本当に近所の人が良くしてくれるのよ」と言われました。教会の信者さんは・・・・?カトリックの信者さんをあまり信用していないようでした。同じ信仰を持ち、共に祈っているのに寂しいかぎりです。互いに頼りになる兄弟・姉妹になりたいものですね。クリックお願いします。
その人に(誰でもいいよお金使った労力使ったまぁ色々してあげた(なんでもいいさそれに対して見返り求めてない?自分犠牲になってるとか思ってない?犠牲って思った時点で愛ではない愛って一言で言うけど色んな愛があるね親子愛兄弟愛友愛隣人愛恋愛夫婦愛色んな愛ってあるけど本当にその人に対して愛情があるなら見返りは求めないし自分犠牲になってるなんて1ミリも思わないよねむしろ頼まれなくても注ぎたくなっちゃうよね💕我が子が泣いていれば癒したくなる親
【読書】杉村宰『隣人を愛するということ日系アメリカ人と日本を助けたフレンド派の人々の記録』三月社、2024年2月刊大虐殺がやまない。武器を売って儲けたい人間と、欲望のためにじゃまな者を皆殺しにしたい人間が手を組んでのやりたい放題。なすすべのない私たち。へたりそうな心に、200ページに満たないこの本は、くっきりと明るい光をくれる。第二次世界大戦中、日系人排斥の嵐の中、神の意志(自由・平等・隣人愛)を軸に、日系人を果敢に助けた人たちがいた。プロテスタントのクエーカー教徒(
この上なく優れた力は、神のものであって、わたしたちに由来するものではないことが分かるためです。コリントの人々への第二の手紙4-7上手くいけば、自分の力だと過信します。力は、神様によるのに。自分の自信が、わたしから謙虚さを失わせます。クリックお願いします
イエス・キリストこそ「主」であると宣べ伝えています。コリントの人々への第二の手紙4-5「この代の神」が信じない人々目をくらまします。イエス様が神であると信じることのできる幸いを感謝します。クリックお願いします
あなた方の中にはけじめのない生活を送り、仕事はせず、余計なことばかりしている者がいると聞いています。主イエス・キリストに結ばれている者として、そういう人たちに命じ、勧めます。黙々と働いて、自分で稼いだパンを食べなさい。テサロニケの人々への第二の手紙3-11主の来臨が近いということで、働かない人がいたのでしょう。働ける人は、黙々と働くことが神の御心、そうゆう風に人間は創られているのではないかと思うのです。働くとは、はた(他の人)を楽にすることであると書い
神の言葉をゆがめず、真理をあきらかにして、神の前ですべての人の良心の判断に、わたしたち自身を進んで委ねています。コリントの人々への第二の手紙4-2プロテスタント教会の福音派と呼ばれる人たちは、聖書は霊的に書かれたもので、一字一句、間違いがないという考え方です。しかし、聖書は、長い歴史の中で体制に都合の良いように書き換えられたり、追記された箇所が多々あることも事実です。聖書を読むときには、一字に盲信しないことが大切です。「何をイエス様が言い
旧約聖書に「バベルの塔」の話がある。ノアの洪水のあと、神との契約に結ばれたノアの子、セムの子孫はバビロニアに移ってきたとき、宗教的生活を捨て、文化的生活に力を注ぐようになった。彼らは煉瓦を焼いて石の代わりとし、新しい町づくりを始めただけでなく、その名を残すために天まで届く塔を造ろうとした。神はその人間の傲慢をたたき壊すためにことばを混乱させ、互いに通じ合えないようにされてしまったという話である。口では神をたたえながら実際はこの世の栄光や権力を求める人間の虚栄と傲慢は
わたしたちはみな、鏡のように主の栄光を映し出しながら、主の霊によって栄光から栄光へと、主と同じ姿へと変えられていくのです。コリントの人々への第二の手紙3-18何年も信仰をしていますが、主と同じ御姿へと変えられて行っているでしょうか。歳月が信仰を生温いものにしています。洗礼を受けたときの気持ちを忘れないように、聖霊に導かれて歩みたいですね。クリックお願いします
神は、わたしたちを新しい契約に奉仕する、つまり、「文字」にではなく「霊」に奉仕する資格のある者としてくださいました。「文字」は人を殺し、「霊」は人を生かすからです。コリントの人々への第二の手紙3-6「文字」とは、石に刻まれた律法、つまり掟。「文字」は、倫理的な掟を実行する力がないので人間を死に導きます。それに対して「聖霊」は、神の意志を示すだけでなく、それを実行する力を与えてくださるので「人を生かす」のです。わたしたちに力がなくても、聖霊の
わたしたちは救われる人のもとでも滅びる人のもとでも、神にささげられた、キリストのかぐわしい香りです。コリントの人々への第二の手紙2-15自分には、クリスチャンとしての良き香りがしてない気がします。ただの年老いた老人にならないように、少しは香しいキリスト者になりたいですね。庭に咲くサクランボの花。春を思わせますが、昨日は、マイナス2℃でした。クリックお願いします
今日は鎮魂の日。きっと、みくにに帰られた方々はこの賛美のようにかみのまもり汝が身を離れざれと、祈って下さってる事でしょう。主よ、憐れみたまえ❗️クリックお願いします
主に愛されている兄弟のみなさん、わたしたちはあなた方のことを、いつも神に感謝せずにはいられません。というのは、霊によってあなた方が聖なるものとされたこと、また、真理を信じたことによって、神があなた方を救いへの初穂として選んでくださったからです。テサロニケの人々への第二の手紙2-13わたしたちが自分で信仰をもったのではありません。主がわたしたちを選んで導いてくださったのです。クリックお願いします
「おばさん」はダメで「おじさん」はOK?『麻生発言』追及の立憲民主党女性議員、過去のSNS投稿が物議醸す(中日スポーツ)-Yahoo!ニュース自民党の麻生太郎副総裁(83)が上川陽子外相(70)を「おばさん」と表現した発言に絡み、この問題を国会で追及した立憲民主党の田島麻衣子参院議員(47)による過去のSNS投稿がネット上で議論を呼んでnews.yahoo.co.jp一方でX上では、田島議員が2020年10月に「私たちは、菅おじさん内閣に絶望しています。高齢男性が閣僚に選ばれる
明日です!!今年初のおしゃべりサロン誰が来るかな??お待ちしています♬
彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせ、そのためモーセは災いに遭った。彼らは神の霊に逆らい、モーセは軽率な言葉を口にした。詩編106-32モーセが反逆の民のために行われる神の奇跡を疑ったために、約束の地に入れなくなったことを指します。最初、モーセは岩を打つときに疑ったのです。私たちの不信仰は、神を疑うことから始まります。クリックお願いします
社会でうまく働けない理由は第一原理に組織という概念を置いていないからです。誰でも、ご自分の中に何か一つでも大切にしていることがあると思います。それが、なんであれ、それに、組織という概念を第一原理として追加すればいいのです。組織の概念とは、具体的には、上からの命令や指示をきくことです。例えば、家族が大切だとします。それだけだと、社会でうまくやっていけないので、それに、組織を追加します。そうすると、家族も大切にしながら、社会で働くことができるようになるのです。他にも例を
前ブログの「宇宙の叡智」の「愛」について掘り下げます。「親子の愛」「男女の愛」が初歩の「愛」と書きました。キリストでは「隣人愛」でしょうか。この段階は、実はかなりハードルが高いのです。「親子の愛」や「男女の愛」だったら、私は大丈夫と思うかもしれません。「親子の愛」から紐解きますと、自分の子供と他者の子供の「愛」が同等であることです。自分の子供と、他の子供の愛情が一緒。ウチの子の方が可愛いなんて思うと、「隣人愛」には入れません。これ、大丈夫でしょうか
>わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)➡<新しい戒め>として<互いに愛し合いなさい>というものが与えられた。>あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(レビ19:18)>あなたがたとともにいる寄留者は、あなたがたにとって、自分たちの国で生まれた一人のようにしなければならない。あなたはその人を自分自身のように愛さなければならない。(19:34)という「律法」はこのイエス
神を愛する者は神の似姿として造られた隣人をも愛することで神への愛を表現するのです。この事を忘れている人が多いように思います。目に見える隣人を愛せない人は目に見えない神を愛することも実は出来ないのです。ここをしっかりと押さえておくことが大切です。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(第一ヨハネ4:21新改訳)
主のご降誕、心より感謝いたします。キリスト教の愛は、感情ではない。意志の愛である。。その意志は信仰に基づく意志である。。だから信仰なしに人を愛することは出来ない。中略私のために神がしてくださった一つの出来事に気づきそれを信じることである。。わたしのために神がそのひとり子を送り十字架に付けて、私の罪の償いをされた。榎本保郎牧師著新約聖書一日一章よりクリスマスは、イエス様のご降誕を思い感謝する日。神様がこれほどの意志をもって
クリスマスのブログにはここ数年、聖書からイエスの言葉を載せてきました。イエスの言葉は2000年も前に語られたもの。にもかかわらず言霊のパワーは落ちることなく、世界の人々に届いています。裏を返せば、これだけ時間をかけても人は真実にたどり着けなかったとも言えるでしょう。イエスは神の独り子と言われます。僕は、イエスは計り知れない愛を持つ人と思っています。決して特別な聖人などではなく、言うなればイエスこそ真の人間なのです。私たちもイエスと同じ人間です。ただあまりにも
良い人に見える。一生懸命伝道する。そこは感心する。だが、マンションの電話番号をゲットして電話伝道するのはいけない。プライバシーの侵害だし、相手は良く思わないだろう。伝道するのに手段を選ばない。伝道の動機も伝道時間が決まっていて、その要求を満たさないといけないから。隣人愛なんてこれっぽちもない。うそではない。やっていたぼくが言うのだから。
ウチから駅までの道に。もうこれでどれくらいになるのだろう。3ヵ月くらいは経つのではないかと思うのですが、フトン、掛布団が一枚「落ちて」います。茶色のフトンカバーがついたままで、最初に見たときには、干してあったフトンが風で飛ばされて落ちたのだな、と見えて、すぐに落とした人が回収するだろう、と思っていたのですが、ずっとそのままです。もう何度も雨に打たれているし、フトンとしてはもう使いものにならないだろうという感じですが、わからないのはいったい誰が落としたのだ、ということです。小さなものではありま
昨日12月13日、札幌友の会のクリスマス礼拝の説教の依頼を受け、「あなたにとって隣人とは」のテーマで、メッセージをしてきました。多くの方が、熱心に聴かれ、その後の質問は、例年になく活発なものだったようです。感謝な時間でした。友の会は、日本の女性ジャーナリストの先駆けといわれ、熱心なキリスト者である羽仁もと子(1873~1957)によって設立された。彼女は自由学園、婦人之友社の設立者でもあります。国内に17か所あり、1万5千の会員がいらっしゃる。社会的活動と並行して、各例会では、羽仁もと子著作