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ひとりの貧しいやまもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当たる。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。生活費が少なくなると献金との戦いです。自分の信仰を主から試されます。十分の一献金をしないと主のものを、掠め取っている気がします
裁いてはならない。裁かれないためである。テレビを観ていると自然と不満が口から出てしまいます。妻に番組の不満を言うと同調してくれますが内心は「うるさいな。静かにテレビ観られないの」と思っているのではないでしょうか?裁くことはいけないが、批評することは良いと自分で都合の良いように解釈している私ですが本当は同じことでしょうね。クリックお願いします
【安息日礼拝メッセージ】箴言31章シリーズ・第4回「その手の働き」―畑を買う女、灯火を守る女、貧しい者へ手を開く女―主要聖書箇所:箴言31章16〜20節“彼女は畑をよく考えてそれを買い、その手の働きの実をもって、ぶどう畑をつくり、力をもって腰に帯し、その腕を強くする。彼女はその商品のもうけのあるのを知っている、そのともしびは終夜消えることがない。彼女は手を糸取り棒にのべ、その手に、つむを持ち、手を貧しい者に開き、乏しい人に手をさしのべる。”箴言31:16-20
仁慈と信仰の教義人間の生命を作っている2つのもの──愛と信仰が存在している。愛は人間の意志の生命を、信仰は人間の理解の生命を作っている。したがって、愛のいかんに、また信仰のいかんに生命が順応している。善の愛とそこから派生している真理の信仰とが天界の生命を作り、悪の愛とそこから派生している誤謬の信仰とが地獄の生命を作っている。主の神的なものは諸天界を作り*、天界は人おのおののもとにその者が主から愛と信仰とを受け入れる度に応じて存在している。天界は、主から愛と信仰とを受け入れてい
「その後、イエズスは、違った姿で現れた・・・・」復活されたイエズスは、なじみの者たちに姿を現される。だがそれは、全く別のお姿で、見た者は、すぐには彼と認めがたい。マリアは墓のそばで、彼を庭師と取り違えた。エンマウスへの道で、二人の弟子は、彼を旅人だと思った。漁をしていた弟子たちは、ヨハネがペトロに向かって、「主だ」と言うまで、岸に立っている人がだれであるかわからなかった。なぜ、こんなに姿をかえられたのだろうか?イエズスは、私たちが行き合う人々の
大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。イエスはその教えの中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。私たちは、自分を癒してくれるイエス様の御言葉に喜んで耳を傾けます。しかし、少しも行動を起こそうとはしません。ただ、聞いているだけです。
命は食べ物に勝り、体は着る物に勝っている。いつも、起きると今日は何を着ようかとか、何を食べようかと考えています。退職してから料理の献立を考えるのは、私の役目になりました。妻が「毎日の献立を考えるのが嫌になった」と言うことで、私が毎日の料理の献立を考えることになったのです。料理自体は妻がしてくれるのですが、献立を考えるだけなのに中々難しい。クリックお願いします
「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。これより大事ないましめは、ほかにない。私たちは、一番自分が大事です。ですから、その思いの少しでも他の人に目を向けることが必要なのではないでしょうか。キリスト教は、隣人愛がすべてです。榎本牧師が説教の中で「信仰は、有るか、無いか、何方かです」と言っていました。信仰生活が、長いからといって信仰が成長することは無いそうです。信仰を無くさないように日々注意して生きていきたいですね。信仰を無くさない方法は
み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように。主の祈りは、ルカの福音書にもあることを忘れていました。確かにルカ11・2-4に載っています。しかし、「み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように。」の語句はありません。主の祈りは、神と人との関係についての基本的な教えを反映していて、福音の要略の意味があるそうです。散歩していると何処からか、良い匂いが?金木犀の匂いでした。クリックお願いします。
イエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。イエスは当時の権力者と闘争をしていません。現在、教会へ行くと牧師が米軍基地反対、原子力発電反対と闘争ばかりしています。クリスチャンは信仰を求めて教会に行っているのです。決して平和闘争をするために教会に集っているのではありません。カトリックもプロテスタント教会と一緒です。今は、司教が先頭に立って戦争反対、原子力発電反対と叫んでいます。だれでも、戦争や原子力発電は好きではありませ
あなた方は自分のために地上に宝を積んではならない。厳しい御言葉です。私たちは、日常の安全のために、お金や日用品を蓄えておこうとします。アリとキリギリスの童話を思い出しますが、アリが利口であったと思い、貯めこんでしまいます。ふと、「清貧」という言葉が頭に浮かびました。ダイソーで買った、ほうれん草と玉ねぎの種を畑に撒きました。品種は、適当に買って覚えていません。種を蒔かないと野菜は、出来ません。段々、畑仕事が雑になってきています。
家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える。主は、旧約の時代に、ユダの国をバビロンの王ネブカドネザルによって滅ぼしています。この世においても善人が苦しみ、悪人が栄えています。世の中には不思議なことが多いものです。しかし、それらは、すべて主がなされていることなのです。私たちには不思議なことでも主がなされることにはすべてに意味があるのです。クリックお願いします。
わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。カトリックの主の祈りでは、この句で終わりですが、プロテスタントの祈りではこの後に「国と力と榮とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」と続きます。若干の古い写本に、この句が書かれているからのようです。毎日が誘惑との戦いです。戦わなくて簡単に誘惑に陥り、罪を犯すことも多々あります。いつも誘惑に打ち勝つ信仰が欲しいですね。ブロ友さんから日頃食べたことのないような高給なお
心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。信じ切ることは難しいことです。しかし、成るかどうかは分かりませんが、私は求めて祈ります。祈りか聞かれるかどうかは、神の御心だと思っています。連休になると、私の住んでいる地域は、車が一杯になります。子どもさんが、親の元に帰ってくるのでしょうね。子ども声もよく聴
あなた方の父は、あなた方が願う前に、必要とするものを知っておられる。神様は、私たちが祈らなくても私たちの願いをすでに知っておられるのです。ですから、私たちがなすことは「主よ」と、神様の方に心を向けるだけで良いのです。クリックお願いします
天の父が完全であるように、あなた方も完全な者となりなさい。レビ記11章44節に「お前たちは自らを聖なるものとせよ。わたしが聖であるから、お前たちも聖なるものとなれ。」と書かれています。この世で、罪のない完全な人になることは不可能です。それが可能と考える人達に過ちが起きるのです。統一教会に集う信徒たちも、この罠にかかっているのです。クリックお願いします
神秘家として世間の評判では、彼に神秘家という名を冠するのは全くそぐわないかもしれない。しかし不思議なことに、生涯の大切な時に幾度も神から大きな示現によって、聖なる転機に恵まれた。神によって一方的につき動かされ受け身で恍惚の人となるという意味では、彼は神秘家ではないかもしれない。しかし自らの勇猛な行動こそが求められ、戦闘に明け暮れする派手な宮廷人であったイグナチオには、特異な彼独自の神秘家としての歩みがあったようだ。それは、「すべての事
ですから、だれでもキリストと一致しているなら、新しく造られた者です。古い者は過ぎ去り、今は新しいものが到来したのです。コリントの人々への第二の手紙5-17多くのクリスチャンは、キリストとの一致を目指しています。ある人は、ご聖体をいただくことで、また、ある人は修道会において黙想することによってキリストとの一致を目指します。しかし、私たちがいったん行動したときには、自我によって行動していることが多いのではないでしょうか?本当に人間は弱い者で
幼な子をわたしの所に来るまましておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。幼子のように心が純粋なうちにイエスを信じる方が良い。歳を重ねると、この世のしがらみに、がんじがらめなって信仰を簡単に受けれ難くなります。死の間際に信じる人もいますが、その人の人生において
あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。そうすれば、人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう。日本人は、控えめが美徳と思っています。ですから、出しゃばる人を嫌います。しかし、光り輝いていることがクリスチャンなのです。いつも陰に隠れないで善を行いたいですね。昨日の昼食は、マクドナルドでした。私は、ポークマックを注文し、妻は、月見バーガーを注文しました。妻は、いつも私より高い物を注文します。
数年前、エリザベス女王の国葬のテレビ中継を教会の美しさ荘厳さに感嘆しながら見てました。「見るとこ、そこ?」って感じですが。ペテロさんは「綺麗とか荘厳とか言う前に、こんなに立派な物が建てられるのにどれだけの犠牲があったか、考える事が大切じゃないの?女王が死ぬのも、普通の人?が死ぬのも何ら変わりない。」と、さすがペテロさん❗️と思うような事を言ってくれました。死は平等に訪れる。いつかは誰にもわからない。メメントモリ。いつも死を思い
自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人たちのものである。「心の貧しい人」とは?直訳では、「霊において貧しい人」らしい。人を幸せにするのは、この世で手に入れた富ではなく、祈りによって神から与えられる恵みです。最近の図書館です。窓際に机と椅子が設置されています。静かに本が読めて良いですね。ここに座って勉強をしている学生も見かけます。クリックお願いします
霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。艱難があると持っていると思っていた信仰が跡形もなく消えてしまいます。いつも不信仰との戦いです。祈る時も、「御心ならば」と祈りに保険を掛けてしまいます。
悔い改めにふさわしい実を結べ。家庭に平和が続くと簡単に御言葉を忘れてしまい、いや、気にしなくなり罪に疎くなってしまいます。信仰に信仰歴は関係ないことが良く分かります。素直な気持ちで主の方に心を向けて歩みたい。昨夜の夕飯、たまご丼の予定が目玉焼き丼に代わりました。わたしは、柔らかいたまご丼が好きなのですが、妻は、目玉焼き丼が好きなのです。ベーコンと目玉焼きに出汁の「にんべん」をかけるだけなのですが、これが美味しいのです。「にんべん
あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足をつまづきから救われたではありませんか、わたしが命の光のうちに、神の前を歩むために。詩編56-14主の前も主の後も歩んでいないのではないか?平和なときには、主を省みない日々を続けてしまいます。ブロッコリー、10本植えてきました。ブロッコリーは、収穫した後、脇芽も食べます。花が咲くまで食べれるので重宝します。🤓クリックお願いします
雲がわき起こって彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。私たちは、人生に迷ったとき、人に聞こうとします。しかし、本当の道を教えてくださるのは、神の子イエスキリストだけです。毎日、献立を考えるのは、私の役目となっています。今日の夕食は、何にしようか?作るのが簡単で安上がりな、たまご丼にしよ
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。人間関係を良くするために、クリスチャンは、微笑みを大切にします。しかし、無理してつくられた微笑みは、心を病んでしまいます。心の底から湧いてくる喜びが、神様から与えられるまで待ちましょう。ブロ友さんのルツさんから妻に電話を頂きました。側で聴いていると若々しい声でした。元気そうで何よりです。🤓クリックお願いします
ヤコブの子はマリアの夫ヨセフである。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。マタイによる福音書1-16「キリスト」は本来「油注がれた者」を意味するヘブライ語「メシア」のギリシャ語訳。大祭司あるいは王の地位につく者が油注がれた者と呼ばれたようです。サウルも油注がれた者と呼ばれています。後には、「約束された救い主」だけを指す言葉となりました。「イエス」はヘブライ語の人名「ヨシュア」のギリシャ語化したもので、「主は救う」という
イエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らに戒められた。盲人を見えるようにし、口の聞けない者を聞けるようにしても、本人にそれをだれにも言ってはいけないと戒めています。何故なのでしょうか?ペテロにもイエスが救い主キリストであることを言わないように戒めています。しるしや奇跡を見て信じる信仰は、本当の信仰ではないのでしょう。クリック
🟥1.悔い改めの本質~敵、隣人を愛せよ悔い改めは心の向きを変える・生き方の方向を変えるという意味です。自分→神中心憎しみ→和解~敵を愛せよ自己→開かれた自己心→聞く心この「向きの変化」が悔い改めの中心です。🟦2.悔い改めは“感情”ではなく“選択”悔い改めは悲しみや後悔の量では決まりません。✔後悔×✔悔い改めは「方向転換」イスカリオテのユダは後悔したが、方向転換しなかった。ペテロは泣きながらも主のもとに戻る方向を選んだため回復された。