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『随風01』(書肆imasu)を買った素敵な書店で購入する。宮崎智之氏の巻頭随筆、随筆特集では、早乙女ぐりこ氏、杉森仁香氏、pha氏、吉田棒一氏の随筆が良かった。批評の和氣正幸氏著「独立書店の販売力」は労作だと思う。多くの人に読まれてほしい。ナナロク社社主村井光男氏は傑物である。若い頃、任天堂に就職しようとした話が面白い。村井氏が書いた企画書を丁寧に読んだ面接担当者は全世界の人事部の鑑だと思う。徴税は貨幣廃棄行為である。税金全てを廃止せよ。脱字を発見する。88㌻6
大僧正天海⑧天海が「ここを明智平と名づけよう。」といい、「どうしてですか。」と尋ねられると「明智の名を残すためさ。」と語ったという伝承は、日光にある諸寺・神社に残っている有名な話である。(「明智平」日光観光協会編)考えてみれば、天海は日光山の貫主であり、関東天台宗の総帥であるから、その伝承が日光の諸寺院に残っているのは当然であろう。ところが、これが「光秀=天海説」の証拠の一つとされるため、強く否定する史家がいる。曰く「明智平は近代に名付けられた。」とか「
これまでの話(54)永禄元年(1558年)、母の重篤を知り会津に戻った随風は、その最期を看取ると、そのまま服喪の後、永禄3年に足利学校の門に入った。4年にわたり経典、史学、詩書、礼楽、諸子百家を学んだのであった。その結果、天台宗の宗義を究めんと考え、上野国新川善昌寺の道器和尚に師事した。善昌寺は関東で最古の天台宗道場であるという。随風はここで寝食を忘れるほど学問に打ち込み、請われてここの住職となった。永禄13年(1570年)の春、随風は知識を求め、再び修行の
これまでの話(53)「天海が江戸崎の住人に、私が随風になりました、とでも言わねば誰も気づくまい。住職にしても兼務していたと言えばそれまでだ。ただ、義広は少し気をつけねばならぬかもしれぬ。自分が推挙した僧侶がどうなったか気に掛けるかも知れぬな。」と家康は首を傾げた。「分かった、伊賀、お前には天海の叙任がうまくいくよう朝廷工作を頼む。オレは蘆名義広の件を佐渡に念押しする。」といった。勝重は伏見城を辞すと、「果たして天海殿がこれを納得するのであろうか。」との疑問がふと浮か
これまでの話(52)家康は松平忠輝を名代として派遣し両家の融和を図った。この処置に大坂の秀頼母子も満足したようである。しかし徳川家中には「手ぬるい。」と憤る声が多かった。中でも秀忠は自分の顔に泥を塗られた思いが強く残ったのである。秀忠はこれ以降、一貫して大坂方に対して強硬であった。京都所司代・板倉勝重は家康にふいに伏見城に呼び出された。勝重には呼び出される覚えがとんとなく、何事かと不安に駆られていた。「はて、何か不手際でもあったか。」と考えたが、思いつかない
天海(277)6月10日、義広は夜陰に紛れて常陸国に逃げ落ちた。同行したものは僅かに119名であったという。政宗は黒川城を手に入れると、米沢城からここに本拠地を移した。蘆名家の旧家臣も多くは伊達家に恭順し、ここに戦国大名としての蘆名家は滅びたのである。しかしながら、この戦いは、秀吉が天正15年(1587年)に関東・東北に発令した「惣無事令」に違反した私戦であった。天正8年(1590年)、小田原征伐で東下していた秀吉に政宗は恭順し、摺上原の戦いで得た蘆名領をすべて
天海(276)天正16年、安達郡塩松の大内定綱が蘆名家から離れ、伊達家のもとに走った。そこで、6月に佐竹・蘆名・白河・二階堂連合軍が1万4千で郡山に進出したのである。郡山城・窪田城を包囲する頃には、周辺の諸将も参加し、総勢は3万人に膨らんでいたという。政宗は窪田城に伊達成美・片倉景綱を入城させ、守備を強化すると、本軍は山王山に布陣し、土塁を積み上げ柵を築いた。この時、政宗は最上・大崎とも抗争が続き、田村領にも兵を割いていたため、戦況は不利であった。両軍は互いに鉄砲を
天海(274)蘆名家は桓武平氏の流れをくむ三浦氏から発祥した一族である。三浦氏の支族であるから、家紋は「丸に三引両」であった。文治5年(1189年)に奥州合戦に従軍した佐原義連(三浦義明の七男)が会津4郡を与えられたことで、蘆名家は始まったという。蘆名盛氏は蘆名氏の最盛期の大名で京都扶持衆に名を連ね、「会津守護」を自称したという。しかし当初、奥羽地方では伊達稙宗が大きな勢力を持っていて、大崎家や最上家を影響下に置いていた。そこで盛氏も稙宗の娘を正室に迎え、両家の
天海(273)越後から下野に通ずる街道の要地に陸奥国高田郷があった。そこには昔ながらの武家屋敷があり、土岐氏の一族である船木兵部少輔景光という武士が住んでいた。この一族は古くからこの郷に住みつき、高田郷の主が興亡する中でも、里人に慕われて、生き残ってきたのである。そして景光の代に、高田城主であった蘆名盛常の娘を娶り、蘆名一族の系族に連なった。ところが、景光が妻を迎えて20年が過ぎようとしているのに、まだ子ができなかったのである。するとある日、妻が申すには、「旦那様
天海(272)「されど、現に蘆名義広は住職に推挙しているくらいですから、面識はあるでしょう。江戸崎の住人にも顔は知られているはずです。それに江戸崎で住職をしていた時期と喜多院にいた時期が相当被ります。江戸崎で随風として住職をし、同時に喜多院で天海として修業をしていたのは何とも不自然ではないでしょうか。」と勝重は懸念を示した。「それに誰か気づくか?」と家康は言う。「天海が江戸崎の住人に、私が随風になりました、とでも言わねば誰も気づくまい。住職にしても兼務していたと言え
天海(271)京都所司代・板倉勝重は家康にふいに伏見城に呼び出された。勝重には呼び出される覚えがとんとなく、何事かと不安に駆られていた。「はて、何か不手際でもあったか。」と考えたが、思いつかない。城内に入ると対面の広間ではなく、奥の書院に通されたので、ますます不安になるのであった。書院には家康と正純がいるばかりである。どうやら、家康の機嫌はさほど悪くなさそうだ。「おお、よう来た。突然悪かったな。佐渡守から書状が来て、面白い内容だったので、お主の意見が
天海④それでは天海のもう一つの家紋である「輪宝紋」について、通説ではどのような説明をしているか、見てみよう。「輪宝紋は、仏教の法輪から発生した紋章で、寺院や神社の装飾としてよく使われる紋である。」つまり、天海の家紋ではなく、お寺の装飾だと言っているのだ。輪宝紋自体は確かに装飾として寺院に飾られることはある。とくに真言宗ではよく見られるのだ。ただ、天海は天台宗で、その輪宝は菊輪宝という全く異なる意匠である。そもそもWikipedia自身が、天海の家紋が「丸に二引き
武蔵遠山氏について②「慶長十八年黒印状」(本光国師日記)『一、寺領五百石此内弐百五拾石別当分修理免共一、衆徒跡猥平僧不可住居同無寺而明屋敷不可抱置事付諸法度可随寺務之下知並公用造営之時不動其役者坊領可召一、山林竹木門前屋敷如旧規諸役令免許事右堅可守此旨者也慶長十八年三月十三日(黒印)武蔵国豊島郡浅草寺』天正18年(1590年)、秀吉は小田原の北条氏を攻めた。「御当家当山御由緒之覚」によると小田原攻めの徳川陣中に天海が現れ、浅
しばしば仕事で日光東照宮を訪れるが、ずっと天海のことが気になっており、何かまとまった本はないかと探していた。小説だが読んでみる。この作家のものでは、空海、菅原道真、平清盛などの本もいつか読んでみたいと思っている。この小説では、無心随風という神出鬼没、妖術使いの僧を縦糸として話が展開する。なかなか面白い手法だと思える。第1章琵琶湖に面した幻影の城:舞台は明智光秀の居城、近江の坂本城。そこを、比叡山から焼け出された随風という修行者が訪れる。信長の叡山焼き討ちについて、光秀と語らう(
うっちーこと宇都宮芳綱ですこの所、★5LV0でS2追加にトライしていたのですが、本日、本城主でやっとグッジョブ♪('-^*)/★5LV0素材が出来たらその都度トライしていたので、ちゃんと数えてはいなかったのですが、本影ともに10回位はやっていたと思いますそれでやっとですから、ちょっと確率負けしてますねまた素材が出来たら試してみますこれで天上くじが引けるようになったので、自分で引いてみたらグフ
うっちーこと宇都宮芳綱です2日前ですが、こんな合成にトライしましたダブりの氏親さんから六角さんにスキル追加にトライしましたドキドキしながらポチリしたらグフッ!><マジか信じられない失敗の可能性を考えないではなかったですが、この確率ならまず何かは付くと思っていました100%以外は信じてはならない!というイクサの掟を甘く見ていました氏親さんの第3候補が覇王征軍で、この合成で
うっちーこと宇都宮芳綱です本城主の南陽院さんですが、こんな感じで一応は完成してましたですが、もっと良いスキルを付けたいと思い、ちょっと前にこんな合成にトライしました以前に三河魂が付いた特の家康さんから天衣無縫陣を、詳しくはこちら4年越しの合成にトライ♪それと華陽院さんから戦陣無双が付いた素材があったので、そこから無双英傑を狙います思い入れは天衣無縫陣が強いですが、性能的にはどうしたって無双英傑
うっちーこと宇都宮芳綱ですここ数日リアル多忙で更新が出来ませんでした今日も忙しいのでチャッチャと進めますね本題に入る前に、前回の合戦で挨拶凸がありましたグッジョブ♪('-^*)/拙いブログですが今後ともよろしくお願いしますさて、本題に入りますけっこう前ですがワールド1でこんな合成をしました佐野さんは戦くじだけでなく天上くじからも来てくれるので、本命の天山龍喰ノ采が付くまで、銅銭
1536(天文5)年南光坊天海は、陸奥国大沼郡高田郷(いま福島県会津美里町)に生まれる。父は舟木景光、母は蘆名家の娘。…父のフルネームは→舟木兵部少輔景光その昔、兵部省の中に兵部少輔という役職があったようです。https://ja.m.wikipedia./兵部省の兵部少輔南光坊天海の幼名は舟木兵太郎、出家前の名前は舟木秀光、出家して『随風』という名前に。ー?→(・・?随風≒舟木秀光と明智光秀名前は似ているけど?どうやら別人けれども祖先は同じ源
うっちーこと宇都宮芳綱ですワールド1でメンテ明けに天上くじを息子に引かせましたその前に戦くじを9枚引かせたのですがグフッ!><久々にオールイエローが来たーここを引く前に引いたワールド1の影城主では、2枚引いて2枚とも赤だったので、悪くないと思っていたんですがね不安に思いつつ天上くじを引かせてみたらグフッ!><やっぱダメだったかぁん~なかなか新天が引けないですねまた頑張って片鱗を溜めま~
うっちーこと宇都宮芳綱です前期末、ワールド1でのことですが、活躍の場がなく髀肉の嘆をかこっていた真田一族を、本城主から影城主へ譲与させましたグッジョブ♪('-^*)/真田一族じゃない方もいますが砲が生産出来るようになると彼らの出番はありませんまあそれまでも部隊スキルを考えると姫武将の出番が多く、このままでは限界突破させ溶かすことになる所でしたんで、それならばと影城主に送ることにした次第です彼ら以外にも
Shaudowの短編小説『新説付喪神』第七話2019.05.28第七話カミさんに乗っかった霊魂も、この状況を報告するため、みんなが待つ神於山に向かった。このあと鍋と茶碗は、常にカミさんと行動を共にして逐一みんなに伝える役目をすることになる。門前についた山内は、あせる気持ちを抑え一呼吸して門をくぐった。「ごめんください」「はーい」庭を掃除していた若い僧が、小走りで山内に近寄り笑顔を見せる。「どちらさまですか」「こちらのお寺の檀家さんか
うっちーこと宇都宮芳綱ですワールド1と2+3で天上くじが引けるようになったので、まずはワールド2+3から娘に引かせてみたらグフッ!><この鯖で3枚目確か1枚は天上くじから、もう1枚は戦くじからだと思った次はワールド1ですグフッ!><この鯖で2枚目1枚目も天上くじでしたしかし、出るのが偏りますねぇまた片鱗頑張って溜めま~すブログ更新のモチベアップのためポチッとお願いします♪