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私は会社員でありながら、長年、プロの作家から文章指導を受けてきた。それは、エッセイで賞をもらい、同人誌に加入したことに始まる。二〇〇三年、四十三歳の年だった。東京・世田谷の茶沢通りをゾロゾロと歩く一団、その中心は、六、七十代で、八十代の方もいた。久しぶりに会う十人ほどの男女が、しゃべりながら歩く。脚の悪い女性もいたので、その列は時に五十メートルにも達した。中でも飛び切り若かった四十代の私は、牧羊犬よろしく殿(しんがり)を務めていた。先頭がときおり立ち止まってくれ、後続隊の合流を確認し、
私がエッセイの添削を始めたのは、二〇一四年五月からです。所属する随筆春秋の添削指導に携わって十年になりました。これまでに一一六名、六二七本の作品を拝見してきました。その五八八本目がこの作品集になります。ここに収録された二十九点も、一本とカウントしていますので、実際の添削数は一〇〇〇本近くになるでしょうか。その私の添削第一号が、西澤貞雄氏の「自治会長の初仕事」でした。その後、西澤作品は「熊ん蜂焼酎」「女王蜂狩り」「ザリガニレシピ」と続いていきます。これまでに二十三作を添削させていただきました
エッセイの添削を始めたのは、二〇一四年からである。所属する同人誌会員の添削指導に携わって十年近くになる。これまでに一〇〇名超、一〇〇〇本近い作品を見てきた。「添削で、そんなに赤字を入れちゃダメよ」「あなたは、手を加えすぎなのよ」先輩講師から、何度、そんなふうに言われてきたことか。それは私にもよくわかっている。現に、プロの作家や脚本家などの原稿には、明らかな誤字脱字がない限り、朱筆を入れない。その辺のバランス感覚はわきまえている。添削を始めてしばらくすると、私への指名が増え出した。添
続きになりますが、(一社)随筆春秋の理事長さんからの手紙やメールが届きました。特典として半年間のお試し入会を提示されました。入会金不要、会費半額です。「最終審査で入選ということになりましたが、御作はこのままにしておくのは惜しく、もたこれをご縁に、ぜひ同人にお迎えしたいと思います。」「御作「あの日の粉もん屋さん」は審査員6名プラス私も推薦しました。佐藤愛子先生は以前から「人生は100年あると思って行動しなさい」とおっしゃっておられましたが、実際に100歳を超えられて本を出すなど模範をしめ
眠れない夜がある。ベッドから起き出して原稿に向かう。パソコンの電源はすでに落してある。机の電気スタンドの小さな明かりを頼りに、常備している原稿に走り書きをする。ふわっと浮かんできた言葉を書き留めるのだ。パソコンを立ち上げて正式に書き出すと、いよいよもって眠れなくなる。若さが失せた今、夜更かしは次の日の仕事に響く。無謀はできない。浮かんできた言葉は、どこかに書き留めておかないと、翌朝にはきれいさっぱり消え去っている。思い出そうにも、まったく何も出てこない。私のメモリー機能は、すでに壊れ始めて
授賞式の始まる間際になって、竹山先生が現れた。いつものように黒づくめの服装だったが、靴だけがオレンジ色の蛍光色のスニーカーであった。靴がこちらに向かって歩いてくるような、そんな印象を受けた。年齢にしてはずいぶんと大きな足だなと思った。目もどことなく虚(うつ)ろで、まだ半分自分の世界の中にいるような、そんな雰囲気を醸し出していた。二〇一八年五月、随筆春秋賞の授賞式が行われた東京四谷の主婦会館でのことである。そもそも随筆春秋は、堀川とんこう先生のお母様、堀川としさんが始めたエッセイの同人誌であ
(一)私がエッセイを書き始めたのは二〇〇〇年、ちょうど四十歳になった年からである。二年後の二〇〇二年八月、公募雑誌で見つけたエッセイ賞に、初めて作品を応募する。自分の書いてきたものが、世間一般に通用するものなのだろうか、という疑念が湧いてきたためである。十二月初旬、忘年会が跳(は)ね、したたかに酔って帰宅すると、優秀賞という受賞の報せが待っていた。発表が年明けだと思っていたので、息が止まった。酔いが吹き飛び、その夜は興奮のあまり寝つけなかった。その時の作品が「祝電」で、選考委員が佐藤愛
編集部から岩崎さんの初校ゲラができた、という連絡を受けたのは、昨年十一月下旬のことでした。現在、札幌で暮らす私と東京の編集部とのやり取りは、もっぱらLINE(ライン)です。LINEとは、スマホやパソコンなどで利用できるコミュニケーションアプリです。ゲラは郵送されてくるのではなく、クラウド上に置かれます。それが「ゲラができました」という意味です。連絡を受けた私は、インターネットを介してサーバー上に保管されたデータをコピー&ペーストで自分のパソコンに取り込むのです。今回のゲラをプリントしてみる
冬になると、よくナベをする。寒いからだ。野菜がしっかり摂(と)れるということもある。野菜を摂取しなければ、という強迫観念にも似た思いが、私の頭にこびりついている。だが、一番の理由は、一度料理を作っておくと、ほかのメニューを考える必要がないからだ。四、五日は楽ができる。大量に作るのだ。カレーを作ると、カレーだけを毎晩食べる。数年前から白米を食べるのを止めた。太るからだ。だが、それでも太る。結局、食べ過ぎているのだ。とにかく、月曜から金曜日までを乗り切ればそれでいい。えみ子なら〝味変〟をして違
北海道の日高、太平洋に面した浦河町のはずれに東栄という小さな漁村がある。その集落の小高い山の中腹に、ぽつんと一軒の白い家が建ったのは一九七五年、私が高校生になる年のことである。そんなところに家を建てるなど、地元の者には考えつかない場所であった。生活するために家を建てる立地ではない。それが作家佐藤愛子の別荘だった。私は隣町の様似町(さまにちょう)に生まれ育った。牧場と昆布の町である。著名人などがくるようなところではない。別荘が建ったこと自体、大事件だった。なにせ、誰も別荘などという建造物を見
草野心平詩集『絶景』の中に、「窓」という詩がある。窓波はよせ。波はかへし。波は古びた石垣をなめ。陽の照らないこの入り江に。波はよせ。波はかへし。(後略)「波はよせ。波はかへし」というフレーズが詩の中で何度も繰り返される。この心地よいリフレインが実際の波の寄せ返しを想起させ、作品のリズムを作り出している。今回、濱本さんのエッセイ集の校閲と「あとがき」の依頼を受けた。分厚いゲラを読んでいると、草野心平の「窓」が浮かんだ。この作品集の
私が随筆春秋でエッセイの添削指導に携わるようになったのは、二〇一四年五月からである。データを遡ってみると、坂野さんの作品に初めて接したのは、その年の七月のことであった。それから六年、添削数は二十本にのぼる。今回、過去の添削コメントをザッと眺めてみた。すると、次のような記述があった。「本作品は、坂野様の人生のほんの一端を綴ったものですが、私としては生い立ちから現在に至るものも、ぜひ読んでみたいという思いに駆られました。こういう五、六枚の完結した作品を思いついたところから書く、そういう積み重ねが
この作品集の柱は、冒頭の十一章からなる教員時代のお話である。若さ漲る初々しい娘が、教員採用面接に臨むところから始まる。命じられた赴任先は、北海道・江差町から四十キロほど離れた小さな漁村である。作中、どこの村なのかは明かされていないが、自然豊かでのどかな村である。そこで暮らす純朴な人々との交流が、余すところなく語られている。作者である瀧沢鈴さんが赴任したのは、昭和十九年(一九四四)三月である。七十六年前のことになる。「こうして我が家から、職業婦人第一号なるものが誕生したのであった」この
今年、二〇二〇年は記録的な暖冬だと言われていた。確かに北海道の降雪量も例年に比べ極端に少なかった。だが、二月に入って季節はきっちりと帳尻合わせをしてきた。今季最強といわれるシベリア寒気団の南下により、一週間足らずで例年の降雪量を上回る積雪となった。二月九日、この日最も寒かったのは北海道内陸部の北寄りに位置する江丹別で、氷点下三十六・〇度。ほどない距離にある幌加内は氷点下三十三・五度と、全国四番目の寒さを記録している。しかもこの辺りは、寒いだけではなく内陸部ゆえ、夏場の気温は三十度を優に超す
山田聖都さんの『随筆春秋』デビューは二〇〇〇年秋の十四号だという。つまり、今年がちょうど二十年という節目の年になる。きっかけは、奥様の幸子様が東京・国分寺市の朝日カルチャーセンターの斎藤信也エッセイ講座を受講されており、それで斎藤先生が代表を務めていたエッセイの同人誌である随筆春秋に直接入会したのが始まりだという。それまではNHKの通信講座で自分史の書き方を学んだ程度で、文学とは無縁だったというから驚きである。今回、エッセイ集の発刊に当たり、随筆春秋事務局から「あとがき」の依頼を受けた。ゲ
この本は、作者の自分史というより、夫婦がともに歩んできた航跡である。他人の半生記などを読んで、何がおもしろい?というのが当初の正直な気持ちだった。だが、読み進めていくうちに、前のめりになっている自分がいた。波乱万丈、禍福は糾える縄の如し、人生の帳尻は……そんなお決まりのフレーズが頭をよぎる。誰しも人生の起伏の中で暮らしており、波乱万丈とはいえないまでも、それなりの荒波というかウネリと対峙しながら生きている。夫婦生活というのはそういうものである。だが、この本の読み応えは、幾度となく襲っ
私は現在札幌にいて、東京を訪ねるのは随筆春秋賞の授賞式へ出席するときだけになってしまった。式典が終わると、記念撮影の後、懇親会へと移行する。更井さんにお目にかかるのは年に一度、そのときだけである。更井さんをお見かけするようになってどれくらいになるだろうか。私もユーモア路線であるが、更井さんもまたそうである。私が随筆春秋に入会したころの代表は斎藤信也先生だった。斎藤先生に初めてお目にかかったとき、「泣かせるものはみなさんお得意。なるほどな、と納得させるものはさらにお手のもの。でもね、ユーモ