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お釈迦さまのお声!それは法華経の教えです。別の名を最上王経とも呼ばれ諸経の王でもあります。どんな衆生も救わずにはおかないという仏陀の方便の力は「法華経」のすばらしさです。不透明な日常生活を生きる私たちに❝仏陀のことば❞を法華経から抜粋してお届けいたします。随喜というのは、どんなことにも喜んで随(したが)うことであるが、凡人には至難なことである。「法華経」の信仰でいう随喜の意味ならばわれわれでも心の持ち方によって、少しづつは実行できることである。
🌟五十展転の功徳は絶大須田:「五十展転」のところは、このように説かれています。まず弥勒菩薩が「この法華経を聞いて随喜する者には、どんな功徳、福徳がありますか?」と質問します。これに対して、仏が答えます。如来の滅後に─その真意は末法ということです─法華経を聞いて随喜する者がいるとする。それがだれであれ、年寄でも、若くても、町へ行き、田舎に行き、静かな所、にぎやかな所、いろんな所へ行って、父母、親族、友人、知人に対して、聞いた教えを、自分の力に
仏、釈尊は「法華経」をお説きになるまでの四十余年間に方便の諸経を説かれた。釈尊は衆生の能力に不同があることを知っておられたので、さまざまな喩や方便をもって説かれたのであった。今回は第十八章随喜功徳品の解説です。「法華経」の功徳は、計り知れない◎まがれる心なし「随喜功徳品」の末尾は次の偈文(げもん)で終わる。※何(いか)に況(いわん)や一心に聴き、其(そ)の義趣(ぎしゅ)を解説(げせつ)し、説(せつ)の如(ごと)く修行せんをや、其(そ)の福(ふく)限(かぎ)るべからず。
仏、釈尊は「法華経」をお説きになるまでの四十余年間に方便の諸経を説かれた。釈尊は衆生の能力に不同があることを知っておられたので、さまざまな喩や方便をもって説かれたのであった。今回は第十八章随喜功徳品の解説です。「法華経」には、因縁が熟さなければ遭うことはむずかしい!◎千万劫(せんまんごう)にも遭い難し経文は今まで説いたことをふたたび偈文(げもん)で説く。ほとんどその内容は同じであるが若干その表現においては異なるところがある。たとえば、大施主があって、まず、財施(ざいせ
仏、釈尊は「法華経」をお説きになるまでの四十余年間に方便の諸経を説かれた。釈尊は衆生の能力に不同があることを知っておられたので、さまざまな喩や方便をもって説かれたのであった。今回は第十八章随喜功徳品の解説です。悪鬼や悪霊も法華経には太刀打ち出来ない◎正しい修行とは「法華経」の教えを他人に聴くことを勧めただけでも、大いなる功徳を得ることができる。まして一心に聴き、一心に説き、一心に読誦(どくじゅ)し、さらに大勢の人々の中に入って細かく説き分けて、その教えを実行するならば
仏、釈尊は「法華経」をお説きになるまでの四十余年間に方便の諸経を説かれた。釈尊は衆生の能力に不同があることを知っておられたので、さまざまな喩や方便をもって説かれたのであった。今回は第十八章随喜功徳品の解説です。利根(りこん)にして智慧ある人とは◎円満な人格とはところがこのような大功徳よりも、第50番目に法華経の教えの一偈を聴いて随喜する人のほうが功徳が大きいという。仏は彌勒に明言した。この施主が大勢の人々にものを与え、さらに教えを説いて最高の教えを得させたとして
仏、釈尊は「法華経」をお説きになるまでの四十余年間に方便の諸経を説かれた。釈尊は衆生の能力に不同があることを知っておられたので、さまざまな喩や方便をもって説かれたのであった。今回は第十八章随喜功徳品の解説です。この世の人間は、千差万別であって同じ人は一人もいない。◎力に応じて説くこの「随喜功徳品」の質問者は弥勒菩薩である。弥勒菩薩が仏に「この「法華経」の教えに随喜するものにはどんな功徳、どんな幸せがありますか」と質問した。まだまだ疑っている者がいるので、
仏、釈尊は「法華経」をお説きになるまでの四十余年間に方便の諸経を説かれた。釈尊は衆生の能力に不同があることを知っておられたので、さまざまな喩や方便をもって説かれたのであった。今回は第十八章随喜功徳品の解説です。「法華経」の教えを聞いてほんとうにありがたいと思う心「初随喜」※仏(ほとけ)、弥勒(みろく)に告(つ)げたまわく、我(われ)今(いま)分明(ふんみょう)に汝(なんじ)に語る。是(こ)の人、一切の楽具(らくぐ)を以(も)って、四百万億阿僧祇の世界の、六趣(ろくしゅ
12/16と17は、久しぶりの連休でした。12/16は"良弁忌"で、東大寺の中をあちこち巡り、翌日は奈良国立博物館へ行きました(^-^)/2日連続で行かずに、1日で済ませよ!って、感じですが……(^_^;)さて、奈良博の常設展「珠玉の仏教美術」では、・国宝倶舎曼荼羅図(~1/11)・国宝阿弥陀三尊および童子像(~1/11)・国宝紫紙金字金光明最勝王経巻第二(~3/21)・国宝法華経(一品経)〈久能寺経〉より随喜功徳品第十八(~1/11)・国宝粟原寺三重塔伏鉢(~3
「法華経」の功徳は、計り知れない!◎まがれる心なし「随喜功徳品」の末尾は次の偈文(げもん)で終わる。※何(いか)に況(いわん)や一心に聴き、其(そ)の義趣(ぎしゅ)を解説(げせつ)し、説(せつ)の如(ごと)く修行せんをや、其(そ)の福(ふく)限(かぎ)るべからず。一生懸命に仏の教えを聴いて、その意味が充分にわかって、その通りに、その教えのほんとうの意味を人に説いて聴かせ、人のために説くばかりでなく、自分自身もこれを実行するならば、その人の得られるであろう福徳は無限であるという。ここでも
「法華経」には、因縁が熟さなければ遭うことはむずかしい!◎千万劫(せんまんごう)にも遭い難し経文は今まで説いたことをふたたび偈文(げもん)で説く。ほとんどその内容は同じであるが若干その表現においては異なるところがある。たとえば、大施主があって、まず、財施(ざいせ)を与え、次に死期の迫った人に法施(ほっせ)を与えることが前にも説かれたが、そのなかに、※我今(われいま)、応当(まさ)に教えて、どうかを楽しむべしと念(おも)うて、即ち為に方便して、涅槃(ねはん)真実の法を説かん。世は皆、牢固(
悪鬼や悪霊も法華経には太刀打ち出来ない!◎正しい修行とは「法華経」の教えを他人に聴くことを勧めただけでも、大いなる功徳を得ることができる。まして一心に聴き、一心に説き、一心に読誦(どくじゅ)し、さらに大勢の人々の中に入って細かく説き分けて、その教えを実行するならば、その功徳がいかに大きいかを、仏は彌勒に観ぜよ、とお命じになった。観ずるということは単に見るのではない。心でしっかりと念(おも)うことである。真理を心で念うことである。じっとその真相を見分けることである。まず一心に聴くこと。聴
利根(りこん)にして智慧ある人とは。◎円満な人格とはところがこのような大功徳よりも、第50番目に法華経の教えの一偈を聴いて随喜する人のほうが功徳が大きいという。仏は彌勒に明言した。この施主が大勢の人々にものを与え、さらに教えを説いて最高の教えを得させたとして、その功徳は「法華経」の教えを語り聞いた第50番目の人が、経文のたった一偈を聴いて、ありがたいと思った功徳に比較すると百分の一、千分の一、百千万億分の一にも及ばない、と仏は断言されたのであった。小乗の教えを聴いて悟りを開くよりは「法華
この世の人間は、千差万別であって同じ人は一人もいない。◎力に応じて説くこの「随喜功徳品」の質問者は弥勒菩薩である。弥勒菩薩が仏に「この「法華経」の教えに随喜するものにはどんな功徳、どんな幸せがありますか」と質問した。まだまだ疑っている者がいるので、弥勒菩薩が大衆に代わってこのように質問したのである。しかも「世尊滅度の後に」とことわっているので、世尊が入滅したのちに『法華経』の教えに随喜すればどんな功徳があるのか、と言っているのである。これに対して、仏は弥勒菩薩に答えた。如来の
永遠の生命を通じて私たちに呼びかけを続けるお釈迦様..............久遠の仏陀釈尊.............の声、それが「法華経」です。現代においてもこの経典の影響の大きさには計り知れないものがあります。妙法蓮華経の第十八章、随喜功徳品(ずいきくどくほん)をご説明します(^^)/「法華経」の教えを聞いてほんとうにありがたいと思う心「初随喜」※仏(ほとけ)、弥勒(みろく)に告(つ)げたまわく、我(われ)今(いま)分明(ふんみょう)に汝(なんじ)に語る。是(こ)の人、