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今日は中岡慎太郎の命日…。1867年(慶應3年)12月12日…。坂本龍馬と共に襲撃され龍馬は即死…。中岡は2日後に亡くなった…。さて…中岡を演じた俳優…。いっぱい居るんだろうし大河ドラマは子供の頃から観てるんだが…。おバカ少年俺はまだガキだったしそれこそ龍馬とか新撰組にしか目が行かなかった😅青春が始まった頃に観た『幕末青春グラフィティ坂本竜馬』の風間杜夫さんぐらいしか思い浮かばない…。2時間ドラマだったから出番も少なかったのが残念…。武田竜馬と風間慎太郎は連続ド
朝室戸岬夕陽ヶ丘キャンプ場正月1/2の夜なので、僕ともう1人だけでした。テントサイトまでが、道が狭く倒したら、引き起こせんななどを考えサイトまで行きました。無人のキャンプ場なので、薪を自宅からパニアケースに入れて持ってきていたが、カーブで重いのと寒さで全部燃やしてしまいました。身軽になって早々に出発です。室戸岬龍馬の盟友、陸援隊の中岡慎太郎の銅像があります。太平洋を見つめて立っています。早朝から、やっている喫茶店がありそちらでモーニングを頂きました。早朝にも関わらず、常連
峰吉らに救出された中岡慎太郎はひどい重傷を負っていたものの、なんとか話が出来るぐらいに回復しました。それでも今で言う絶対安静の状態であったのは間違いありませんが、中岡は苦しみながらも力を振り絞って今何が起きたのかを語りはじめました。一方、近江屋新助や峰吉らは目の前の土佐藩邸や、河原町通東側の三条通のひとつ南の筋にあった海援隊屯所の酢屋、白川の陸援隊屯所など各所に走って急を報せ、土佐藩士の谷干城、毛利恭助、海援隊の白峰俊馬、陸援隊の田中謙助(光顕)、二本松薩摩藩邸から吉井幸輔などが次々と
海援隊・坂本龍馬と陸援隊・中岡慎太郎ひじかたすいげつ尊皇攘夷派と開国公武合体派の対立による混乱期の後半に公武合体派はまとまった。それで開国に向かうと思われたが、1859年以降土佐や長州などの尊皇攘夷派はテロを頻発させ倒幕運動をも始めた。それに対抗する薩摩・会津などの公武合体派は1863年8月18日に尊王攘夷派の三条実美などの公家の参内禁止と長州藩の堺町御門警護役の解任という8月18日の政変が起こった。これにより、長州藩は発言力をなくし、その後の禁門の変(蛤御門
襲撃事件の三日後、慶応四年(1868)三月三日に無事天皇への謁見を済ませた英国公使ハリー・パークスは、すぐさま横浜に戻って行きました。そして戊辰戦争の戦後処理やその後の新政府の方針に大きな影響を与えつつ、明治十六年(1883)まで駐日公使をつとめました。在職期間18年は現在に至るまで英国公使・大使の最長記録です。パークスは明治十六年に日本を離れたあと中国に渡り清国公使(兼駐韓公使)となりましたが、二年後にマラリアにかかり死亡しました(享年57歳)。※.ハリー・パークス事件当
三枝蓊の斬首刑は慶応四年(1868)三月四日に執行されましたが、現場まで同行しながら襲撃に加わらなかった川上邦之助、松林織之助、大村貞助の三人に対しては、翌日の三月五日に流罪とすることが決まり、更に二日後の三月七日に流される先が隠岐島に決まりました。『太政官達』明治元年(慶応四年)三月七日松平出羽守別紙の通り仰せ付けられ候間、その旨相心得るべく候事。(別紙)川上邦之助大村貞助松林織之助右三人、今度隠岐国流罪仰せ付けられ候間、護送方の儀、手配いたし用意調(ととの)い次第、裁
襲撃事件が起きた慶応四年(1868)二月三十日、朱雀操(林田衛太郎)の父式之助は東山道鎮撫軍に従軍して、既に京を離れていました。一方衛太郎の叔父(母の弟)濱某は太政官の警護のために詰所にいましたが、天皇謁見のため御所に向かっていた英国公使一行が縄手通で襲撃されたことと、襲撃した暴漢が御親兵に属している者らしいという噂話が彼の耳にも入ってきました。「衛太郎も御親兵の兵士だが」と不安に思っていると、翌朝、襲撃者の一人が衛太郎であったというたしかな情報が入ってきました。驚いた濱某はすぐさま小堀家
※.本文にグロテスクな内容が含まれます。ご注意ください。朱雀操の死についてはいくつか疑問点があります。ひとつは所持していた刀(兼元)の刃だけでなく、裏側の峰にも無数の傷があること。これは、たとえば彼が刀を落として、慌てて拾い上げたものの無我夢中であったので峰打ちのまま切り合ったというのならば、あり得ない話ではないと思われます。しかし、実際には朱雀の方が優勢で中井弘蔵を押しており、ついには中井は袴を足に絡ませて尻餅をついてしまったというので、朱雀が刀を落としたというのは考えにくいと
さきかけて散るや大和のさくらはなよもやこころのままならぬともパークス襲撃事件で現場で死亡した朱雀操こと林田衛太郎の残した辞世の句ですが、この句は解釈のしようによってはまったく別の意味になります。「さきかけて」を「魁(先駆け)」と読めば、明治新政府が幕府の開国政策を引き継いだことに憤慨した攘夷志士の先駆けとなろう、たとえ「心のままにならぬ」、つまり計画通りにいかずに散ることがあったとしても、という意味になると思います。が、一方で「咲きかけて散る」のが「心のままにならぬ」のだと
そして慶応四年(1868)二月三十日、天皇へ謁見のため御所に向かっていた英国公使ハリー・パークスの一行が新橋通から縄手通に差しかかった時、突如二人の浪士の襲撃を受けました。その浪士とは三枝蓊と朱雀操です。二人は縄手通を二列縦隊で進んでいた英国騎馬護衛隊の騎兵たちを、左右からさんざんに斬りつけ、十二人の騎兵のうち九人が負傷しました。朱雀操は右側から騎兵を襲いましたが、それに気づいた中井弘蔵が馬を飛び降りて駆けつけ、刃から火花が飛び散るほどの激しい斬り合いとなりました。中井が尻餅をついて
朱雀操こと林田衛太郎が遊学中だった慶応三年(1867)十月十四日、徳川幕府第十五代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返上しました。大政奉還です。更に十二月九日には王政復古の大号令が発令され、「徳川三百年」と謳われた徳川幕府の治世はついに終焉を迎えるのです。その王政復古の大号令から三日後の十二月十二日、陸援隊を中心にした浪士が紀州高野山に兵を挙げましたが、その中に朱雀操の姿もありました。そして鳥羽・伏見の戦いで新政府軍が勝利すると、高野山勢は山を下り大坂を経て京都に帰還します。一方、衛太郎(朱
ひとつ訂正です。朱雀操こと林田衛太郎の実家は京都代官小堀家の家来であり、れっきとした武士の家柄だったと書きましたが、代官の家来は手代といって、本来は町役人や村役人が登用されるものであって、決して「れっきとした武士」とは言えなかったようです。お詫びの上訂正させていただきます。ただ、史料を読むかぎり林田家をはじめ、小堀家の家臣たちは苗字帯刀を許されていたようで、特殊な例であったのかも知れません。小堀家は代々京都代官を世襲していましたが、そのため朝廷との結びつきが強く、そのためか幕臣であり
朱雀操こと林田衛太郎は、京都代官小堀勝太郎の家臣林田式之助の息子として弘化四年(1847)十一月二十一日に京都に生まれました。幼少期より読書を好み、学問に励んだ衛太郎は、山口又左衛門(樟陰)及び岩垣六蔵(月洲。学習院教授)に儒学・漢学を学んだほか、「平田大角の門」(『濱某手記』)に入って皇道を志したとされます。平田大角とは平田篤胤及びその養子鐵胤のことで平田派の国学を学んだという意味ですが、篤胤・鐵胤ともこの時期に京都にいた事実はないので、おそらくその門下の大国隆正かその弟子の師岡正胤(節
パークス襲撃事件のもう一人の実行犯で、現場で死んだ朱雀操に関しては、これまで詳しい経歴がわかっていませんでしたが、幸い東京大学史料編纂所データベースに叔父(母親の弟)が書いた『濱某手記林田貞賢英公襲撃始末』(以下『濱某手記』と略す)という彼の出自が書かれた史料があるのをみつけました。この史料をもとに彼の歩んだ短い人生を探っていきたいと思います。朱雀操は本名を林田衛太郎貞賢といい、弘化四年(1847)十一月二十一日に「京師」つまり洛中で生まれました。新選組でいうと斎藤一や藤堂平助(1844
三枝蓊の自白から共犯者の川上邦之助、松林織之助、大村貞助も逮捕され、それぞれの供述も出揃うと、残るは彼らをどう処罰するのかという問題になりました。川上邦之助らに関しては隠岐島に遠島ということで、すんなりと決まりましたが、問題は実行犯の三枝です。太政官は「国法を犯した大罪人であるので磔刑にするべき」と主張しましたが、肥後、岡山などの諸藩は「寛大な処置を与えなければ、今後日本の正気が尽き果て、御国体にも関わりかねない」として寛大な処置を求めました。「寛大な処置を与えなければ日本の正気が尽
逮捕された川上邦之助、松林織之助、大村貞助の三人に対する取り調べが始まりましたが、三人は特に抗弁することもなく、素直に聴取に応じたようです。「その三人は、通りの下の方にある家で待ち構えていて、彼(三枝)と林田(朱雀)の計画が失敗するか、ほんの一部しか成功しなかったら、飛び出して来て、その後を襲う手はずであった」~『英国外交官の見た幕末維新』(A.B.ミットフォード)つまり、三人は新橋通と縄手通との丁字路の下(南側)にある家で待ち構えていて、上(北側)の角の菓子屋で待ち伏せしていた三枝
翌慶応四年(1868)三月一日の朝、三枝蓊(さえぐさしげる)に対する三回目の尋問が行われました。今度はアーネスト・サトウやアルジャーノン・ミットフォードではなく、御親兵の隊長を二条城から呼び寄せて尋問に当たらせました。尋問を前にミットフォードは三枝と接見しており、三枝は「外国人がこんなに親切な人間だと知っていたら、あのような企ては決して実行しなかっただろうし、そのことについて深く後悔している」と、後悔の念を何度も口にしたといいます。尋問に当たった人物の名前はわかっていませんが、おそら
慶応三年(1867)十二月某日、堺の町医者田中清夫の家に身を寄せていた三枝蓊の元に、ある報らせが届きます。それは陸援隊を中心とした浪士たちが鷲尾隆聚侍従を擁し高野山に兵を挙げ、紀州藩をはじめとする徳川方諸藩の動きを封じるというものでした。この浪士団は中岡慎太郎(前月十五日暗殺さる)が集めた土佐藩陸援隊そのものでしたが、藩に無断で白川藩邸の武器を持ち出し高野山に兵を挙げたので、土佐藩の方では「白川の者、帰り候とも御邸に入れぬ事」として関係を絶ってしまいました。そのせいもあってか、千三百人余の
■「海援隊」とは?坂本龍馬が創設し、自らが隊長を務めた海軍組織に「海援隊」があります。海援隊は日本で初めての西洋蒸気船を使用する運輸貿易商社としての一面もあり、海軍術・航海術・商法の活動を三本柱とした教育学校も兼ねた海軍でした。※詳しくは以前投稿した「海援隊の給料」の記事をご参照下さい。海援隊の隊士は水夫や火夫も含めて約五十人ほどおり、藩や身分に関わりの無く、様々な者が集まっていました。土佐藩ー坂本龍馬、高松太郎、沢村惣之丞、新宮馬之助、千屋寅之助、長岡謙吉、石田英吉等。越前藩ー関
名古屋のシンゾウです「京都検定を受験する」という気持ちを12月まで持ち続けることは、とても大変です。皆さんは、特に仕事をして見える方、どのように対処していますか。私の場合、今年はブログ更新を毎日継続することで、モチベーションを維持しようと思っています。このまま行くと、今年は、ブログで20,000問程度、提供出来るかもしれません。一夜漬けが出来ない試験なので、計画的に勉強していかなければなりません。時々、全てを投げだしたいという気持ちに襲われます。後4か月、どうなることでしょう。ブログを更
前回の続きです。先日、サイキックヒーラーさんのお勧めでとある目黒のお店を訪れました。付近に、目黒川が流れているコトを知り沿道を歩きました。私が訪れた時は、この様な状況でした。今は、違うのでしょうね...桜が満開で、美しいのだろうな...来年の開花の時は、拝見できるでしょうか...ご縁が出来ていれば、伺います。昼食を摂る目的の為沿道から、坂を登り代官山方面へと歩きました。その時、道端に設置された地図を拝見しとある場所が気になり出しました...
中岡慎太郎が土佐藩を脱藩した後に下宿していた土佐藩御用達書林菊屋の跡地。龍馬暗殺の現場である近江屋は目と鼻の先です。菊屋の息子、鹿野峰吉は峰やんと呼ばれ龍馬と慎太郎から可愛がられていました。近江屋事件の当日も、龍馬が腹が減ったと言うので峰吉は四条小路の島新へと向かい、軍鶏肉を買って帰ります。その間に襲撃がありました。事件直後、現場を確認した峰吉は、瀕死の慎太郎に言われ当時居住していた白川の陸援隊屯所へ知らせに走ります。慎太郎は2日間生き延び、襲撃の様子について詳細に語
豊永貫一郎は、明治維新後に通称の貫一郎ではなく諱の高義をとって豊永高義を名乗りますが、その足跡は断片的なことしかわかっていません。まず明治5年8月3日、24歳の時に政府に「区々へ小学校を建立するの議」という建言書を提出しています。これは繁栄している西洋各国では、国民がみな勤勉であるので万民の智才を研ぎ、智識を広め、今日の御盛業を奉ぜしめ、皇国をして盛大富強ならしむには、下民に至るまで事理を解せしめ、人智を開くにしかず。その事理を解せしめ、人智を開くには(東京)府下一小区一校を建立し、
慶応四年閏四月六日に小栗上野介、八日には息子の又一を斬首の刑に処したあと、十日には上野国巡察使・大音龍太郎(文久二年に本間精一郎が暗殺された際に本間を送り出した人物。上野国巡察使に着任すると、上州博徒を片っ端から斬首し、「首切り龍太郎」と恐れられた)の命により高崎・安中・吉井三藩の兵には帰陣が許されました。その三日後の閏四月十三日、豊永貫一郎は大音の命を受け高崎に出向きます。大音曰く、三国峠に賊軍(魚沼の天領を預かっていた会津藩)が砲台を築いているので上州の兵を率いてこれを討伐せよというの
上州権田村に隠棲していた小栗上野介が、実は官軍に抵抗する準備を進めているという情報がもたらされ、官軍は小栗上野介の追討を命じました。豊永貫一郎は原保太郎と共に監察使に任命され現地へと向かいます。慶応四年四月下旬のことでした。そして閏四月一日、追討を命じられていた高崎・安中・吉井の上州三藩は兵を派遣し、普請中の東善寺を取り囲みました。『吉井信謹家記』閏四月朔日、三藩説得方、権田村上野介陣屋普請(東善寺と申す)に罷り在り候につき、此所へ相越し応接す。上野介不審之廉々申達候処、
近藤勇の処刑が執行されて間もなく、東山道総督府にある情報がもたらされ、豊永貫一郎は新たな任務を遂行するため上州(現在の群馬県)に向かうことになります。『新田俊純従軍事蹟』(東京大学史料編纂所データベース)より旧幕臣小栗上野介こと、上州三ノ倉村へ引きこもり、追々要地に寄り、砦相構え候模様。その上、大小砲多分所持、諸浪人など召し抱え、官軍に抗し候景況これ有るよし。証書をもって注進の者御座候に付、その段、とりあえず総督府へ相伺い候ところ、右追討仰せ付けられるべく候得ども、ひとまず巨細に探索
紀州藩の動きを封じ込め、鳥羽・伏見の戦いに錦の御旗を押し立てて勝利した薩長土の軍は、やがて江戸を目指して兵を東へと進めることになります。豊永貫一郎は東山道軍に加わって中山道を進軍し、慶応四年(1868)三月十三日には板橋宿(現・東京都板橋区)に到達しています。そして、豊永貫一郎は軍曹に任命されるとともに終身八人扶持を下賜されました。一方、貫一郎にとって兄のかたきである新選組は、鳥羽・伏見の戦いで敗走し、大坂を経て海路江戸へと戻ったのちに甲陽鎮撫隊として甲府城攻略をめざしますが、土佐迅衝隊(
慶応三年十月、薩摩と長州に討幕の密勅が下され、いよいよ薩長両藩を軸に倒幕への動きが本格化していくことになりますが、そんな中、彼ら倒幕派がもっとも警戒していたのが紀州藩の動きでした。天満屋事件(慶応三年十二月七日)は、坂本龍馬・中岡慎太郎の仇を討というと紀州藩公用方・三浦休太郎を襲撃した事件でしたが、三浦を襲ったもうひとつの理由が、紀州の材木商・加納宗七がもたらした、「紀州藩が近日中に二千人の兵を上洛させ、会津・桑名・大垣などの藩と協力して薩摩藩邸などを襲撃して倒幕勢力を一掃し、再び幕府の勢
さて、ここで少し陸援隊について書きたいと思います。慶応三年頃になり、薩長を中心にいよいよ倒幕の機運が高まると、京に潜伏している浪士たちの活動もさかんになってきました。それに対し、新選組など幕府側の探索も厳しさを増してきたので、中岡慎太郎は浪士たちを一ヶ所に集めて保護するとともに、調練を加えて鍛え上げ、いざ事ある時のために備えることにしました。こうして慶応三年(1867)六月、陸援隊が結成されることになるのです。その屯営となったのが、前年冬に土佐藩が藩兵の上洛に備えて購入した洛北白川村の藩邸
慶応三年(1867)十二月七日、坂本龍馬・中岡慎太郎の両隊長のかたきを討つべく、海援隊・陸援隊の同志が天満屋を襲撃しました。狙うは両隊長暗殺の黒幕と目された紀州藩士・三浦休太郎…のはずでしたが、『勤王殉国事蹟』によれば豊永貫一郎の狙いは他の同志とは異なっていたようです。同年十二月七日夜、近藤勇ら六条油小路某宅に会す。同志の士二十人ばかり行きて、これを討つを得ず。敵は三浦ではなく、近藤勇だったというのです。もちろん三浦のせいで殺されたはずの坂本龍馬や中岡慎太郎の名前は彼の履歴書の中には