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総選挙絡みの話を10月末〜11月始めにかけてくどくど書いた。そこで国民民主党と玉木雄一郎押し(推し、ではない)だったので、玉木雄一郎の不倫問題についてどう思っているか?と考える輩もあるだろう。Xで私にケンカを売ってきたれいわ新選組の信者なんかもおそらくそうだろう。というわけで、思うところを書いてみたい。ただ、こういう政治家のスキャンダルについて、私の答えは明確である。答えを言う前に、考え方のルーツを書いてみたいと思う。以前に『史記』の管仲の話をしたが、ここでもやっぱり『史記』の話になる。ここ
陳平は、偽物の劉邦を滎陽の城の外へ出し、敵の降伏に楚兵が、喜び、油断したところを城の反対側から、脱出する策、金蝉脱殻の計を出し、偽の劉邦には、紀信を、滎陽に残る、守りには、周苛・樅公を「彼等なら、死を厭わないでしょう」と納得させるように、劉邦に進言した。紀信は、鴻門の会において、劉邦を護衛したことしか、知られていない。周苛は、従兄弟の周昌と共に秦の泗水郡の卒史であったが、劉邦が、挙兵し、泗水郡守、監を撃破すると、二人共沛公の劉邦に従い、周苛は、随員となった。劉邦に従い、秦を破り、劉
張氏は、息子の張仲を説得して、数日後に孫娘を陳平に嫁がせた。陳平は、結婚後には、金回りが良くなるとそれを元に交際を広め、社の祭りにてで、宰領役になった際には、祭肉を迅速・公平に分配し、名声を高めたが陳平は「こんな物ではなく、天下を与えられれば、即座に裁いてみせるのだが」と言って、嘆息したと言われる。陳勝・呉広の乱の発生後、陳平は、若者達を引き連れて、魏王の魏咎に仕えるようになる。しかし、陳平の進言は、魏咎に聞いてもらえず、周りの讒言により、逃亡する。次に項羽に仕えて、謀反を起こ
曹操は英雄!超世の傑乱世の奸雄、非常の人、軍師、天才すごさも解説三国志の主人公と言うべき英雄が、曹操では...history-ancient.com
三国志そじゅ!沮授袁紹、ほうき、でんぽう、かくと、許攸烏巣も解説三国志の四世三公の名門袁紹の軍師が沮授で...history-ancient.com
辛苦十數年晝夜形神疲xīnkǔshíshùnián,zhòuyèxíngshénpí辛苦すること十數年、晝夜(ちゅうや、昼夜)形神(けいしん、身も心も)は疲れ果て、竟雜霸者道,徒稱帝者師jìngzábàzhědào,túchēngdìzhěshī竟(つい)に覇者の道を雜(まじ)えて、徒(いたづら)に帝者の師と稱しました。子房爾則能此非吾所宜Zǐfángěrzénéng,cǐfēiwúsuǒyí子房よ爾(なんじ)は則ち能(よ)しとしますが
しかし今の中華の経済状況は、その神のような存在ですら、予測し得ない何かが起きるのではないかと思えるほど、混沌として掴みどころがない。物資の流れは、その値を微妙に変動させながら、全体的には北に流れている。その動きはまるで、物が陽炎(かげろう)のように揺蕩(たゆた)いながら北に向かい、それを人々が懸命に手を伸ばし掴もうとする、そんな不気味な光景を見ているような気分に、梁(りょう)興(こう)は襲われた。戦況の情報も、次々と入ってきた。戦はまさに佳境に入ったと言っていい。南進した金軍の
大通り。陳(ちん)平(ぺい)が篭にしがみつき、うずくまっている。男が五人、陳平を取り囲み、一人が笑いながら陳平の腹を蹴り上げた。陳平が篭を抱えたまま、少し宙に浮いて地面に落ちた。それを見た梁(りょう)興(こう)の血が、一気に沸いた。そして走りながら陳平を蹴った男の顔面に、拳を叩き込んだ。男が地面を二転、三転と転がり白目を剥いた。他の四人が色めき立つ。「おう、おっさん、やる気か」梁興は、陳平とごろつきの間に立った。「もうやっている。さっさとかかってこい。ただでは済まさんからな」
岳飛(がくひ)は独立不羈(どくりつふき)を貫き、盡(じん)忠(ちゅう)報国(ほうこく)の理想を掲げ続けたが、その実直な性格を利用され、秦(しん)檜(かい)に謀殺されそうになる。岳飛は梁山泊(りょうざんぱく)の助けも受けながら、からくも南方に逃れ、湄公(びこう)河(が)(メコン川)流域に岳都を建設し、再起を図った。そこで岳飛が苦労して見つけた貴石が、梁興の大きな交易品となった。その後岳飛は、小梁山の秦(しん)容(よう)と共に北伐を始め、激戦の末、南宋軍総帥の程(てい)雲(うん)を破り、南
二人を連れて開封府(かいほうふ)へ向かう途中、二人は何度も梁(りょう)興(こう)の荷物を奪おうと飛びかかってきた。焚火のそばで眠っている時や、小便をしている時など、隙があると思ったときはどんな時でも飛びかかってきた。そのたびに梁興は二人を打ち倒したので、二人の身体は痣だらけになっている。それでも、差し出した饅頭や干し肉は、貪り食う。つまり、人を信じること知らないのだ。あるいは忘れてしまっているのか。けもののように己の為だけに行動する。しかし地方を旅すれば、二人のような子供はいくらでもいた。
とりあえず、開封府(かいほうふ)で古着屋を構えるところから始めた。もともとは仕立屋だった店だが、主人が病で倒れて仕事ができなくなっていたので、そこを買い取った。主人は渡りに船だと喜んだ。物の流れと情報を集めるのには、やはり開封府のような都市が一番だった。商人の数も多いし、何より役人に鼻薬がよく効く。役所の届け出も、偽造したものが袖の下一つで、すぐに通った。梁(りょう)興(こう)は兌奸(だかん)と名を偽り、南から流れてきた駆け出しの商人として、開封府で活動を始めた。古着を扱う商売は初めて
(静子前編)(1)笠置シヅ子の壮絶な生い立ち2023-11-17https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12828953681.html青山誠『笠置シヅ子昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記』(角川文庫)青山誠『笠置シヅ子昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記』(角川文庫)(後編)大阪の父母とは血がつながっていないという衝撃事実を知った日の夜は一睡もできなかった。朦朧もうろうとしながら朝を迎えて、ふらふらと家を出てあてもなく街をさま
「「楚漢名臣列伝」宮城谷昌光著文春文庫」項羽と劉邦の戦いにおける名臣たちについて書かれた本です。激しい戦いののち、劉邦が勝ち、漢帝国を設立します。その戦いの中で、様々な名臣がいました。秦には章邯が、項羽側には、范増や鍾離昧や龍且や黥布が、劉邦側には、張良、蕭何、陳平、韓信、彭越、樊噲、周勃、盧綰らがいました。そして、その名臣たちを最も使いこなしたのが劉邦なのでしょう。その劉邦も晩年は猜疑心が強くなります。そのため、最大の功労者であった韓信や彭越や黥布を死に追いやり、盧綰は匈奴
第5171回「項羽と劉邦中」司馬遼太郎著新潮文庫この巻には、劉邦軍側の張良、陳平、項羽軍側の范増などの天才的な軍師が登場します。軍師と言う人たちは、不思議な人たちです。必ずしも戦いが得意なわけではなく、将軍としてうまく行かないかもしれないいけれど、参謀的役割の時に一番力を発揮するわけです。徹底的に相手の心理を読み切り、その裏をかくわけです。張良は、女性に間違えられるほどの優男とのことですが、その容貌とは裏腹に、秦を滅ぼすと言う目的のために、「どうすれば人を騙せるか」を考え続けた人
令和3年5月29日〔土〕【第1430号〔本年第181号〕】身体は、借り物だから、丁寧に取り扱わなければならない、と言ったのは、木内鶴彦さんだった、ように記憶する。たぶん、皆が皆、そうは思わないのだろうけれど、私は、同感している。昨日の午後の授業でも、「タントウコウ」(=無極站樁功)を設けているけれど・・・昨日は、はやめに=八分くらいで、止めた。みなさんが気持ちよさそうに立っているならば、15分間くらいやってもらってもいいけれど、ソレは、したコトがない=「十分間」と限ってやっている。無極站樁
この話を聞いて陳平さんの嫁取りのお話を思い出したわ
それこそ陳平先生が出てくれたら、そしたら迷わず果実は投票したと思います。山本太郎さんもね、15兆ってね…。
どうも。秦末期の楚漢の攻防戦までは詳しいので、三国志武将列伝の後に書こうかな?とチラと思ったことのある俺です。「項羽と劉邦」というタイトルは、日本人にとっては司馬遼太郎先生の小説で馴染んでいますから、中国の作品にもそのタイトルだったんでしょうね・・・漢創成史としてしまうには余りに楚の終焉がドラマティック過ぎて(「覇王別姫」参照)小説にするしかないですもんねぇ・・・。横山光輝氏のマンガ作品もあるので、探せばお目当ての「陳平」のキャラ画像もあったかもしれないんだが、横光は好きじゃないのよね
常識にとらわれない陳平劉邦軍で傑出した知謀の持ち主は陳平です。しかし彼は嫂(あによめ)と密通するという過去を持ちます。中国は劉邦が建てる漢帝国から儒教の影響が強くなり、年少は年長に仕えるというのが常識になります。陳平の時代はおおらかであったとしても嫂との密通は常識外れでした。しかし、そんな常識にとらわれない頭脳だからこそ陳平は異能をもっていたのかもしれません。陳平一兵も損じる事なく敵の戦力を削ぐ事を陳平は成し遂げます。後の世では当たり前ですが、とにかく情報を集めを陳平は徹底しまし
張良(6)https://www.nicovideo.jp/?header戦略能力将帥や官僚の資質よりも、王者の師として君側に侍り、中原に指図することに優れ、東洋の軍師の一典型として、最もシャープな形を取った。太公望と彼が、東洋における軍師の「テンプレ」になったとも言わ...nyabecch.blogspot.com張良(6)-チャイナ史nyabecch.blog47.fc2.com
張良(5)https://www.nicovideo.jp/?header成信侯編項羽が斉討伐を行っている時に、義帝(楚の懐王)を殺害した項羽を覇王とする楚の非をならし、不満を持っていた諸侯を率いて項羽の本拠地である彭城を落とした劉邦だったが、斉から引き返してきた項...nyabecch.blogspot.com張良(5)-チャイナ史nyabecch.blog47.fc2.com
劉邦を補佐し天下をとったのちも政治の中枢に留まり呂氏に乗っ取られそうになった漢王朝を劉氏のもとに取り戻した真の功臣と言えると思います。しかしその建国の創業から自身の死に至るまで政権の中枢にいた例は稀有ですね。中国の王朝史においてその建国時の功臣のほとんどは帝(王)により死を賜る例が多いです。そんな中、進退を鮮やかに誤らなかった例としては越の范蠡さん漢の張良さん呉の孫武さん(この方の場合、最後の記録が無い)等ですが陳平さんのようにその姓を全うで