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神田神保町《新村堂》が、だんだん実質的に《新村堂大学》となりはじめたような、…。流れから、三島由紀夫の『仮面の告白』『金閣寺』を読み始めたら、…あれー?これは、一橋大学の学長だった阿部謹也さんの種本だったのかぁ?えーっ!三島由紀夫は、《社会vs.世間》を《日本文化vs.お伽の国》というより、《日本文化=お伽の国》としてたのかぁ?前田速夫さんの『異界歴程』で、三島作品を検討すると、なぜ阿部さんが『ハーメルンの笛吹男』研究だったのか?あれー?三島由紀
日本人の宗教観前回の記事の続きです。歴史家として知られる「阿部謹也(きんや)」氏は「日本人の宗教観」についてこのように分析しています。「『世間』は社会の現在の秩序を前提としているから、現在の秩序に従って暮らさなければならない。協調的な姿勢を常に示し、極端な感情的な行動は慎まなければならない。・・・神仏に対しては敬虔な態度を維持し、神社仏閣でもそのような態度を示さなければならない。しかしどのような宗教にせよ、熱中してはならない。どのような思想でもそこに自分を賭けて
なぜ日本にキリスト教が広まらないのか?その2新年聖会の恵みから、前回の記事の続きです。歴史家として知られる「阿部謹也(きんや)」という人は、日本の社会にはヨーロッパで見られない独特の概念として、「世間」または「世間体」というものがあり、日本人の行動を支配しているということに注目しています。阿部謹也プロフィール1935年2月19日-2006年9月4日。日本の歴史学者。専門はドイツ中世史。一橋大学名誉教授。上原専禄門下生で、一橋大学学長、国立大学協会会長等を歴任。
関西国際大学にとりて、なぜ一橋大学の学長たりし阿部謹也氏が《世間論》《教養論》をセットで論じなければならなかったか?その事情は知っておく価値がある。漱石の《外発的開化》《内発的開化》を日本ではなく、受験生、一橋大生とすると、親なり、教師なり、受験産業の圧力によりて一橋大学に入学が可能となりたる、…そこにコンプレックスあり。東京大学、京都大学、一橋大学の序列のコンプレックスに加えて、教育的環境による一橋大学への漂着の場合、学問へのモチベーションがない!ことも珍しくない。一橋大
おやじの会25年の歴史にあって、公立小学校に誕生したる《おやじの会》の事務局長たる我が、一橋大学の学長室にて、当時の阿部謹也学長と意見交換を行った事実は重い意味をもつ。一橋大学から発した《世間論》は、漱石文学を導火線として日本文化の夜に打ち上げられた四尺玉たりし、経済界の期待も大きく、その後の展開に注目した方も多からん。個人が誕生して、その個人が社会を構成する西欧的な社会は、世間に生きる日本人とは、水と油、社会は翻訳語として存在はするものの、《社会≠世間》なれば、話が合うはずも
阿部謹也氏の《世間論》は《教養論》とセットなるが、《教育vs.教養》の問題を考えると、《教<教育>養》こういう包含関係にあり、教養の方が大きい。換言すると、学校、大学は地域社会の中にありて、《地域<学校>社会》阿部謹也によれば、社会は個人によって構成される。しかるに日本人は世間に生きるため、日本にあっては翻訳語として「社会」という言葉は存在するも、西欧的な意味における社会は存在せず…。二松学舎の《漱石アンドロイド》、アンドロイドは存在するも夏目漱石は
限界集落としての大学村を考えるとき、18歳を中心に据えるは、発想の間違いなり。大学にて講義を始めたれば、わが講義のみを聴講、意見交換にていろいろ考えるにしても、卒業する気持ちなど皆無なり。ただ、わが講義を聴きて、2単位なり、4単位履修の成果としてあれば、充分なり。大学というところにて意見交換できたれば、それで満足なり。大学人、気づきてあるは承知なれども、そのニーズの巨大、認識してありや?問題設定に間違いあるということあらんか?知識は不要なり。資格も学歴も不要なり。さようのニーズあるを大
日本の大学は少子高齢化に対応せざるを得ず。アメリカの大学と日本の大学には、決定的な相違あり。すなわち、出入り自由がアメリカ、出入り不自由にして、出入りしてもムダなるが日本の大学なり。大学に用ができれば、実業の人、教授となり、学生となる。日本にては、18歳にして大学に入学、大学院は理系には意味あれども文系には意味少なければ、行かぬがふつうなり。アメリカの大学院は職業に直結したるプロフェッショナル・スクールがありて、教養教育としてリベラル・アーツあり。これに日本の大学が負けるは理由ありてのこ
阿部謹也氏の『「世間」とは何か』『「教養」とは何か』を垂直に世間と教養の間を突破するとき、重力としての世間、重力としての忍び寄る老いさえも振り切れる。人工衛星《教育日本一シンポジウム》たる所以なり。武者小路実篤新しき村創立100周年の盛り上がりに欠ける原因も振り切れる。《龍となれ雲自づと来たる》雲を仲間ではなく世間とすると、《雲を呼べ龍自づと現る》ということにならんか?龍は仲間内に現れる。新しき仲間が雲なり。武者小路実篤、最年少入村者・小国英雄は龍たりしが、もはや龍なき
一橋大学長たりし阿部謹也氏の『「世間」とは何か』は『「教養」とは何か』とセットなり。しかれども、このセットとは、《世間論》《教養論》というこにはあらず、⬆《世間論》⬆《教養論》⬆賀川豊彦ラスキンかように垂直に突破すべきものならんか?『死線を越えて』⬆漱石『三四郎』➡鉄道自殺⬅トルストイ⬆