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福山の朝は横浜に比べて30分遅いみたいだ。(07:00)ホテルから見えた福山駅前広場たまプラーザでもよく行く「LITTLEMARMAID」の福山駅店で軽い朝食。そして、朝の散歩は福山城落葉前の銀杏と天守下の段に降りて紅葉を入れてもう一度天守を。江戸方向を見つめる老中阿部正弘の像2時間ほどの朝散歩からホテルに戻って外を眺めると、高校生当時は「日本鋼管」と呼んでいたJFEスチール西日本製鉄所(福山地区)」の煙突がよく見えた。ここで、今日の一枚
前回の続きお城周りも少し写真を撮ったので上げていこうと思います。北側からみた福山城北側はこのお城にとって“弱点”だったため鉄板張りです。※築城400年記念の際に鉄板張りが復元されました。実際に幕末時代はこちら側に向けて長州軍が大砲攻撃を仕掛けています。福山市のHPに当時の様子がわかりやすく掲載されているものもありましたので気になる方はぜひ検索をしてみてください^^(入封400年記念シリーズ8幕末の福山藩NO
Ⅱ役職松平忠固の書いた「オランダ国王の開国勧告親書」への意見書は、新資料であることが大変興味深く、老中首座阿部正弘からの諮問への解答と言えるものである点が、もっと重視されてよいと思います。この資料からは鎖国から開国への転換を模索していた徳川政権の動きが読み取れます。明治維新になってから流布されている長州藩を英雄視した「皇国史観」を捉え直す一つの証拠ともなりうると思います。・「老中職務とその空間」(P.97)では、老中職の毎日の詳しい勤務の実態と「師範」という存在とその役
勝を見いだしたのは斉彬あまり知られていませんが、勝海舟がまだ貧乏旗本だったときにその才能にいち早く気づいて支援したのは島津斉彬です。よく知られている勝の談話集『氷川清話』では、北海道の商人渋田利右エ門が勝の貧乏ぶりを見て、200両の金をポンと差し出しただけでなく、スポンサーとなる友人も紹介してくれた話が書かれているだけで、斉彬の支援には触れられていません。『氷川清話』のなかで斉彬の名が出るのは人物評論の章に「斉彬公は、えらい人だったヨ。」から始まる短い文章があるのと、時事数十言の
鹿児島の砲台配置は勝海舟案前回の最後に、薩英戦争で英国海軍の上陸を阻止できたのは島津斉彬が築いた砲台があったからだという話をしました。あまり知られていませんが、この砲台の配置を考えたのは薩摩藩士ではなく、幕臣の勝海舟です。というのも、明治21年6月6日に勝海舟が島津忠義・忠済の両公爵から袖ヶ崎の島津邸に招かれ、斉彬・久光の思い出を語った中にこのような発言があったからです。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています)
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』の放映に合わせて江戸時代を学び直す『(10)ペリー来航まで「ボーッ」としていたのか?-3か月でマスターする江戸時代-NHK』について海外の情報をしっかりと取っているのに、それを活かさない不思議な組織の江戸幕府(NHKの『((10)ペリー来航まで「ボーッ」としていたのか?-3か月でマスターする江戸時代』のタイトル画面)NHK3か月でマスターする江戸時代2025年1月~3月[雑誌](NHKテキスト)Amazon3か
突然ですが、この美剣士と思しき像は?「刀剣乱舞・江雪左文字」とありますね。さて、ここはどこでしょう?もうおわかりになった貴方、かなりの「お城通」と拝察いたしました。笑そう、今日の主役はこちらの美剣士ではなく、その後ろに見えるこれ!さぁ、あのお城に向かって進みますよ〜。石垣手前には、小ぶりながらもちょうど今を盛りと咲き誇る一本の桜の木♪たった今入学式を終えたばかりのような男の子とお母様も、この木の前で嬉しそうに写真を撮っておられました。ここ近年は、入学式の頃には桜吹雪といった感じが
4月4日は尹大統領への弾劾妥当判決。その次は共に民主党イ・ジェミョン代表過激な反日家。李明博イ・ミョンバク大統領時代の復活です。ちなみに李明博さんは大阪生まれです。トランプ関税が発動されましたね。米国内へ投資、といっても、4年後にトランプさんは大統領なのか、プーチンみたいにメドベージェフの首相ー再び大統領みたいに、バンスの副大統領ー職務引継ぎ大統領というインチキするのか。4年後がわからないのに、多額の投資などしますかね。脱アメリカが加速するだけだと思うのですが。
どうして、島津斉彬と阿部正弘が、水戸斉昭に合うために水戸藩邸へ向かったかというと、篤姫入輿を急ぐためで、阿部正弘が水戸斉昭の許可をもらい、水戸藩邸へ行ったところ、しばらく数日が経ってから、島津斉彬に水戸斉昭からの親書が届き、開けてみると、【斉彬どのは、娘を大奥に入れ、子ができたなら、将軍の養父となり権威を振るうことができるからであろう】と、反対のような事が書かれていた。普段は、ほとんど怒った事の無い島津斉彬は、これを読んだ時、島津斉彬は、怒りが込み上げ、体中が震え、親書を持っていいる手が
思わぬ出会いに戸惑いつつ「福山城」を夜討ちします。博物館とかすでに閉館していましたが、関係ありませんいきなり「本丸」を攻める息子「二の丸」から別角度から分かりますかね、片面黒くなっているのが。当時の福山城の天守北側には防御力を上げるための鉄板が張られていたことから、2022年8月に築城400年を迎えるにあたり、全国からの寄付により“全国唯一”といわれる鉄板張りなどの福山城天守の外観復元をはじめとした「令和の大普請」が完了しました(福山市HPより)。20
威厳はあるが意見はなし前回は、日本の政治家が官僚に支配されているというのは今にはじまったことではなく、江戸時代の大名も家老の意見に左右されており、その家老たちも自身の部下にあやつられていたという話をご紹介しました。江戸時代に国政を担当していたのは幕府(徳川幕府)で、将軍のもとで実際に行政を行っていたのが「老中(ろうじゅう)」です。老中になれるのは譜代大名つまり徳川家が天下を制圧する前からの家臣で、かつ石高(=経済力)が大体5万石~10万石の小規模な大名から選ばれていました。
日本で最も駅に近い城福山城JRは本丸のすぐ南をはしっている・三原神明市に行く前に福山へ直行しました。・改めて駅と天守閣がすぐ近くであることを実感しました。北口を出た所から見た本丸・駅北口を出たらすぐに石垣がそびえている。・右に天守閣も見えます。姫路城を連想させる美しい天守閣・白い天守閣は姫路城を連想させます。・10万石の城とは思えぬ破格の規模を誇ります。五重の天守、7基の三層櫓…・新規築城の近世城郭では最後のものです。江戸時代初期の1
【明治維新の正体:徳川慶喜の偉大さ】先日、「明治維新の正体」(鈴木荘一著、毎日ワンズ)を読んだ以下は一部抜粋はじめに光圀の水戸学は、武力で勝ち上がった私的権力としての徳川政権の上に皇室を戴いて、徳川政権に公的国家論の息吹を吹き込み、恣意的な権力行使を自戒したものである。慶喜の父である水戸藩第九代藩主徳川斉昭はこの光圀の水戸学を踏襲したうえで、欧米列強の外圧に晒され始めた日本国が独立を保つには、外様大名も政権運営に参加させて全国諸藩が一致団結して国難に立ち
NHK「知恵泉」「川路聖謨」を見ました。なにか突然ペリーやプチャーチンが来たような印象操作・・・なんでNHKはアヘン戦争をひた隠しにするんだろうと思った。アヘン戦争のきっかけは、、、イギリスで中国(清)の茶(紅茶)が大変需要があり、国際通貨である銀が中国に大量流出していた。だから、イギリスは中国茶を買うが、産業革命の産物・綿織物をインドに販売し、インドではアヘンの原料・ケシの実を生産し、アヘンに加工して、中国に大量に売りつけた。清王朝も腐敗してて、賄賂をもらっていた国の中枢が
なぜ、ビンちゃんはこの小説を書いたのかなあと考えてしまう。怖い国に囲まれている日本の現状と重なってしまうのです。舞台は幕末。海外の列強が圧倒的な武力を見せつけて日本に開国を迫ってくる。そこで抜擢されたのが昌平坂学問所で名の知れた永井、掘、岩瀬の3人の俊英たち。大老安倍正弘によるトップダウンの抜擢で外交と国防を任され、長崎、蝦夷地、下田へと派遣され、血をたぎらせながら働く。直接、海外勢と相対しない幕府の中枢は攘夷を声高に言い、宮中の公家たちは、現代のキャリア女性だってしない泣
『吉田松陰と井伊直弼(訂正あり)』まず、尊王攘夷の親分、吉田松陰を知る必要があると思いました。なぜ尊王攘夷を弟子たちに展開させたのか?インターナショナル新書:町田明広著:「人物から読む幕末史…ameblo.jp自分の記事ですが混乱してます。松平定信(老中在位1787‐1793)が外国と条約を締結するとき、勅許が必要としたらしい。????日米修好通商条約は無勅許で国を揺るがしたが、日米和親条約は??孝明天皇は1854年にすでに在位していて、これは許したとは考えにくい。
原稿が間違っていたのか,編集部で間違えたのかわかりませんが,サブタイトルが「老中・安倍」となっています。正しくは「阿部正弘」ですから「老中・阿部」です。グラビアは懐かしいアトムおもちゃがいっぱいです。#手塚治虫http://phoenix.to/syou/big/82/03-10.html
安政の御造営江戸時代、京都御所はたびたび火災で焼失しています。合計6回被災していますが、最後に焼失したのは嘉永7年(1854)4月6日でした。正午ごろ内裏の東南にある女院御所から出火、東南の風にのって内裏は炎上、炎はさらにひろがって周辺の家屋をまきこみ、翌7日早朝にようやく鎮火しました。原因は梅の木にびっしりついた毛虫を退治するために、下女が竹の先につけたワラを燃やして炎で焼き殺していたところ、その火が飛んで屋根に燃え移ったものです。この火事で内裏の諸御殿が焼失しただ
福山城エントランスから地階、1階企画展示室、2階水野勝成展示、3階阿部正弘展示は撮影禁止でしたが、4階の一番槍レースと火縄銃体験コーナーは撮影可となっていました。
本日は母校の全体同窓会、藩校の時代から言うと何年になるのだろう⁉︎勇往邁進最近は老いる母との時間を優先しているので、集まりには参加していない。まだ、同期も元気にしているに違いない。開国への布石評伝・老中首座阿部正弘[土居良三]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}安政維新阿部正弘の生涯[穂高健一]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}阿部正弘ーー挙国体制で黒船来航に立ち向かった老中[後藤敦史]楽天市場${EVENT_L
ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全国の「
【NHKBS篤姫】現在、NHKBSで篤姫が再放送されています。放送時、最後まで見なかったので今回見ています。篤姫(天璋院)1836~1883宮﨑あおい第13代将軍徳川家定1824~1858堺雅人老中阿部正弘1819~1857草刈正雄備後福山藩7代藩主広島県福山市福山城福山城『【日本名城71番】福山城②【御城印】【スタンプ】』寺社No.5205御朱印No.5351福山城広島県福山市日本100名城71番福山城博物館2019年12月8日ameblo.jp阿部神
*4月7日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは天保の改革周辺。本日がシリーズ最終回、弘化嘉永遠山桜のおはなしです。🥪あんみつ「しらたま先生、弘化二年(1845)三月に53歳で南町奉行を拝命した遠山金四郎は、急進強引だった天保改革とうって変わって穏健な社会政策を打ち出します。水野忠邦が解散させた《株仲間》の再結成を認めたのもそうですね」しらたま「その
*3月31日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは天保の改革周辺。本日は、南町奉行・遠山金四郎のおはなしです。あんみつ「しらたま先生、天保十四年(1843)閏九月に天保の改革が挫折したあとも、鳥居耀蔵は南町奉行職を保持していました。偏執狂的に洋学を憎む彼のこのときのターゲットは、砲術家の高島秋帆(しゅうはん,1798~1866)です」しらたま「長崎の町年
今日は、幕末の日本を大きく開国に舵を切らせた大老、ほったまさよし堀田正睦の命日・没後160周年にあたります。正睦(初名:正篤[まさひろ])は、1810(文化7)年に下総佐倉藩第3代藩主・堀田正時の次男として江戸藩邸で生まれました。その翌年に正時が亡くなり、彼の養子であった正愛が第4代当主となりましたが、正愛自身が病弱で子も夭折していたため、正篤は正愛の養子となり、藩内の跡目争いを経て15歳だった1825年には家督を相続し第5代藩主に。蘭学を奨
年が明け、島津斉興が新年の祝辞を述べるため登城し、将軍に謁した。この時には、下賜品があるのが決まっていて、その下賜品は家によって決まっていて、数量も品物も毎年同じ物だけど、この時は違っていた。茶壺だった、いつもと違って茶壺が出てきた、島津斉興は、ハッとした。これは、大名を隠居させたいとき、茶でも飲んで余生をノンビリと過ごしなさいというような意味で、幕府が引退させたい大名に行う無言の手であります。島津斉興は、一瞬、戸惑ったが、これは、阿部正弘と島津斉彬が計ったことだと解るので、知らん顔して
再びの広島…季節ネタを挟んでしまうので、中々、先へと進まずですが…尾道駅前にて…19時40分を過ぎたと言うのに、昼間となのか、夜なのか分からぬトワイライト🙄その昔、「トワイライトゾーン」と言うアメリカのテレビドラマがありましたが…それは“怪異が起こる時間帯”と言う意味で使われた用語のようですが…とっくに日没は過ぎたと言うのに、中々、夜にならないのは不可思議であって、まさに「トワイライトゾーン」へと誘われてしまった模様けれども、19時50分を過ぎ、尾道水道を望むとそこは、急激に闇
※こちらの記事は、令和3年4月25日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第4回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【『青天を衝け』の楽しみ方】・第1回―渋沢家について・第2回―身分秩序について・第3回―平岡家について
11月16日。尾道のお寺巡りのあと、車で福山まで。。。。福山駅で車を返し、荷物はコインロッカーに入れて、駅に隣接しているかのような福山城に行きました。新幹線のホームから見えたお城です。筋鉄御門は重文です。スマートというか、スッキリと綺麗な姿です。こちら側からは見えないのですが、このお城は、北側が鉄板の城壁です。防御を完璧に備えたお城です。このお城は、博物館になっており、阿部正弘の展示をしていました。え?阿部正弘?幕末の老中首座です。39という若さで亡くなってしまう
福山城は、家康の母方の従兄弟であった水野勝成が築城した城です。上の写真は、東側から撮ったものです。次の写真は、伏見櫓(ふしみやぐら)です。伏見城から移築されたもので、武器庫として使われたとようです。空襲で焼失を免れ、国の重要文化財となっています。伏見櫓に面して、本丸への正門があります。これは、筋鉄御門(すじがねごもん)と呼ばれています。この扉は、十数本の筋鉄を打ち付けているところからこのように呼ばれています。この門も空襲で焼失を免れ、国の重要文化財になって