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土浦藩に伝わった関流砲術の鉄砲は,伝書にその製作仕様の掟が定められおり,全て同じに作られる。関流には,いわゆる統一規格が存在したのである。現在,土浦の関流宗家には,169冊の砲術伝書が残されている。その中には,口径5分(口径約7ミリ)から100匁(口径約41ミリ)の鉄砲まで,詳細な製造仕様が定めた伝書が存在する。しかし,日本の火縄銃は、一丁一丁が職人の手作りのため、規格化や共通化が完全には徹底されなかった。職人により,同じ口径の銃でもわずかな違いが生じることが多かったのである。写真右側が50
私が所属する火縄銃の会は,関流砲術を継承し錬成している。関流砲術は、10匁玉筒以上の大口径火縄銃や大筒の遠距離射撃を得意とする砲術流派である。関流の鉄砲の数々上から50匁筒,その下3丁が10匁筒,一番下が管打ちに改造された関流3匁半の単筒。Sさんコレクションから。関流砲術というのは通称であり、正式には南蛮流というのが正しい名乗りである。これは流祖の関之信の師である丸田九左衛門が、長崎で南蛮人から遠距離射撃の極意を学び会得し,ヨーロッパの影響を色濃く受
私が所属する火縄銃の会では関流砲術を継承している。関流砲術は、10匁玉筒以上の大口径火縄銃による長距離射撃を得意とし,3キメロメートル以上の射程を誇る。例えば,関家七代目の関知信は26歳の時の射撃大会で,口径約80ミリの800匁大筒でみごとに的を撃ち抜いた。その時のスコアを記録した古文書が,今も土浦の関宗家に残されている。黒点が的,白抜きの丸が弾着痕。右端が関知信の射撃結果。みごとに黒丸を撃ち抜いている。写真提供須川薫雄著『日本の火縄銃2』<m(__)m>関家は代々,藩
関流砲術は,江戸屋敷において土浦藩士に限らず広く砲術を伝授した。その門弟には,相馬出羽守,酒井雅楽守,内藤備後守,細川能登守,松平主殿頭などの藩主もおり隆盛を極めた。中でも内藤備後守が藩主を務める平藩は,領内の藤間浦の砂浜で遠距離射撃大演習を行うほど関流砲術の鍛錬に熱心だった。その平藩二代藩主の内藤忠興は,血の気の多い面白い男だったらしい。江戸在府中,忠興は国元から大根の漬物を取り寄せていた。そして塩辛くない浅漬けが欲しいとか、塩辛くなくシワがあるように漬けて寄こせとかの注文を
公式ハッシュタグ令和6年9月15日骨董品ランキング3位私が所属する火縄銃の会員が関流の馬上筒を手に入れたというので見せてもらった。その鉄砲は,近江国友の国友丹波大掾宗俊が製銃した口径約13ミリの関流三匁五分の馬上筒だった。関流三匁五分の馬上筒国友丹波大掾橘宗俊は国友村の脇年寄も務めた人物で名工の呼び名が高い鉄砲鍛冶である。その活躍時期はほぼ判明しているから,この馬上筒は今からおよそ400年前後に造られた馬上筒であると考えられる。この馬上筒の銃身には,風という字が象嵌され
先日,関流の馬上筒二丁を調査した。その結果,写真上の鉄砲の銃身や尾栓ネジ,銃床,機関部には七十九の番号が,写真下の鉄砲にも八十九の番号がきざまれていた。このように番号が付けられている鉄砲を番筒と呼んでいる。番筒とは大名家所有の鉄砲で、合戦時に鉄砲足軽に貸し出される御貸し鉄砲のことである。ただし馬上筒は騎乗の侍が所持する鉄砲であるから,貸し出されたのは藩の上級武士に限られたに違いない。この二挺のうち最大番号が八十九であるということは,少なくとも同型の鉄砲が89挺作られていたと考
公式ハッシュタグ令和6年8月19日骨董品ランキング3位先日,関流砲術の二挺の馬上筒を調査した。口径約13ミリの三匁五分筒で,とても軽い。鉄砲鍛冶の銘は,江州国友丹波大掾橘宗俊である。則と金象嵌がされている馬上筒には,全ての部品に七十九と番号が刻まれている。番号七十九の馬上筒もう一丁の方にも全ての部品に八十九と番号が刻まれている。この馬上筒にも金象嵌が施されているのだが,この字が私には読めない。どなたか,この金象嵌の読みを教えていただけないでしょうか。
島原藩6万5000石の藩主松平忠房公は,関流砲術に入門し二十歳の時から三十一歳までの間に,四度にわたって関流の秘事を授けられた。関流は礼儀に厳しい砲術流派であるから,大名といえども忠房公も関流の掟を守り指導に従う旨の起請文を関宗家に入れたはずだ。関流砲術の起請文(現代版)起請文は,関家の家紋である向い揚羽が摺りこまれた和紙が用いられている。島原藩主松平忠房の鉄砲の腕前は,相当なもので鉄砲の稽古にも熱心だったと記録されている。寛文七年(西暦1668年),四十九歳の忠房は,島原城二
公式ハッシュタグ令和6年1月14日骨董品ランキング3位これは,相馬中村藩の砲術師範家に伝わった関流仕様の馬上筒である。銃身には菊の字が,火挟みには朝顔の花が,それぞれ象嵌されている。口径は1.3cm,銃身長30.4cm,全長49.6cmで福島県教育委員会の登録である。関流仕様の三匁五分玉の馬上筒関流の火縄銃は現存数が少ないが,同流の馬上筒は特に珍しいものです。ジョニー・デップの海賊映画に出て来る鉄砲に似ていると思いませんか?各地の催事で五回度ほど空砲射撃したが反動
公式ハッシュタグ令和五年11月2日骨董品ランキング3位私が,宮城県丸森町に火縄銃に特化した博物金山城伊達・相馬鉄砲館』を開館したのは昨年9月17日だった。それからわずか40日後の10月28日に,神奈川県厚木市から火縄銃研究者のYさんが当館を訪れた。Yさんは火縄銃以外にも三輪自動車ミゼットを7台も所有し,映画「ALWAYS続・三丁目の夕日」の撮影に貸出したほどの筋金入りのコレクターである。当館は,関流砲術二代目の関昌信が愛用していた口径19ミリの十匁火縄銃を寄託展示している。Yさん
公式ハッシュタグ令和五年7月19日骨董品ランキング2位土浦藩のお家流の関流砲術は、大口径火縄銃や大筒の遠距離射撃を得意とする砲術流派である。関流の修行は、他流と異なり入門1年目から扱いの難しい十匁玉筒の修業で始まる。十匁玉筒は士筒とも呼ばれ,重さ約37グラム,直径約19ミリの弾丸を発射できる火縄銃で,その威力は絶大だ。天山流の阪本天山は「実用的で威力のある火縄式小銃は十匁玉筒に極まれる。」と述べている。国友丹波が鍛えた関流の十匁玉筒十匁玉筒は,その威力
福島県の北部にあった相馬中村藩は,三代藩主忠胤公の時に軍制改革を行い,御流儀鉄砲を関流砲術と定めた。御流儀鉄砲とは,藩のお世継ぎが習う砲術のことである。関流砲術十匁筒演武昨年私は,相馬中村藩のお抱え鉄砲鍛冶の神尾九右衛門宗政が作った関流の火縄銃を譲り受けた。しかも口径13ミリの小口径の三匁火縄銃で,とても珍しい品物だ。私の手元に来た時は,銃身が酷く錆び銃床には数か所の欠けやヒビがあった。私は数日かけてこれを徹底的に整備した。譲りうけ直後の関流三匁火縄銃整備後の関流
金山城伊達・相馬鉄砲館が開館して二か月が過ぎたが,縁というものを感じることの多い日が続いている。一昨日は年老いた御婦人が,当館を訪れた。その御婦人は,関流砲術の展示の前に座りこみ国友丹波大掾橘宗俊の鍛えた鉄砲をじいっと見つめていた。私は不思議に思い声をかけると,なんとその御婦人は相馬中村藩の鉄砲鍛冶の御子孫だった。その方の亡くなられた旦那さんも,相馬市内で鉄砲鍛冶をしながら銃砲店を営んでいた。旦那さんは,相馬最後の鉄砲鍛冶だったのである。年老いた御婦人が見つめていた関流の鉄砲
関流砲術を創始した関之信は,米沢藩上杉家の家臣で米沢藩で主流だった霞流砲術を学び,師の丸田九左衛門からその印可を受けた。霞流砲術は,関流砲術の師匠筋であり,関流砲術がその影響を強く受けているのは間違いない。下は,関流砲術と霞流砲術の鉄砲を並べて撮影した写真であるが,火縄銃愛好家でもその違いをすぐに見分けを付けられる人は意外に少ないのも、また事実だ。関流の鉄砲と霞流の鉄砲の比較上が関流の50匁大筒,下が霞流の20匁筒関流砲術と霞流砲術の鉄砲の大きな違いはその重量
一昨日,宮城県丸森町にある『金山城伊達・相馬鉄砲館』に横浜から来館者が三人あった。そのうち一人は,Yさんという熱心な火縄銃研究者の方だった。Yさんは,火縄銃以外にも三輪自動車ミゼットを7台も所有し,映画「ALWAYS続・三丁目の夕日」にも貸出したほどの筋金入りのコレクターである。当館は,関流砲術二代目の関昌信の名前と花押が象嵌された口径19ミリの十匁火縄銃を受けて展示している。Yさんも関昌信の名前と花押が象嵌された鉄砲を持っている。Yさんは,この二挺の鉄砲がペアガンだった可能性があ
公式ハッシュタグ令和四年4月20日骨董品ランキング3位超人的大筒射撃と修行の力学生の頃だったかもしれない。私は,何かの本でこの絵馬のことを知った。大筒を両手に抱え持って射撃しているサムライの姿を見て,私は驚いてしまった。若かった私は,この絵馬が描いている事実を全く信じられず,単なる与太話の類だと思ったものだ。火縄銃の演武を始めるようになってから,この絵馬のことを詳しく調べてみた。この絵馬は,一貫目大筒の膝射に成功したことを記念して京都の八坂神社に奉納された絵馬である,今で
男もすなる五十匁大筒といふものを,女も撃ってみむとするなり。おねがいしまぁ~す。写真提供若旦那提供(インスタID)takenoko.no.yama関流五十匁!かまえ!写真提供若旦那提供(インスタID)takenoko.no.yama放てぇ!どっか~ん写真提供若旦那提供(インスタID)takenoko.no.yama
日本の火縄銃の中に,馬上筒というものがある。騎馬武者が,片手で操作できるよう銃身を短くし軽量に作られた鉄砲である。重量は1~2キロ程度,全長は50~60cmと短めに作られている。しかし,これでも馬上で操作するには長すぎる。私のつたない経験では,馬上筒を片手で構えると,銃先がわずかに震え狙いをつけるのが難しかったことを覚えている。流派不明の馬上筒写真提供若旦那提供(インスタID)takenoko.no.yama田付流の馬上筒演武両手に持っているのは,
関流砲術の大演習である「町打うち」が行われるのは,土浦藩領北部の中貫原である。「町打」とは10町(約1.1km)から30町(約3.3km)先の標的を狙う遠距離射撃のことだ。関流砲術の大演習「町打うち」標的はまだまだ先延宝5(1677)年11月の町打ち大演習で,関内蔵助は,30町(約3.3km)先の標的を狙って800匁大筒を二放し,一発目は標的の柱を擦り,二発目は標的の黒点に命中させている。800匁大筒は口径約84ミリ,推定重量で75キログラム。撃ち出され
公式ハッシュタグ令和三年5月11日骨董品ランキング2位今日は,朝早くから火縄銃の練習会がありました。的に対して礼!ちなみに,ブログ主は右から五人目緑の鉢巻きに赤の胸当てを付けた人です。ブログ主の写真が少ない,練習をさぼっているのではないかとの声がありましたので,念のため申し添えました。鉄砲修行もし,撮影もしているので大変なのです。まずは,口径19ミリの十匁筒演武。三人立ち次には,個人指導。使用した鉄砲は,口径19ミリの井上流十匁筒さて,今日は,大
本日はドッピーカーンの射撃日和でした。toudou地方では桜が終わりかけです。今日は,関流砲術の伝書説明会の後,火縄銃演武の練習が行いました。関流の射法を古式通りに守っていくにも,伝書の勉強会は重要です。この勉強会を始めてから,会員の射撃姿勢は見違えるよう奇麗になりました。今日は,火薬が燃焼し薬室の火薬が爆発するまの流れを,火薬が発する白煙から観察してみました。①引き金を引くと,火挟みのロックが外れ,火縄のついた火挟みが火皿に落ちる。②火縄の火で,火皿に盛られた発火薬の
昨日は,茨城の土浦市に行った。ここは,土浦藩9万5000石土屋家の御城下である。かつて土浦には,「土浦に過ぎたるものが2つあり。刻の太鼓と関の鉄砲。」という俗謡があった。関流砲術は,土浦城櫓門からの時太鼓とともに土浦藩の自慢だったのである。土浦城太鼓櫓刻の太鼓明和7年(1770年)浅草の太鼓師によって作られ,平成22年に皮の張り直しなどの修理が行われた。この櫓門の近くある土浦博物館に関流砲術の至宝,900匁の「谷神」と250匁の「抜山」と名付けられた鉄砲が展示されている
私が所属する火縄銃の会は,関流砲術の研究と継承を目的としている。関流は、大口径火縄銃や大筒の遠距離射撃を得意とする炮術流派で、他流と異なり入門1年目は扱いの難しい十匁玉筒の修業から始まる。関流の鉄砲の数々上から50匁筒,その下3丁が10匁筒,一番下が管打ちに改造された関流3匁半の単筒。Sさんコレクションから。十匁玉筒とは,重さ約37グラム,直径約19ミリの弾丸を発射できる火縄銃で,その威力は絶大だ。「周発台」を発明した天山流の阪本天山も「
福島県浪江町の被災家屋解体処理で発見された関流の銃身は,地元の貴重な歴史資料である。この銃身の火皿をよく見るとその老け具合から,江戸時代初期の作かと推定される。被災家屋解体処理で発見された関流の銃身火皿の老け具合また銃身には,江州國友弥右衛門重弘作と鉄砲鍛冶の銘が刻まれていれているから,近江国友村で作られたものを購入したことを示している。江戸時代,浪江町は相馬中村藩領で,ここには藩の鉄砲師範の小田切家が住んでいた。この銃身はその鉄砲師範家とのつながりが考えられる。
火縄銃から日本人を考えてみると,利便性を高めるために機械を開発するということは少なく,人力や個人技で困難を乗り越えようとする傾向がうかがわれる。日本人は,昔からこのような弱点を有しているように感じる。それは情報が届きにくく資源の少ない島国と言う環境より形成されたのだろう。例えば,大筒の射撃は,そのいい例である。口径3,4センチの五十匁大筒演武西洋では大砲を砲車や砲架に載せて射撃するが,日本人は,これを射手一人で抱え撃つ。しかも水平射撃では,射距離が延びないため,より
私が所属する関流砲術の会では,鎧兜を着用して演武することはない。幹部からは,関流砲術は,殿様への上覧が一番の華だから,羽織袴で行うのだと聞かされている。実際,土浦市立博物館に寄託されている関宗家の射撃絵図も羽織袴で行われている。藩侯の前で行う火縄銃演舞での私の正装はこんな感じだ。殿さまへの鉄砲上覧では,雪駄の鼻緒は白色を用いる。演武の際は長刀は差さず脇差一本を差す決まりとなっている。なにかあれば切腹する覚悟を持って臨むということである。太刀は模造品。脇差は真剣。私は火縄
若旦那や姫が関流50匁大筒を撃つようになったら,ほかの会員の人たちも大きく影響されたようである。特に女性が,大筒に挑戦したということは,男性会員には相当の刺激になったらしい。若旦那の他流派50匁筒による膝台演武写真提供若旦那(インスタID)takenoko.no.yama姫の関流50匁筒による膝台演武写真提供若旦那(インスタID)takenoko.no.yama関流50匁大筒は,私が知る限りでは日本に2丁しか現存しない。だから会員の間では,この鉄砲を神
関流レディースつるべ連射をすること一昨日,女性の演武風景を投稿したら,驚くほど反響がよかった。もっと見せろとのメッセージも数通よせられた。そこでリクエストにお応えして,急遽,関流レディースのつるべ連射を投稿することにした。先頭の女性会員は,日曜日の練習会にお出でにならなかったので,
砲術に限らず,古武道を伝承していく上で,伝書と技に精通した指導者は欠かせない。また,伝書とは異なる我流,誤った指導が行われないようにするためには,指導者以外の者に指導を許してはならない。それを許せば,流派の掟と異なる誤った指導がなされる危険があり,流派の教えをきちんと伝承していけなくなるだろう。五十匁演武で注意を与える指導者紺の茶羽織を着ている人が指導者。のんきな父さんではない。達人である。演武者の後ろには,万一の場合に備
令和二年7月16日人気記事ランキング25位今は,「すべての女性が輝く社会」である。安部さんがそう言ってから久しいが,火縄銃の世界でも女性の躍進が目覚ましい。一昨日の演武練習会にも二人の女性会員が来て,熱心に練習していた。その二名から,「火縄銃の紹介のためなら顔出しもかまいません。」とのお許しをいただいた。名付けて『嗚呼,花の関流レディース』である。嗚呼,花の応援団ではない。女性は男性よりも真面目で素直だし,練習熱心だから成長が著しい。関流砲術に入門し二,三年で大