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関ケ原町の山あいに広がる休耕田にあるフジバカマ畑に今年も飛来してきたアサギマダラを見にいきました。海を渡るといわれるこのチョウ、大きさもさほど大きくないが頼もしさを感じます。フジバカマ畑の周囲には休耕田にコスモス畑が広がりピンク、白、赤さらに濃いピンクのが一面に咲きアサギマダラと共々楽しませてくれました。フジバカマ畑があるこの一帯は関ケ原合戦の激戦地で、東側が西軍の島津義弘の陣地跡、西側が小西行長の陣地跡になっていた。島津義弘は前回に紹介したが、小西行長は関ヶ原合戦の時北天満山の山頂
2023年5月27日。お隣の家が取り壊されて寂しそうなクロ(九郎右衛門)ちゃん。クロちゃんの寝床がなくなってしまいましたね。そんな姿を眺めながら、今回はスーパーカブで垂井、関ヶ原方面へ出動です。木こりの一服小屋〜ダークサイド垂井黄土色のボディの景観保持型チェリオの祠。公式のバリエーションのようです。垂井町の幸福の家。幸福実現党のポスターの貼ってある建物は廃墟になっていることが多いですね。そしてこちらが木こりの一服小屋。侘び寂びを感じさ
「4歴代ノ総理大臣(その45)」今日は、関ヶ原合戦みなさん、おはようございますそして、こんばんは早く寝すぎて目が覚めてしまいました(笑)九月、長月も15日折り返しです来年の運気が始まります「小川翔護とハタラク仲間たち(仮称、OHN)」始めたいと思います順次、準備していきますのでご希望の方は、下記のアドレスから必要事項①お名前②連絡先メールアドレス③ご活動状況またはご興味のあるテーマなどを記載の上お申し込みください
中山道を関ケ原宿から間の宿山中にきた道は、壬申の乱における大友軍と大海人軍が川を挟んど激戦になった黒血川にいきました。ここから川に沿って北にいき、関ヶ原合戦において西軍の有力武将で、この地で戦死した大谷吉継墓にいきました。関ケ原特有の杉林の中の山道を大谷吉継が眠る墓が木立の中に湯浅五助を共にひっそりとありました。ここから戻って中山道を西にいくと右側の三地蔵堂が安置され、その前にはうぐいすの滝があります。むかしこの滝は今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれるそんな場所であった。高さは5m
関ケ原徳川家康最後の陣地(国史跡)
南宮大社の北側の坂道を、西に約1kmほど上がったところにある真禅院(天台宗)にいきました。寺伝によると,創建は天平11年(739)と伝えられて、開山は行基が自ら彫刻したと言われる阿弥陀如来像が本尊になります。最初は像背山宮処寺といわれ、そこ後延暦年間(782∼806)に勅命を受けた伝教大師により、南宮大社と両部合体して寺号を南宮寺と改めた。関ヶ原合戦のさい南宮大社とともに兵火にあい焼失したが徳川家光の天下普請によって再建された。さらに明治代の始めに神仏分離によって解体のうけめにあったが、神
室蘭ー雪少ないと聞いていたけど、今年は雪の当たり年らしく積もってるウォークに使っていた公園、真っ白、凍結でしょう。また季節風が強烈であきまへんわ。帯広にはよつばアリーナってすごーい体育館があり、観客席通路を利用したウォークジョギングコースがあったのだけどそのレベルの体育館はなさそう・・やや運動不足が不安。札幌でチカホ歩きするのが小さな喜び?だったりしています。30日から毎夕歩いてまっせ。寒くないことはな
おはようございます先日の養老の滝『養老の滝』こんばんは「養老の滝」に行ってきました〜先月行ったのは「阿寺の七滝」『#休日のおでかけブログ①滝』おはようございます休みが少ないんです繁忙期ですから3日出勤…ameblo.jpこのあと関ヶ原に行きました〜「関ヶ原古戦場記念館」1階グラウンド・ビジョンシアター2階展示室戦国体験コーナー5階展望室ここから古戦場全体が見渡せました武将折り紙コーナーありました😀別館売店にて購入Tシャツレストラン
「90第八十八代後嵯峨天皇」今日は、関ヶ原合戦みなさん、おはようございます9月15日は本来の敬老の日です先代に感謝申し上げましょうそして関ヶ原合戦がありました第八十八代後嵯峨天皇土御門天皇(八十三代)の皇子土御門天皇は承久の乱の際土佐配流されましたが立場は中立でした執権の北条泰時によって天皇に選ばれたと言われます鎌倉幕府が皇位継承に干渉し始めました平家物語がつくられました最後までお読みいただきありがとうございました総裁
この日は、関ヶ原ウォーランドで開催されている『和傘物語』を見に行ってきました。関ヶ原ウォーランドは、関ヶ原合戦の両軍陣地や戦場を実物大の像などで再現しているテーマパークで、夏には、このようなイベントが開催されています。それにしても暑かった🥵🥵🥵
こんにちは、エルラです!なんとなく数ヶ月前から事務所が暗かったです。雰囲気では無く、物理的に暗い。見上げれば蛍光灯に不穏さが。エフ左衛門さんがカバーを開けてみると、元々そういう色?と思う位に、蛍光灯の端っこが茶色に変色しています。通りで暗いはず!!!本日に新しい蛍光灯がやってくる予定ですが、物流会社さんが間違った中継エリアに持って行っている様子。きょうはお天気で蛍光灯が切れかけていても明るいから、
<速報>昨日(4/20)、城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。どちらのお城も以前から登城したい山城で、「菩提山城」は昨年に「竹中氏陣屋」に行った際に、後方に見えた菩提山頂にあるお城は「羽柴秀吉」の軍師であった「竹中重治(半兵衛)」が居住していたお城とのこと、「松尾山城」は「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということで、いずれも興味津々の山城でした。「米原」でカーシェアによる車で
はじめましてご訪問いただきありがとうございます前回記事はこちら『【お正月旅行】リピ決定‼︎熱く語りたいお宿‼︎』はじめましてご訪問いただきありがとうございます前回記事はこちら『【楽天マラソン】購入品と探しているもの』はじめましてご訪問いただきありがとうございます前回記…ameblo.jp旅行2日目は急遽、近くにある関ヶ原合戦の地へ通ったことは何度もあるのに昨年の大河ドラマをみてたこともあり初めて足を止めてみました周りは山や田畑ばかりで何もないんですがあー、ここで大砲が…
石田三成は、佐和山城から関ケ原に向かった。「どうする家康」でも放映されていた。YouTubeを観て下さい。https://youtu.be/FjqtGVWbDVw佐和山城(石田三成が城主)私も関ケ原に行った。三成陣は、家康陣を見下げる場所にあった。負けたことを不思議に思った。三成は、秀才にある冷たさがあった。具体的には、人望がなかった。電車から観える、佐和山城の看板。佐和山城跡を登った。石田三成が城主の頃の面影はなかった。眼下に彦根城が観えた。関ケ原で負
関ヶ原合戦回とゆーことで2度目の関ヶ原古戦記念館に!前回こちらへお邪魔したのはちょうど1年前の同じ日だったと一緒に行った友人が申しておりました(まったく覚えてなかったまめみやよ。)1年前と今回では感じるものも違うし展示も変わっておりましたよ!!鎧兜!!ドラマで着用した衣装も♡♡本多忠勝役の山田くんサインもありましたよー。ズラリ並んだパネル。良き!!茶々様じゃなくて、お市様なのね。もはや信長様も武田様も懐かしいわ。展望室では布陣の確認ー笑もちろん食もね。徳川四天王パフェとゆ
「石田治部少輔三成は、にくからざるもの也。人それぞれその主の為にすと云ふ義にて、心を立て事を行ふもの、かたきなりとてにくむべからず。君臣ともに良く心得べきことなり」意訳すると、「石田治部少輔三成は、憎いとは思わない。人それぞれが主君のために尽くす義に拠って、心を奮い立たせ関ヶ原の戦いに臨んだ石田は、敵とはいえ憎むべき者ではない。昨今の武家の主従も、よくよくわきまえるべきことである」といったところでしょうか。光圀は、三成が豊臣家を守るために戦おうとする義の心を賞賛し
石田三成の次男重成と三女辰姫は、関ヶ原合戦後、津軽為信のもとに迎えられました。西軍の中心人物の子どもを匿うことは、それだけでも「徳川家康に逆心を抱いている」と疑いの目を向けられかねない危険な行為だったはずです。なぜ為信は、そんな危ない橋を渡ったのでしょうか。そこには三成への感謝があったようなのです。(津軽為信像)津軽為信は陸奥の南部氏の配下でしたが、津軽地方で独立を図り、豊臣秀吉の小田原征伐の折に、独立大名として秀吉に恭順します。ところ
石田三成には正室との間に、3男3女をなしたとされます。3人の息子たちは、関ヶ原合戦後に石田一族が籠城した佐和山城の戦いで、運命が変転しました。ただし、いずれも正確な年齢はわかりませんが関ヶ原合戦時に18歳であったと思われる長男重家と次男重成の人生をざっと長男重家関ヶ原合戦の前年(慶長4年1599)、三成が七将襲撃事件の騒ぎの責任をとって引退後、父に代わって大坂城に出仕、豊臣秀頼に仕えました。慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦時には大坂城にあり
『徳川実紀』には家康は七将に使者を派遣し「三成の旧悪は言うまでもないが、三成は既にお前たちの猛威に恐れて、伏見にまで逃れて来ている。それで、各々の宿意も達したと思われるので、ここまでにしてはどうか。穏便の処置こそ、望ましい」と説得したとあります。秀吉死後は、毛利輝元と四奉行(石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)を中心とするグループなどが形成され、家康を牽制する動きがあったとされます。この騒動は、毛利輝元を中心とするグループと、家康を中心とするグループとの対立が露
岐阜県関ヶ原町徳川家康武将印徳川家康武将印(関ヶ原)の切り絵武将印をget✨徳川家康と石田三成をイメージした武将印だそうです!西軍勝利の切り絵関ヶ原古戦場記念館で関ヶ原合戦投票が行われ、西軍勝利の切り絵です🏆👌関ケ原古戦場記念館関ヶ原古戦場記念館別館ショップへ関ヶ原に来るとワクワクします♡またまたご無沙汰してしまいましたが💦最後までご覧いただきありがとうございました🙇♀️
岐阜公園の中にある岐阜歴史博物館で10月7日から11月19日まで特別展が開催されていたので、お隣さんを誘って初日に行って来ました。特別展なので入館料は普段300円ですが、開催中は800円です。大河ドラマの「どうする家康」を観ているので、関連して興味深くみる事が出来ました。「天下統一」信長・秀吉・家康と岐阜をテーマに当館所蔵品を初め、市内のゆかりある寺や他県からの所蔵品も借り受けての貴重な物ばかり展示してありました。「美濃を制する者は天下を制す」と形容されるように、京都と
こんにちはSTKです。関東から愛知県に拠点を移してかなり経ちましたが、こんな素敵なお祭りあったんですね。今迄全く知らなかった。ネットで見つけた瞬間から行きたくてウズウズ。1日目に行ってみました!!大好きな磯田さんの講演あるも、事前予約・・・俳優さんから筋肉迄、カオスですが、結構な規模。本当は2日目の布陣パフォーマンス、全軍武者行列、関ヶ原合戦絵巻に行きたかったですが、天気悪そうなので、悩んで1日目チョイス。何故かどん兵衛のイベントが。って調べてみたら東西のつゆの分け目が、「関ヶ
教如上人が難をのがれ、潜んだ鉈ケ岩屋にいきました。かなり急な道を、下っていくと前方の右側が開ける。道しるべに従っていくと、谷の真ん中に大きな岩屋がありました。ここから前方を見ると、春日谷が一望でき捜索隊が春日谷に入ってくれば直ぐにわかります。ここを隠れ場所として、選んだ信徒の人々の思いがよく分かる様な気がします。狭い洞窟になって、今は小さな祠があります。この鉈ケ岩屋を後にし、国見峠まで下って峠に戻りました。すると朝方の伊吹山がキリに覆われていましたが、今は雄大で大きな山容を見ることができまし
春日の国見峠にいき、ここから教如上人の遺跡になる鉈ケ岩屋を目指しました。この国見峠から雄大な伊吹山が見れ、見晴らしがいいので時々来ています。又ここは伊吹山北尾根コースになるので、この峠から国見岳、北側の虎子山に登ったことがあります。今回は教如上人が関ヶ原合戦の前に、東軍の徳川家康の陣中見舞いに訪れ、帰路に西軍に襲われて難を逃れ、一時潜んだ鉈ケ岩屋にいきました。まず国見峠から国見岳への登山道を上がっていきます。しっかりした道で、植林された杉林の中を、上がっていき上がり切る手前を、左折してい
さてさて…大河のどうするは本能寺も終えて小牧長久手に突入するようですが…織田秀信の幼名、三法師ってさ…珍しいよなと思ってさ…当時は○○丸とか○○千代とかっていうのが多かったけど、三法師か…本能寺はどこでござる?…と思いながら調べてみたら…無事三歳を迎えたから(満二歳だけどさ)三法師ということらしい…法師というのは一寸法師みたいに子供の一般的な呼称らしい…三法師以前の名前はよくわかっていないらしく…三法師を名乗ってから清須会議だったのか…清須会議の後に三法師を名乗ったのかも
どうする家康を初回からしっかり見始めた息子は、どっぷり歴史に魅せられ、知ることが楽しくて仕方がない。大河ドラマ「どうする家康」-NHKNHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト。希代のストーリーテラー・古沢良太の手による、ハラハラドキドキ、スピード感あふれる波乱万丈のエンターテインメント!www.nhk.or.jp日本の歴史を、1冊、2冊目と買い始め、楽天でまとめて注文しました。でも、まだ9巻どまり。集英社コンパクト版学習まんが日本の歴史ソフトカバー(全20巻+別巻1セット)楽天市場
前回記事に続きまして「2023年夏美濃近江旅」と題して、7月中旬のドライブ旅の物語を紹介します。岐阜関ケ原古戦場記念館を訪問(本編)前回記事から訪問している「古戦場記念館」は2020年に開館しました。館内は非常にキレイだったね。今回は事前予約しておいた有料展示エリアを訪問します。有料展示エリアは事前予約無しでも入れそうでしたが、、、こちらは最初の展示の前にある待合室の画面。最初の展示「グラウンド・ビジョン」では予約者から先に入場して好きな場所を選べ
過日より「ブログの夏休み」を頂いておりましたが、このたび記事書きを再開いたしました。当面はお仕事で多忙のため、以前のように「2~3日に1回の投稿ペース」とはならないかもしれませんが、マイペースを守ろうと思います今回より「2023年夏美濃近江旅」と題して、7月中旬のドライブ旅の物語を紹介します。関ケ原町のうなぎ屋さんを訪問今回最初の目的地は岐阜県内。毎回判断に迷うのはルート選定です。「中央道ルート」「東名・新東名ルート」の2ルートあるのですが、直前にな
R5年7月22日(土)、10歳娘を連れて「第57回うわじま牛鬼まつり」見物に行った際、駐車場を「城・登山口」としたことから、ついでにと宇和島城・天守閣まで登ってみました。宇和島城は街地の中心部に位置する標高約73mの丘陵地に、初めて天守が建造されたのは慶長6年(1601)藤堂高虎築城の時とされており、上から見ると不等辺五角形の城郭は、高虎ならではの工夫が見受けられます。高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主、伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石を賜り、元和元年(1615)に入城。2代宗利