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「八本目の槍」(今村翔吾)七本槍とのエピソードを通じて石田三成の人物像を描く。今村翔吾さんの本は今回が初めて。面白かった。歴史小説は司馬遼太郎さんに偏り過ぎていたということもあり、新鮮な感覚で楽しめた。石田三成のイメージと言えば、頭脳明晰、忠義心が強い、官僚的、勇敢さに欠ける、人望は薄い、といったところか。本書で描かれる石田三成も概ねこのイメージに近く、冷静に分析して道理を重視した言動をしつつも、さりげない思いやりや優しさを見せたり、時に熱い感情を露わにする、なかなか魅
「小浜のあたりは元は滋賀県だった。広い意味で近江に含まれる。小浜市観光の目玉第一は焼きサバではなく、初様にしとくべきだった。関ケ原のあとで裏切者として有名になりすぎたのか。」確かに小浜(若狭)は古代~中世を通じて「近江国」の一部(若狭守護は近江佐々木氏)だったし、文化圏的にも「琵琶湖の向こう側」みたいな感覚が強いですよね。でも「焼きサバの街」になってしまったのは、まさにそれが京極初が全国区になれない最大の原因なんです(笑)。「裏切者ブランド」が致命傷になった説実は、江戸時代を
「常高寺はJRの踏切が門前にある寺ですね。観光に行き前をとおりましたがそんな由緒あるとは当時は知らなかった」そう、あのJR小浜線の踏切がガタンガタンと鳴るすぐ横にあるのが常高寺です(笑)。観光客はほぼ通らないし、普通に歩いてたら「ただの地味なお寺」にしか見えませんよね。でも実はあそこが、京極初の人生の終着点であり、彼女が最も誇りに思っていた場所なんです。常高寺に眠る「初の真実」5連発五輪塔が初の墓本堂の裏にひっそりある石の五輪塔が初本人。案内板には「常高院殿」としか書いてない
「大津で大津城の大立ち回りがあまり知られてないように、小浜でもあまり知られてないのか」まさにその通りです。大津城の戦いも、小浜での京極初の活躍も、どちらも「日本史の超重要エピソ�」なのに、一般知名度は壊滅的です。なぜ両方とも「知られていない」のか?共通の理由5つ理由大津城の戦い小浜での京極初1.勝者(徳川方)の歴史観で書かれた家康は「関ヶ原で私が勝った」がメインなので、大津城の功績をわざと薄くした幕府は「女性が城持ち大名」という前例を目立たせたくなかった2.負けた側(
「小浜へ観光に行ったけど初の話題は目にしなかったな」確かに小浜に行っても「京極初」の名前はほとんど表に出てきませんよね。観光パンフレットにも「大津城の女城主」「江戸時代唯一の女性城持ち大名」みたいな派手な看板は皆無です。でも実は、初が歩いた跡は小浜の街のあちこちに残りまくっているんです。ただ「京極初」と直接書いてないだけです(笑)。小浜で「初の痕跡」を見つける超穴場リスト場所初との関係(実は……)現地の表記は?小浜城跡(現在の小浜公園)初が晩年住んでいた城。城普請も初が主導し
「京極家の初はその後どんな人生を歩みましたか」京極初(浅井三姉妹の次女、1577~1634)は、大津城の戦いの後、**「戦国最強の女城主」から「江戸時代最初の女流大名(城持ち大名)」**へと、驚くほど華麗に転身しました。彼女のその後の人生は、戦国の姫の生き残り方として最高峰の成功例です。1600年以降の初の人生年表(簡潔版)年年齢出来事実質的な地位・暮らし1600)1600年24大津城開城→若狭国一国(9万2千石)へ転封夫・高次とともに国入り。実質的に国政の
「関ケ原の戦い当時の京極高次の妻となった初の行動を教えてください。」関ヶ原の時期の京極初(浅井三姉妹の次女)の行動を正しく整理します。1600年(慶長5年)京極初の動き日付初の行動・立場結果・影響7月夫・京極高次は大津城(近江6万石)主。家康から「西軍を阻止せよ」と密命を受ける初は夫の決断に最初から知っていた8月15日頃西軍(立花宗茂・小西行長・毛利元康ら13万)が大津城を包囲初は夫とともに籠城を決意。城内の実質的指揮官の一端を担った8月20日~9月9日大津城籠城
「豪姫の悲しい歴史は前田家のその後に影響しましたか」豪姫(ごうひめ、1592~1656)の悲劇は、前田家にとって「ただの悲しい家系のエピソード」では済まされず、**幕府に対する最大の“人質”であり、同時に“切り札”**として、江戸時代を通じてずっと影響し続けました。豪姫の生涯(超簡潔版)宇喜多秀家の正室(関ヶ原で西軍総大将)関ヶ原敗戦後、夫・秀家は八丈島流罪豪姫自身は前田家に預けられ、金沢で生涯幽閉同然の生活夫とは一度も再会できず、1656年に金沢で孤独死(64歳)前田家に
「利家のアドバイスもあり、利長はそのあたり完全に予想して動いてたのでしょうか。」前田利長は、ほぼ100%完全に予想していたと言って差し支えありません。彼は「関ヶ原で西軍に与したら家が潰れる」「かといって最初から東軍に与すると、母を人質に取られながらも加賀百万石は確実に削られる」という二重のジレンマを、1599年の時点で既に完璧に読み切っていました。利長が取った「綱渡り戦略」の全貌(時系列で整理)時期利長の行動本音・計算1599年4月利家死去即座に家康に恭順を示し、母親(
「三成が京都で処刑されたとき、西軍でほっとした人が少なくなかったのか。だとするとその効果を狙ってわざと目立つ場所を選んだことになる。」まさにその通りです。家康は三成(+小西行長・安国寺恵瓊)をわざと京都・三条河原で公開処刑したのは、**「西軍に残った大名たちを安心させるため」**という政治的効果を100%狙っていました。そしてその効果は抜群に出ました。1.西軍の大名・旧豊臣恩顧派が「ほっとした」のは事実毛利輝元→「三成が生きていたら、また俺たちを引っ張り出して戦わせら
「利家の三成への動くなアドバイスは秘密の忠告でしたか、家康だけでなく西軍の有力大名も実は知ってたりして。」実は、前田利家の「三成に決して動くな」という忠告は、かなりの範囲で知られていたと考えてほぼ間違いありません。完全に秘密だったわけではなく、むしろ「半ば公然の事実」でした。その根拠を順に挙げます。利家自身が複数の側近に同席させていた1599年2月、三成を京極邸に呼んだとき、利家は病床ながら・息子の利長(当時継承者)・家老の横山長知・奥村永福・さらには秀吉の側近の増田長
「利家は三成にどうアドバイスしてたのですか。決して動くなでしたか。」加藤清正・福島正則ら「武断派」7将による石田三成襲撃事件(1599年2月)の直後、前田利家は病床にありながら三成を自分の屋敷(大坂・京極邸)に呼び、直接会って「最後の忠告」をしています。そのとき利家が三成に伝えた内容は、当時の記録(『当代記』『前田家文書』『石田軍記』など)でほぼ一致しており、要約すると以下の通りです。「これから俺が死んだら、お前は絶対に動くな。大坂城に籠もるなり、佐和山に引きこもるなりして、一切表
突然ですが^、"関東と関西の境目はどこなのか?"という、昔からの論争^この"関"という語から、江戸期、最も厳しい関所として知られた箱根の関を境に、東は関東⇔西が関西、といわれる場合もありますが・今作にあたり調べてみると、"古来、東西日本の境"は、7世紀頃、律令国家の下で天武天皇の世に定められた、"古三関"ともいわれる、三重県の関、福井県の愛発(あらち)関、そして今作で訪ねる岐阜県の不破関を結ぶ線だったとされるそうですそして現在、"東西日本の境目"として一般的に知られる地は~
こんにちは!モヤモヤから脱出したいあなたを幸せに導くあなたの身近なライフコーチ、SEIKOです。コーチングをもっと身近に活用していただけたらいいな、という思いで、書いているブログです。いつも、NLP(実践的心理学)の学びや、NLPコーチングに関する、わたしの気づきをつづっております。・・・・・・・・・・・・・・・お問い合わせ・セッションお申し込みなど、公式LINEからどうぞ!※ID検索はコチラ「@461ivolj」・・・・・・・・・・・・・・・
歴史について私は物心ついた頃から祖父母が毎日時代劇を見ておりましたので、自然と時代劇ファンになり、朧気ながら日本の歴史はこうなんだなあと認識するようになりました。成長してからは日本史の特に戦国時代の書籍を見つけては読むことが楽しみになりました。段々と年を重ねてくると、本当に信用できるのは一次資料(同時代に書かれた資料)に記述されていることであり、二次資料(その時代より後に書かれた資料)以降の資料はフィクションもかなり入っており、一般的に知られている"歴史"は真実とは言えないことを
慶長五年九月十五日、関ヶ原。小早川秀秋は裏切らなかった。その一点で、歴史は変わった。「我が軍の勝利じゃ!」石田三成の声が戦場に響き渡る。徳川家康は命からがら、江戸へ帰った。三成は豊臣政権の執政となり、五奉行制を復活させた。だが、権力を巡る諍いは絶えなかった。西軍の諸将は恩賞を巡って対立し、やがて新たな戦乱の火種となる。小早川秀秋は英雄として讃えられたが、その心は晴れなかった。「あの時、東軍に寝返っていれば」と密かに呟いた。10年後、豊臣秀頼が成人すると
子ども頃からオカルト好きな私小学生の頃から占い妖怪心霊本など興味があって教室でタロットもやってました今は昔より興味がなくなりましたがわざわざ心霊スポットや心霊動画など信憑性が疑われるものもありそれらを見て気分や体調などが悪くなったりする必要ないかなと取り憑かれたりとかして運気が下がったりとか何か良いことありますそれなら神社仏閣巡りして神仏に接したほうが良いと思いますでも時々昔の心霊的な体験を思い出します忘れていることが多いのですが昨日温泉に入
「関ケ原の合戦のころから琵琶湖の水をなんとかしようとの議論が始まり、中心に徳川家康がいたことはあまり知られてないですね。家康は秀吉から伏見の治水をまかされてたのですか。」実は、徳川家康が琵琶湖・淀川の治水に深く関わったという事実は、歴史の教科書にはほとんど出てこない「隠れた超重要ポイント」です。家康と琵琶湖治水の関係(時系列)豊臣時代(1590年代)秀吉は伏見城を築いたとき、すでに巨椋池・宇治川・淀川の洪水に悩まされていた。→秀吉は家康に「伏見周辺の治水工事」を事実上丸投げし
今回はこういうお題でいきます。宇喜多秀家は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、豊臣政権の五大老の一人でした。関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、八丈島に流され生涯を終えています。元亀3年(1572年)、備前国岡山城主・宇喜多直家の次男として誕生。父・直家は「戦国の謀殺王」と呼ばれる策略家で、秀家はその死後わずか10歳で家督を継承します。幼少期から温厚で利発と評され、豊臣秀吉に気に入られ養女・豪姫(前田利家の娘)を正室に迎えました。このことが、八丈島に流されてからの
「関ケ原の戦いは、東と西の百姓同志の弥生時代からつちかった戦闘力をぶつけ合うこれ以上ない舞台であり、しかもこの世の行く末を決める戦いとがっちりわかってたでしょうから身震いしたでしょうね。」まさにその通りです。関ヶ原の戦い(1600年9月15日)は、表向きは「石田三成vs徳川家康」のイデオロギー対決ですが、実態は「西軍の百姓軍団vs東軍の百姓軍団」の、弥生時代以来の「水田を守るための殺し合い」の最終決戦だったと言っても過言じゃない。両軍の本当の戦力構成(推定)西軍総兵力:約80
琵琶湖畔、戦国の世は浅井長政の浅井家の居城、小谷城が琵琶湖を見下ろす山の上に。姉川の戦いにて織田信長に攻め滅ぼされ、小谷城もろとも浅井家は滅亡。戦功華々しかった秀吉がこの地を与えられ、湖畔に長浜城を築城。秀吉が初めて城を持つことに。やがて覇権を握って大阪を拠点に天下を納めるまでに出世するものの死去。配下の石田三成も湖畔の佐和山城を居城に。やがて秀吉亡き後、関ヶ原の戦いが勃発。戦に敗れ三成は敗走。佐和山城も焼き払われた。そして関ヶ原の戦いから4年後、徳川家に仕えた井伊家が彦根城の築城を始めた。もち
毎度お馴染み、月例の読書感想メモでございます。『シン・関ヶ原』(講談社新書2791)著者:高橋陽介今月も同じく講談社新書。但し、戦国モノで内容はかなり斬新です。簡単に言えば、これまでの通説をひっくり返す系の書籍になります。しかも、筆者が想像を逞しくして・・という訳ではなく、徹底的にいわゆる一次史料(当時の書簡など)を徹底的に使って分析をした形式になっています。より具体的には「家康は関ケ原(の合戦)の前から既に天下人だった」「石田三成が首謀者ではない」等の新説
米子市の加茂川沿いの風景…このエリアは、その昔、米子港への水路として栄えた「商都」の面影を残す歴史的な街並みです。そのような最中に、江戸時代に海運業で華やかに栄えた「回船問屋後藤家」現在でも加茂川の京橋のたもとには、切妻屋根に本瓦、千本格子に家紋入の白壁…その繁栄を今に伝える邸宅跡として、重厚な造りが当時の姿のまま保存されています。そもそも後藤家とは、江戸時代に藩の米や鉄の回漕の特権を与えられた有力な回船問屋として栄えました。建物は江戸中期(主屋・一番蔵)から江戸後期(二番蔵)にか
⚔️関ヶ原の戦い―天下を二分した一日の決戦🏯1.天下分け目の関ヶ原―その舞台は霧の中に1600年(慶長5年)9月15日、美濃国・関ヶ原(現在の岐阜県関ケ原町)に、全国の大名が東軍・西軍に分かれて集結しました。わずか一日で日本の未来が決まった――そう呼ばれるのが「関ヶ原の戦い」です。⚖️2.背景―豊臣政権の綻びから始まった“主導権争い”🌅豊臣秀吉の死(1598年)天下を統一した豊臣秀吉が亡くなると、政権は「五大老」と「五奉行」という合議制に移りました。五
さて、雑誌「歴史街道」から。歴史街道2025年12月号(特集1「真田一族と関ケ原」)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}父、真田昌幸と、その子、信幸、信繁(幸村)について。個人的に、真田昌幸の嫡男は、長男である信幸だと思っていたのですが、この本の記事によると、どうも、違うようですね。沼田城を任された真田信幸は、父、真田昌幸から独立をし、一人の豊臣大名として認めれられていたそうですね。そして、真田昌幸は、自身の上田城を、信繁に譲るつもりだっ
毛利元就今回はこういうお題でいきます。さて、毛利元就は、戦国時代に中国地方をほぼ統一した知将であり、弱小領主から一代で大勢力へと成長させた人物です。1497年(明応6年)安芸国(現在の広島県)に生まれ、1571年(元亀2年)75歳で死亡。これは当時にあってはひじょうな長命ですね。父は毛利弘元、母は祥室妙吉。子には毛利隆元、吉川元春、小早川隆景など。有田中井手の戦いで初陣を飾り勝利。これが毛利家躍進のきっかけとなります。尼子氏や大内氏といった強大な勢力を相手に、調略や同
家康の第11男:水戸徳川家藩祖「徳川頼房」像です。薬医門(水戸第一高校)から少し下ると「柵町坂下門」があり、其処に建っています。家康は、関ヶ原の戦い後に生まれた第9男:義直に尾張62万石を、第10男:頼宜に紀州55万石を、第11男:頼房に水戸35万石を与え、徳川御三家とし、「将軍家に人無きときは」本家を継ぐこととしました。ただ、水戸徳川家頼房の場合、紀州頼宣の同腹弟だったので、御三家とは言うものの、石高は尾張や紀州の半分。極官も(尾張と紀州は大納言に対し)中納言と、一段低く扱われ
徳川家康が「侵略から解放した」という主張に対する批判と物証の完全リストの検証前回の回答は、2025年11月26日現在までのDeeperSearch(web_search,x_keyword_search,x_semantic_search,browse_pageの結果)に基づき、徳川家康の「侵略から解放した」という主張(主に関ヶ原の戦い後の内乱終結、朝鮮出兵後の混乱収拾、鎖国による外来脅威排除)を批判的に分析したものです。この主張は、家康を「平和の創始者」として美化する通説(例:山岡荘八
にほんブログ村なんか数年振りに久し振りにDTM(=パソコンを使って行う音楽制作の総称)で作曲ごっこ作業をしてます。実に芸大生の頃以来です。なんかもうMIDIを操作するのがリハビリ感覚。なんやねんこれ。あかんwwwなんかMIDIでええ加減に打ち込んだ音が、暫く放置してもっぺん聴いたら案外ええ感じに聴こえるのなんなんwww作曲って、ああしよこうしよって、計算されたところから生まれるもんちゃうねん、きっとなwwwところでさぁ、みんな何を思ってこの乱世の時代に生まれてきたねん。この生き
水戸城大手門が、綿密な調査のもとに復元されています。門の寸法や建物の意匠を含め、現存する古写真、絵図などの史資料などを調査研究されました。構造:木造2階建て建築高:13.34m建築面積:158.28㎡延床面積:118.79㎡屋根:入母屋造り外壁:1階(板塀)、2階(真壁、竹小舞下地、上漆喰塗り)開口部:1階(門、潜り戸)、2階(連子窓)「大手門」は、水戸城正門で、最も格式高き門です。佐竹氏が水戸城主だった慶長6年(1601)頃に建てられ、その後、何度かの建て替え