ブログ記事436件
関ヶ原古戦場記念館〜最近出来た⁇映像がスゴイ‼️行って見てよかった😸😸😸周りを散策している人いっぱい〜私も、いろいろ散策したかったけど、本日の行くべき所がある〜ちなみに入場券は石田三成でした〜大一大万大吉か好き〜↑↑↑キャンペーンで三色ボールペンとマグカップを頂く〜↑↑↑コレが行きたかった〜伊吹山ドライブウェイ新月の日に空いっぱいの星⭐️⭐️⭐️が見てみたい‼️今まで2年連続で曇り☁️☁️☁️星⭐️⭐️⭐️見えず😭😭😭今までは8月に来ていたの
伊集院光100年ラヂオで、2週にわたって架空実況中継関ケ原の戦いを聞きました。昭和30年代の放送でしたが、関ケ原の戦いの様子を実際に側で実況中継してるように放送するところが、アナウンサーの技量が分かるなと思いました。また、面白いと思ったのは、勝敗がついたあと、石田三成、徳川家康両方にインタビューするというのがあり得なくて面白かったです。しかも、石田三成役を石田三成を書いたことがある作家が、徳川家康役を徳川家康書いたことがある作家がそれぞれ担当したのがへぇと思いました。ま、声優でもアナウンサー
奥羽の英雄【最上義光】最上義光は、東北の関ケ原の戦いで家康の東軍に就きました。西軍の直江兼続の軍を退けた功績で、五十七万石の大大名になりました。実質の石高は、百万石を越えるとも言われていました。石高だけでも全国五番の大きさを持ちました。凄い武将ですね~・・・その割には、知名度が低いですね・・・そんな山形の英雄の【最上義光】の馬上の銅像です。馬が立派過ぎて、殿様の顔が拝めません・・・
こんにちは🍀昨日の記事からの続きです✍️関ケ原の戦いは現在では9月15日で、旧暦では10月21日となります。ですのであと12日でその日!!!岐阜関ケ原古戦場記念館から笹尾山の石田三成の陣跡へ向かう途中です。途中で古戦場記念館の展望室からも望めました、決戦地に辿り着きました。関ケ原合戦で最も戦いの激しかった場所だといわれています。ここから石田三成の陣跡も近くに見えます。笹尾山の麓へ来ました。島左近の陣跡です。ここから山を登りまして石田三成の陣跡へ辿り着きます。その陣
今日は岐阜県、谷汲山華厳寺へ。多くの人は、この寺を33寺目(最終寺)として全寺制覇(満願)とするのですが、いろいろとスケジュール等を勘案して、あと2寺残して、今日行ってきました。JRを大阪~京都~米原~大垣と乗り継ぎ、大垣からは樽見鉄道にて。思った以上のローカル線で、こちらの谷汲口駅で下車。メチャクチャ、のどかな風景です。当然、無人駅。これぞローカル線の駅、って感じですね。土日祝や紅葉期間中などは、コミュニティバスが(少ないながらも)出ているようですが、生憎、平日は
こんにちは🍀名古屋駅からJR東海道本線で関ヶ原駅へ行きました🚉関ケ原駅前観光交流館いざ!関ケ原にて史跡めぐりの地図や情報を得て出発します!👆今日はこのコースを歩こうかな♪念願の初訪問!岐阜関ケ原古戦場記念館です\(^o^)/!!佐官の挟土秀平さんの作品に圧倒されました!挟土さんの作品で私が真っ先に思い浮かぶのは大河ドラマ「真田丸」のオープニングです。当時の群馬・沼田の大河ドラマ館でオープニング撮影に使用された本物を見たことも良い思い出です✨この日は滋賀県からのお客様も
慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いと呼ばれる「関ヶ原の戦い」は、西軍10万人・東軍7万人の兵力の激突ながら僅か6時間で決してしまいます。最初の布陣では有利な立場のようにみえた西軍が破れたのは“西軍から東軍への裏切り”や“戦への不参加”によって兵力差が逆転したことによるとされます。大名たちにとってはそれぞれに複雑な利害関係があったと思われますが、戦の大義云々よりも領地安堵が第一だったのかもしれませんね。「岐阜関ケ原古戦場記念館」では9月15日の『関ケ原合戦の日』イベントの一環として「
関ヶ原の合戦が始まります。関ヶ原の戦いとは、慶長5年9月15日に、美濃国関ヶ原で行われた日本の歴史上最大の野戦です。豊臣秀吉の死後、次の天下を狙う徳川家康(東軍)と、豊臣政権を守ろうとする石田三成(西軍)が激突し、全国の戦国大名が二つに分かれて戦ったことから、「天下分け目の戦い」と呼ばれています。当日の午前8時頃に霧の中で開戦し、午前中は宇喜多秀家隊や石田三成隊の奮戦によって、西軍有利、そして、一進一退の激戦が続きました。小早川秀秋の寝返りと毛利勢の不参加により、西軍の防衛線は一気に崩壊
関ケ原の戦いで負けた毛利家が長州藩、島津家が薩摩藩、長宗我部元親(「戦国BASARA」で知ったけど斬首されてしまうのか…)に代わって領地を継いだ山内一豊の領地が土佐藩となるとは…そう考えると歴史は面白いなと思う。後にこの3藩の出身者達が江戸幕府を倒してしまうことになるのだから。
関ケ原合戦の日(9月15日記念日)岐阜県不破郡関ケ原町に事務局を置き、観光客が来て見て楽しめるまちにするために関ケ原の魅力的な情報を発信する一般社団法人・関ケ原観光協会が制定。日付は「関ケ原合戦」が始まった慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)から。安土桃山時代に東軍と西軍に分かれて行われた大規模な合戦で、「天下分け目の戦い」としてその後の日本の行く末を決定した「関ケ原の戦い」。記念日を通して関ケ原合戦が行われた日を広く世間に知ってもらい、この歴史的な転換日を関ケ原の地域
南宮山から家康の本陣を狙撃すれば、ワンチャン関ヶ原での勝利があるかも?!ちなみに「恵瓊」は「えーけい」ではなく「えけい」です。
退き口仁義三河雑兵心得拾八井原忠政著双葉文庫720円元百姓で足軽上がりの植田茂兵衛が徳川家康配下で天下統一まで上り詰める物語。関ケ原の戦いで西軍を総崩れに追い込んだ直後だ。西軍の島津軍は関ケ原では特に戦闘には加わらなかったが総崩れする味方を見て敵中突破の退却戦をしかけてきた。主君家康の鼻先を掠めて突破する退却に激怒した家康が島津義弘の首をとってくるように厳命する。退却する島津軍を猛追する徳川の中に茂兵衛はいた。徳川の猛追を必死でかわす島津隊はどうにか逃げおおせ
9月1日ホテルをチェックアウトして向かったのは関ケ原ウォーランド天下分け目の関ケ原にある合戦場を再現したテーマパーク200mの風鈴トンネル🎐6.000個の風鈴等身大の武将人形が280体もありシュールな世界和傘物語通年開催300本以上の和傘和傘物語×千成ひょうたん祭り巨大ひょうたんにビックリ!!信楽焼巨大風鈴豊臣秀吉公の出世伝説「千成瓢箪」にちなみ金・白・赤・紫・緑・黄のひょうたんが展示されてました。色ごとの勝負運・金運・開運等願いが違うみたい
泉秀樹の歴史を歩く家康人生最後の砲撃番組では「1600年3月16日、三本マストの南蛮船が豊後の海岸に漂着した。それが、ウィリアム・アダムズが乗っていたリーフデ号であり、生き残りの一人、だった。その後、アダムズは、大坂城西ノ丸で家康と謁見。その後、江戸・隅田川に回航させ、その間に積荷を没収した。そして、会津の上杉討伐に同行させたが、石田三成が兵を挙げた情報が入り、それを中止し、家康は西へ返った。関ヶ原の戦いである。このような流れでアダムズも同行したのでは?と
こんばんわ。今日はね、1日、盛大にやらかしました。もはや、体力が残っていません右往左往、4キロを2往復。慣れないこと、しちゃダメね。アラフォーの荒んだ日曜日日記はまた今度書きますね。ひとまず、旅ブログの続きを置いておきます『中部夏旅①台風と追いかけっこ。』こんにちは。基本は東北旅をかき切ってからと思っていたんだけども。リアルタイムも挟んでおきます春休みはちょろっと顔を出しただけだったので。GWは試合三昧だったし…ameblo.jp『中部夏旅②念願の福井。恐竜前編。』こんばんは。復
豊臣秀長ゆかりの地・名古屋中村と大垣関ケ原への旅④豊臣秀長ゆかりの地めぐり・名古屋中村へ日帰り旅行に行ってきました。最終話です。大垣からさらに電車を乗り継ぎ、関ケ原に伺いました。大垣城、郷土館の記事はこちらをご覧ください。(記事はこちら→)おおよそ乗車時間は15分程で到着です!戦国歴史ファンとしては、この地に来るとテンションが上がります!以前に伺い激戦地を回りました。その際の記事はこちらをご覧ください(こちら→)『天下分け目の地関ケ原真夏の日帰
石田三成パフェランチに訪問♪『伊吹庵』この日は愛知と岐阜へ史跡巡りの日帰り旅♪ランチは岐阜関ヶ原古戦場記念館に隣接する、「伊吹庵」さんで頂き、食後のスイーツを頂きます♪ランチの「戦略武将カレー」を頂いた記事はこちらをご覧ください。(記事はこちら→)スイーツはランチ提供場所の後方の専用のカウンターで販売が行われています。メニューはこちら。カヌレ、パフェなど戦国武将にちなんだスイーツがずらり!商品にちなんだ一言が素敵すぎてテンション上がりまくり!
戦略武将カレーランチに訪問♪『伊吹庵』この日は愛知と岐阜へ史跡巡りの日帰り旅♪ランチは岐阜関ヶ原古戦場記念館に隣接する、「伊吹庵」さんで頂きました。日帰り旅を計画するにあたって、ランチで立ち寄りたかったお店!美味しいランチを頂く事が出来て嬉しいです♪-^-^-^-^-^-^-^-岐阜関ヶ原古戦場記念館にて展示やシアター映像を楽しんだ後に訪問、先にランチから頂きます。戦国武将や関ヶ原の戦いをイメージしたユニークなメニューがいろいろ♪盛り付けも凝っていて気持ちが高ぶ
西門です。本来は存在しなかった模擬門です。西門に沿って長塀があります。「金森吉次郎の像」があります。一生を治山治水事業に捧げ、「大垣輪中の恩人」として称えられています。麋城の滝です。大垣城の南側にある人工の滝で落差は約6メートルで、周囲の自然や石組みと調和した景観が魅力となっています。大垣市の「水の都」らしい、涼しげな水音を楽しめる観光の穴場スポットです。東門に戻ってきたのでいよいよお城に
ご覧いただきありがとうございますいつも遊びに来ていただきありがとうございますとても嬉しいです4月に訪れた長浜今期の大河ドラマ「豊臣兄弟!」で盛り上がっております3施設共通券(大河ドラマ館・義と絆館・大通寺)道の駅「浅井三姉妹の郷」に立ち寄った際に購入しておりました『FYOP+ツアー★サンドーム福井遠征プチトリップ③』ご覧いただきありがとうございますいつも遊びに来ていただきありがとうございますとても嬉しいです最近ディズニーから遠ざかっている
いつもお付き合いくださり、ありがとうございます。猛暑の名古屋、最悪の季節がやってまいりました。一位じゃないと猛暑の有名な地域に後れを取ってるようですが、とんでもないです。いっつも暑いのが名古屋です。アスファルトの道路に卵を落としたら、絶対に目玉焼きができるって思う。笑それくらい暑いのが、名古屋の中心街です。それもあるのか、名古屋市民は地下街ばかり歩ていますよ。こんな季節になる前、6月はちょっと寒いくらいの日が続きました。歴史探索をして街歩きした記録を残していこうと思
白峰旬「徳川家康の「問鉄炮」は真実なのか」渡邊大門『戦国史の俗説を覆す』所収関ケ原の戦いにおいて、徳川家康が、寝返ると約束しておきながら態度の煮え切らない小早川秀秋に鉄炮を撃ちかけた話。なかったらしい!?東軍・西軍による一進一退の攻防が続く中、家康が業を煮やして秀秋に鉄炮を撃つ。慌てた秀秋が布陣していた山を駆け下り大谷吉継の陣へ突入。これで一気に東軍の勝利に決したというのが定説だったはずだが。著者によると、秀秋は朝イチくらいに大谷吉継の陣に突っ込んだら
光成準治「毛利輝元・吉川広家・安国寺恵瓊の関係と関ヶ原の戦い」渡邊大門『戦国の俗説を覆す』所収関ケ原の戦いにおいて、毛利方は西軍についていた。毛利輝元に至っては、西軍の大将であった。しかし、輝元は大坂城を動かず。関ケ原に臨場した吉川も動かず。吉川が動かなかったため、安国寺は身動きがとれなかった。なお、吉川は、東軍に寝返る動きを活発に行っていた。結果、毛利氏は領地削減。吉川は主家の領地削減にあい、当初の目的を果たせず。安国寺に至っては斬首・・・。誰も得をしなか
NHK大河ドラマ豊臣兄弟・第23回「さらば半兵衛」その後について。松寿丸は成人して黒田長政と名乗りました。実は竹中半兵衛にもすでに息子がおり、元服して竹中重門(たけなかしげかど)と名乗りました。2人は紆余曲折ありましたが、慶長五年(1600)関ケ原の戦い本戦では、ともに徳川家康率いる東軍となり、丸山(岡山:おかやま)狼煙場に陣を置いて奮戦します。ちなみに定説では、ここで開戦の狼煙(のろし)を上げたのが、黒田長政です。NHK大河ドラマ#豊臣兄弟・第23回
大河ドラマ「豊臣兄弟!」での竹中半兵衛(菅田将暉)の見せ場が佳境を迎えている中、半兵衛が居城を構えていた岐阜県垂井町では「戦国武将甲冑特別展」が開催中です。竹中半兵衛(重治)は、美濃の国主・斎藤氏に仕えた後に羽柴秀吉の軍師として活躍し、黒田官兵衛と共に“二兵衛”と称された人物です。「その容貌、婦人の如し」と記されているという半兵衛は、秀吉に従軍した播磨三木城の包囲中に病に倒れて36歳の短い生涯を閉じたといいます。竹中家はその後、息子の重門が家を継ぎ関ケ原の戦いでは東軍として戦い、江戸時代
NHK-Eテレの「木村多江のいまさらですが……」という番組で「女性の生き方」から観る戦国時代というのをやっていましたね。お市の方の次に寧々と茶々について。(続きです。)京都の寧々、大坂の茶々。しかし、関ケ原の戦いで、家康が勝利すると、(家康の)協力者に豊臣家の土地が分配され、次第に茶々と家康の溝が深まっていきます。その溝は家康が秀頼に上洛を求めた時、茶々が豊臣家の立場を守る姿勢を崩さなかったためにさらに深まり、
GWに企画した城めぐりでしたが雨が邪魔をして大幅な予定変更。予定では小牧山城→岩村城(→時間があれば苗木城)でしたが、雨雨雨。巡ったのは岩村城(100名城スタンプだけ)→竹中重門陣屋跡・五明稲荷神社→関ケ原古戦場記念館でした。最後に訪問した関ケ原古戦場記念館です。ここは前に関ケ原を訪問した時にはまだ存在していなかった記念館。初めての訪問となります。あちこちに戦国武将の家紋。萌えます撮影不可の展示が多い中数少ない撮影可能だった写真をどうぞ
九州の関ケ原「母里太兵衛と黒田家①黒田24騎と黒田8虎」「母里太兵衛と黒田家②播磨国姫路の時代」「母里太兵衛と黒田家③秀吉の時代」「母里太兵衛と黒田家④文禄の役」「母里太兵衛と黒田家⑤黒田節の成立」「母里太兵衛と黒田家⑥名槍・日本号と慶長の役」の続きです。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去したことによって日本軍は朝鮮半島から退却し、明国・朝鮮国との戦いは終結した。秀吉の側室・茶々(淀殿)が産んだ5歳の幼い秀頼が、伏見城から大坂城に移り豊臣政
2月22日賀茂下上社へ参拝の後は岐阜へ移動。わたくしにとっては初の岐阜✨こんなに早く岐阜に訪れる機会があるとは思ってもみませんでした♪宿泊したのは大垣市♡翌日の朝に地元出身のお友達にご案内いただき、大垣城と周辺の神社を参拝しました!まずは大垣城です🏯大垣城は牛屋川を天然の外濠に取り入れた要害堅固な平城で、天文4年(1535)に宮川安定氏によって創建されたと伝わります。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、石田三成はこの大垣城を西軍の本拠とし関ヶ原へ出陣。壮絶な攻防戦が繰り広
2021年7月下旬の関ヶ原散策の続き。「石田三成陣跡」「島左近陣跡」である「笹尾山」と「笹尾山交流館」を見学した後は、「島津義弘陣跡」に向かいました。石田三成陣跡・島左近陣跡・笹尾山・笹尾山交流館のレポhttps://ameblo.jp/indyaki12/entry-12878588818.html『石田三成陣跡・島左近陣跡・(笹尾山)と、笹尾山交流館と~岐阜県不破郡関ケ原町の史跡』2021年7月下旬の関ヶ原散策の続き。「黒田長政陣跡」「竹中重門陣跡」でもある「岡山