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織田信長・羽柴秀吉・徳川家康の3人が描かれていることもあってか小学校の教科書にも載っている『長篠合戦図屏風』。日本の義務教育を受けた人が想像する長篠合戦の姿は、恐らくこの図の影響を少なからず受けている事でしょう。俗に「三英傑」と言われる信長・秀吉・家康が甲斐の戦国大名・武田信玄の後継者勝頼を破った合戦ということもあり、これまでも数多くの歴史小説・ドラマなどで描かれてきた合戦ですが、『究極超人あ~る』作中の説明にもあるとおり「鉄砲を効果的に使った織田・徳川連合軍が武田騎馬軍団を破った」
決死の覚悟で闘いに臨むかそれとも準備万端で完全勝利を掴むか心は決まりました今回のふどうの森トレイルランはDNSでこの一戦が最後と言うなら前者ですがこれからも走りたいのでここは後者で今朝の脚の状態は※だってまだこんなですからほぼ痛みは無いですが違和感痛みのタネと言う感じ走れば痛みが発芽するのは明白今は戦う時では無いと判断しました来年完璧な状態で次回こそリベンジします
ー2024年4月29日ーいよいよ最終日。。今日中に神戸まで帰らなくてはです!昨晩の話。。。東名高速で最初に出会ったSAかPAで宿泊しようと言ってたのですが·····何を間違えたか変な所で高速道を降りてしまい仕方なく目についた道の駅でそのまま車中泊をしてしまった俺達です。。で、例のごとく朝早くから目が醒めました。トイレの帰りに案内板を見るまで自分達がどこで泊まったのかすら判ってないのに·····(苦笑)(^.^;)こ
(長篠城遠景三方が宇連川・豊川の断崖となっている)かつての同僚デカちん氏とのセンチメンタルジャーニー初日の目的地は長篠合戦古戦場。朝5時過ぎに家を出て待ち合わせの豊橋に向かった。『最後のセンチメンタルジャーニーどこへ行こう』(長篠合戦古戦場織田・徳川連合軍の馬防柵跡)昨年、一昨年と東北でお世話になったかつての同僚デカちん(注:全体にデカいので私がそう呼んでいるだけで身体の部…ameblo.jp待ち合わせ場所はグーグルマップで調べて駅前のシャレた感じの喫茶店にした。
(長篠合戦古戦場織田・徳川連合軍の馬防柵跡)昨年、一昨年と東北でお世話になったかつての同僚デカちん(注:全体にデカいので私がそう呼んでいるだけで身体の部分的な特徴を強調しているものではありません)氏。『みちのく食い倒れ紀行①祭畤(まつるべ)温泉「かみくら」へ』待ちに待った東北旅行の日がやってきた。まずは吉祥寺アトレの惣菜店で弁当を買う。かつては駅弁といえば「牛肉どまん中」一本槍だったのだが、最近冷たいご飯+…ameblo.jp(2023年2月の東北旅行)その後デカ
愛知県新城市で開催の長篠・設楽原歴史検定を受けて来ました!これは天正三年(1575)に起こった武田軍と織田徳川連合軍の長篠合戦に関する検定問題。この様な検定試験って有意義だと思う。その理由は検定受けるために勉強するし、その知識が城巡りや戦国史跡めぐりに活用できるから。今回の問題は初級でしたが、落とすというより歴史を楽しめる内容で良かったです。来年も受けたい。あと私の感想ですが、今回会場になった新城市は名古屋市から少し遠いです。だから名古屋市に会場があれば、名古屋市とか岐阜県、
2023年05月05日(金)晴れ愛知県新城市の長篠城址(ながしのじょうし)では毎年盛大に長篠合戦のぼりまつりが開かれる。昔この地であった織田・徳川連合軍VS武田軍による有名な長篠の戦いをしのぶお祭り。そのメイン行事の合戦行列に出てみようと一度だけ2011年に下見に行ったことがある。その時はそれきりにしたがこの前またNETで募集要綱を読んでやりたくなった。募集は武将役15人姫役4人、武将役は男女問わず市外の人もOK。条件は約10kgの装束を身につけて2km歩けることだけだ。やりたい役へ
なかなか集客が厳しかった軍談倶楽部の派生シリーズは雨模様にもかかわらず予想に反して50名の大入でした。一龍齋貞太/講談「笹野名槍伝狒々退治(ひひたいじ)」神田伊織/講談「長篠合戦勝頼公出陣~長篠籠城戦」宝井梅湯/講談「石山軍記第一次石山合戦·水攻め」一龍齋貞橘/講談「長嶋茂雄引退試合」故一龍齋貞水先生が昭和49年に笑点に出演された時に掛けた7分の新作講談。前半はプロ野球四方山話をスケッチブックを使いながら面白可笑しく♪お仲入り田辺銀冶/講談「小牧山合戦
板尾創路親友が明かした貧乏芸人時代の“愛食”に「懐かしい。今でも思い出す」スポニチSponichiAnnex芸歴36年のお笑いコンビ「130R」板尾創路(58)が、18日深夜放送のABCテレビ「なるみ・岡村の過ぎるTV」(後11・17)に出演。同期の今田耕司(55)、東野...福井と岐阜「戦国時代」観光ルート形成へ両知事が連携方針(北陸新幹線で行こう!北陸・信越...Yahoo!ニュース戦国時代」を共通コンセプトに、広域観光ルート形成や相互誘客に連携し
トイレ🚻休憩😍✋✨長篠設楽原パーキングエリア🅿🅿ガラガラ😅😅おやつ😜😜ずっと、ソフトクリーム🍦🍦食べたかった~⤴️⤴️長篠合戦ソフトクリーム🍦🍦…ネーミングの謎😓😓上にパチパチするヤツが乗っとるけ、それば戦いで表現しとると⁉️⁉️分からんばってん、まぁ良いたい🤣🤣
種(種子島銃)がインポート(ポルトガル)され一騎討ち・名乗り以(1)後(5)止(4)さん(3)種子島に漂着したポルトガル人により,日本に鉄砲が伝えられた・鉄砲伝来について日付1543年8月25日場所種子島呼称鉄砲・種子島・種子島銃特徴先込め式の火縄銃経緯1543年種子島に漂着したポルトガル人から種子島時(とき)堯(たか)が鉄砲2挺を2,000両で買い取った1544年ポルトガル人が再来航,指導を仰ぎ,鉄砲の使用法・製法を家臣が身に付けた
5月19(水)のNHK歴史探偵は【長篠の戦い】武田軍VS織田・徳川連合軍が戦った愛知県新城市に残る合戦です。予告動画見てるとキーワードは火縄銃。長篠合戦については、【長篠設楽原】(ながしのしたらがはら)合戦と名称が変わるなど、近年の研究で変化が見られます。火縄銃の三段撃ちは無かった、また3,000丁も火縄銃は無かったというのが定説になってきてますが、今回、新しい話は聞けるのか?放送は5月19(水)午後10時30分~詳しくは公式サイトからチェック!>>NHK歴史探偵公式サイト・・・
天正三年(1575)年に起こった織田・徳川連合軍と武田軍が戦った長篠合戦。(長篠設楽原の戦い)。この時、落城寸前だった長篠城の救援を信長と家康に知らせたのが鳥居強右衛門(とりいすねえもん)でした。彼は武田軍に捕らえられ、籠城する長篠城の兵に『援軍は来ない』といえば命を助けるといわれました。しかし逆に『援軍は来るから頑張れ!』と励まし、武田軍に処刑されたのです。日本100名城にも認定されている長篠城周辺では、城主だった奥平さんより、鳥居強右衛門のほうが有名だし英雄なのです。しかしそんな
織田信長と武田勝頼が戦った長篠設楽原の戦いで一躍有名になった鳥居強右衛門。長篠城は現在の愛知県新城市(しんしろし)にあるので、普通に考えると新城市の人物だと思いがちです。しかし彼は長篠城がある愛知県新城市ではなく、お隣の豊川市出身なのです。どういういきさつで、長篠城主の奥平氏に仕えたのかよくわかりませんが、生まれ故郷から少し離れた長篠城で活躍したわけですね。そんな鳥居強右衛門の生誕地と伝わる場所には鳥居強右衛門勝商生誕地の石碑が建っています。あまり知られていない史跡なので、鳥居強右衛門
/2小刀根トンネル(敦賀市刀根)国内最古、D51設計に影響/福井毎日新聞...長浜側は1キロに25メートル登る急勾配の柳ケ瀬トンネルが、北の今庄(現南越前町)側にも同じ勾配の山中トンネルなどが控え、強力な機関車が必要だった。【富山】舟橋村長選40年ぶり選挙戦へ古越前副村長が出馬表明中日新聞来年一月に任期満了となる富山県舟橋村長選で、前副村長の古越(ふるこし)邦男氏(67)が一日、設立した後援会で「誰もが安心して生活できる村にしていき...在宅勤務で悟った。嫌いな人
今日は,長篠合戦の決戦の日である。1575年の新暦6月29日(旧暦では天正3年5月21日)早朝六時過ぎに,家康の家臣酒井忠次の別動隊4000が武田の鳶巣山砦を急襲し,長篠城の救出に成功した。これにより,武田勝頼率いる本軍は,挟み撃ちにされる形勢に追い込まれた。この別動隊は,徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2,000ほどを選び,信長の旗本鉄砲隊500と金森長近ら検使を加えた約4,000で編成された(『信長公記』)。別働隊は,昨夜10時過ぎに密かに正面の武田軍を迂回して豊川を渡り、山中を
1.天正3年(1575)4月5日武田勝頼は15,000の兵を率いて甲府を出立し、長篠城奪還を目指して奥三河に進攻した。2.5月1日、本営を医王寺に置き、兵5,000を配し、大通寺には武田信豊(信玄の弟)、真田信綱らが布陣。箕原、岩代川辺には穴山信君、小山田昌辰らが備え、(医王寺Wikipediaより)3.豊川を隔てた鳶ヶ巣山に武田信実ら250人の兵、姥ヶ懐に光枝守友350余人の兵を配して長篠城を包囲した。4.徳川
鷹・甲斐、今季からノムさんの現役時代の背番号に「この19番を直接見せたかった」サンケイスポーツプロ野球の南海(現ソフトバンク)で戦後初の三冠王を獲得するなどいずれも歴代2位の通算2901安打、657本塁打を放ち、監督としても歴代5位の通算1565勝...トチノキの実縄文時代早期も食べていた?北相木・栃原岩陰遺跡から「食べかす」信濃毎日新聞1万年前の縄文人もトチの実を食べていた?縄文時代早期(約1万1千〜7千年前)の遺跡として知られる南佐久郡北相木村の国史跡「栃原岩陰遺跡」で
1月26日この日は静岡へ個人宅へお志事🚙帰りは新東名を通り下り長篠設楽原SAに寄りました。⬇️下り長篠設楽原SAこちらのSAからは戦国時代の長篠合戦の時の織田信長陣に直接行けます。⬇️信長陣跡陣跡には稲荷神社⛩があります。夜なので上まで行くのやめましたエリア内では火縄銃を売っていますよ戦国時代好きにはたまらないSAですね興味のある方はまた寄って見て下さいね。
元NHKアナ・山川静夫さん今どき「紅白」にもの申す情ある歌を聴きたい毎日新聞大みそかに第70回を迎えるNHK紅白歌合戦は竹内まりやさんの初出場や、国民的歌手、美空ひばりさんを人工知能(AI)でよみがえらせる企画など節目の年...年末年始は漫画を読もう!マンガKING、懐かしの名作『まいっちんぐマチ子先生』などの名作を大量追加...エキサイトニュース【太平記/あらすじ】作者:横山まさみち源平合戦、元寇の後に訪れた武士による治世――――――。しかし、そこでもたらされた平和はそう
長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500~1800年Amazon1.目次序論1.ヨーロッパの軍事革命Ⅰ.イタリア式築城と斉射戦術Ⅱ.ヨーロッパ辺境の軍事革命Ⅲ.決めてなき戦い2.戦争の需要と供給Ⅰ.徴発された兵隊Ⅱ.最後のエスクードⅢ.物資補給の壁Ⅳ.パンとねぐらを求めてⅤ.見果てぬ勝利3.海上の勝利Ⅰ.ガレー船からフリゲート艦へⅡ.アジアの海はだれのものか4.非ヨーロッパ世界の軍事革命Ⅰ.残虐な征服者Ⅱ.限りあ
2013年9月28日愛知県新城市三河・長篠城址三河・長篠城みかわ・ながしのじょう史跡指定:国指定史跡別名:末広城,扇城形態:平山城(60m/30m)歴史永正5年菅沼元成によって築かれた。元成は長篠城を築き岩古屋城から移って長篠菅沼氏と呼ばれた。はじめ今川氏親に属していたが、桶狭間合戦後は松平氏に属した。元亀2年には田峯菅沼氏等の進めもあって武田氏に属したが、天正元年徳川家康によって長篠城は落ち、菅沼正貞は信濃国へ脱した。天正3年武田勝頼が大軍を率いて長篠城へ侵攻、こ
元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて上洛するために甲府を進発しました。そのときの軍の編成にいては、『甲陽軍艦』に詳細が書かれてあります。それによれば、≪先衆七手≫山県昌景(870騎)、内藤昌豊(375騎)、小山田信茂、小幡信貞(500騎)、真田信綱、高坂虎綱(800騎)、馬場信春(美濃)(「甲陽軍艦」に記載はないが、ここに北条氏政からの援軍2000兵も加わっていた)≪二の手≫武田勝頼、武田信豊(武田信繁の次男だが嫡子)、
題名:天地雷動ASIN:B01M6YQFU0著者:伊東潤出版社:角川文庫メモ:本書のテーマは、あの鉄砲三段撃ちで有名な長篠合戦武田信玄の死から長篠に至るまでの過程を武田勝頼豊臣秀吉徳川家康の三人を主人公に、それぞれの視点から描く信玄亡きあとの武田家、とくに重臣たちとの権力争いに苦悩する勝頼信長の命により、三千丁の鉄砲と火薬をそろえなければならなくなった秀吉信長の道具として、いいように使われることに疑問を持つ家康それぞれの苦悩、それぞれ
ある方が書かれたレポートをご紹介します経済学部、経営学部、商学部の学生さんにお勧めです。東京ディズニーリゾート対ユニバーサル・スタジオの経営戦略の違いを長篠の合戦の戦略から解説されています。私は軍事戦略に詳しくないので今まで長篠合戦とは考えもしませんでした。すごいアイディアです長篠合戦とは織田信長と武田の騎馬隊の戦いです。武田信玄の武田家ですよ。武田信玄の死後の戦いです。武田騎馬隊は戦国最強と呼ばれていました。テーマパークに関係ありませんが、私、小学校の頃から日本史
*当シリーズの趣旨については、プロフィールを参照してください。前回取り上げた武田勝頼を主人公とする小説としては、江宮隆之『武田勝頼・花の歳月』、河出書房新社、2003(平成15)年が挙げられる。勝頼の祖父である諏訪頼重の滅亡から勝頼の最期までを追った作品で、信玄が没するまでの記述が大半を占めており、代替わり後の滅亡に至るまでの経緯を記した章は短い。各章毎に登場人物の周辺に花を登場させているが故に、このような副題となっている。前回取り上げた上野・笹本と同様、江宮も山梨県の出身で、武田
おかみです連休の疲れが出てませんか〜?ゴールデンウィークが終わってから始めての週末です。うちは連休と言っても、2日間の連休だったので、あっと言う間に終わりましたそして、今年も行きましたよ長篠合戦のぼり祭り!すごい人!はじめはブルーシートに座って見てたけど、日差しが暑くて、日焼けしちゃいそうでも相変わらず、凄い迫力火薬の匂いも手伝って、迫力満点ですお昼の時間になると売店からいい匂いがしてきますここで食べる三河フランクがめっちゃ美味しかったです〜肉汁たっぷりでビール🍺飲みたく
先月、久しぶりに生まれ故郷の愛知県新城市長篠に足を運び、長篠城址から程近い場所にある曹洞宗長篠山医王寺さまに参拝してきました。天正三年(1575)の設楽原長篠合戦の際には武田勝頼が本陣を置いた場所でもあり、裏山は砦跡が残っています。中学2年の時に境内にテントを張り泊めていただいて以来、御縁をいただいていますが、ご住職は当時から三代替わられています。現在は有海の新昌寺の住職さまが医王寺と達磨山大通寺を兼務されています。3月2日に参拝した折は、住職さまご不在であったため、御庫裡さまとお話をさ
【徹底討論・拡散希望】平山優氏の研究倫理に関する吉川弘文館からの「回答」平山優氏の著作における『信長公記』や鈴木眞哉氏の著作の歪曲に関して平山氏を始め関係各方面に公開質問状を送ってから二月がたつが、公開の回答もサガラのEメールへの回答もない。公開質問状は下記記事のリンクからダウンロード可能。研究倫理に関する平山優氏と関係者への質問状【徹底拡散・徹底討論希望】https://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12441748822.html送付先は下記の諸氏。
天正二年(1574)真田幸隆が死去すると嫡子の信綱が真田家を継いだ。翌年長篠合戦で武田勝頼軍は織田・徳川軍に敗れたが、この戦いで信綱は弟の昌輝とともに討死した。真田家の当主となってからわずか一年、三十九歳の生涯を閉じた。戦死した信綱の首級は、家臣の白川兄弟が陣羽織に包み、主君着用の鎧胴と愛刀の「青江の太刀」(重要文化財・真田宝物館所蔵)とともに信綱寺へ運び、首級と鎧胴を桜の樹下に埋葬して手厚く弔った。この場所は「墓前の桜」と呼ばれている。享保二年(1717)寺の移築に伴い、墓所は墓前の桜の位置か