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このところの当ブログで、1971年に「4打席連続ホームラン」を打った醍醐猛夫選手に関連したことを書いています。8月2日に村上宗隆選手が「5打席連続ホームラン」を達成するまで「記録」だった「4打席連続ホームラン」の達成1号は1956年の青田昇選手、次が1964年の王貞治選手、3人目が1967年の長池徳二選手で、ここまで皆、本塁打王を獲っている長距離砲です。しかし、4人目の達成者・醍醐選手はホームラン・バッターではありませんし、この1971年にしても10本しか打っていません。それなのに、なぜ2試合
ひとつ前の当ブログで書いたように、8月2日にヤクルト・スワローズの村上宗隆選手が放った「5打席連続ホームラン」を伝える記事で、これまでの記録だった「4打席連続ホームラン」の達成者の中にオリオンズの「醍醐猛夫」さんを見つけました。醍醐猛夫さんは早実卒業後、1957年「毎日オリオンズ」に入団、すぐに一軍に定着しました。ですから、1960年の優勝のときにも若手捕手として在籍されていたのです。この年の日本シリーズで大洋ホエールズに4タテをくらい、スクイズという作戦をとった西本幸雄監督が永田“ラッパ”雅
ただ今、プロ野球のオールスターゲームを見てるんですが…私が初めてプロ野球を野球場で見たのが1974年のオールスター。試合については、9年前に書いた記事で↓今と違って文章が真面目なこと(笑)『想い出の名勝負~代打男・高井のサヨナラ本塁打』今日は、去年の2月2日に父が亡くなってからちょうど1年なもんですから。親父との思い出話を書かせていただきます。長くなるかもしれませんが、よかったら読んでみてく…ameblo.jpその試合のスターティングラインナップ。☆セントラル・リーグ☆監督川
長池徳士-Wikipedia
宗三吉田正左安達ニモヤ一ロメロ右杉本中T-岡田指頓宮捕紅林遊超攻撃的打線
阪急ブレーブス一筋で「ミスターブレーブス」として親しまれた。1967年から1975年にかけて阪急の不動の四番打者を務め、通算338本塁打は現在も球団記録である。本塁打王に3回輝き、9年連続で25本塁打以上を記録するなど、球界を代表する「右の大砲」として活躍した。徳島県立撫養高等学校ではエースとして1961年の春の選抜出場を決める。しかし選抜では初戦で敗退。3年生時に南海ホークスのテストを受けたが「使い物になるには4年はかかる。遊びに行ったつもりで大学行ってこい」の言葉により、法政大学経営学部へ
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阪急ブレーブスが最強だったのは西本監督時代!?阪急ブレーブスが最強だったのは、日本シリーズ3連覇、リーグ4連覇の1970年代後半・・・・・というのは常識です。球団最強の時代というだけでなく、史上最強のチームは?というときにも必ず候補として上がってきます。(さすがに、史上最強は、V9巨人か、80~90年代西武でしょうが、それだけ強力なチームだったということです)ところが、これに対する異論を最近買ったベースボールマガジン別冊「阪急ブレーブス誇り高き勇
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懐かしの阪急ブレーブス選手カード1978(その1)長池徳二、マルカーノ、福本豊、ウィリアムスむかし、西宮球場に行ったときに少年ファンへのファンサービスとして頂いたものです。当時は、阪急ブレーブスこども会(中学生も入れた)に入会して、父親と西宮球場に応援に行きました。〇長池徳二外野手年間40本塁打以上を4度記録している阪急ブレーブスの主砲でしたが、私が応援したころは既に晩年でした。指名打者も高井保弘選手が起用されることが多く、代打での出場が多かっ