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天海(152)「慶長五年五月三日、徳川家康、陸奥会津ノ上杉景勝ノ老臣直江兼続ノ答書ヲ見テ怒リ、諸大名ニ出征ノ令ヲ下ス、徳川家康、下野ノ士伊王野資信ノ、陸奥会津ノ形勢ヲ報ゼシニ答ヘ、守備ヲ厳ニセシム。」(「史料綜覧」)直江状に目を通すと、家康は激怒し、直ちに景勝の征伐を決意した。ただし、ここまでは家康の想定通りである。景勝は前田家のように、戦わずに屈することはないであろうと考えていた。家康の頭の中には、秀吉が行った「四国征伐」や「九州征伐」の光景が浮かんでいたので
天海(146)「是ヨリ先、出羽仙北郡ノ戸澤政盛、密ニ陸奥會津ノ上杉景勝ノ動静ヲ徳川家康ニ報ズ。是日、家康之ニ答フ。」(「史料綜覧」慶長四年十一月)慶長4年(1599年)8月22日、上杉景勝は会津に帰国する。景勝は会津移封、間もない事もあり、領内の整備に努め、山道を切り開き、橋梁を修築し、支城の整備を行ったのである。これを戸沢政盛、堀直政、最上義光など周囲の諸大名は脅威と感じ相次いで家康に報告したのであった。これを受けて家康は戸沢政盛に「お陰で会津の様子が分かった
天海(140)家康は護衛を厳重にすると、9日には大坂城に登城して秀頼母子に謁見した。『関ヶ原軍記大成』という書物によると、まず大坂城千畳敷廊下で土方雄久が家康に斬りかかり、大野治長がとどめを刺す、という段取りであったという。しかし家臣に守られた家康を襲うには、あまりに稚拙で、成功する見込みがない計画である。どうもこの本の記述は信用できない。この時、浅野長政は、伏見にいて重陽の儀のために、9日大坂に下向したようである。家康暗殺の主犯であればもう少し早く大坂に入り、
天海(139)慶長4年(1599年)4月、川越の豪海僧正が危篤との知らせが天海に入った。天海は家康の許しを得て、遠山家の家臣と共に急ぎ関東へ下ったのである。恐らく臨終には間に合わないであろうが、葬儀を取仕切らねばならなかったのであった。このため、稲葉家との交渉については庄兵衛親子が徳川家に報告することになった。「弥平次の奴め、こんなことまでオレに押し付けやがって。」と庄兵衛は散々ぼやくが、もはや致し方ない。徳川屋敷に出向くと、正信だけではなく、何と家康
天海⑱無量寿寺北院の天海から簡潔な書状が届いた。「北条家は主力を小田原城周辺に集めている。兵力が不足する支城には近隣の農民が武装して入っている。農民とはいえ、北条家領民の士気は高く侮れない。北条家は糧秣を小田原城周辺に集めていて、流通している米は極めて少ない。北条領内で米を買い求めることは困難である。かつて謙信が小田原城を包囲した時も包囲軍が飢えるという状況があった。これらを勘案するに、小田原城の籠城を長引かせ、大軍を擁する豊臣軍を飢えさせて、長期包囲を困難にする作戦と
浅野長政は豊臣政権にとって、なくてはならない存在。様々な戦で武功を立てるだけでなく、行政手腕を見込まれて五奉行としても活躍したのです。五奉行とは、豊臣政権末期に「秀吉遺言覚書体制」に基づき作られた、政治補佐を行う役職のことです。豊臣政権では「大谷吉継」や「小西行長」をはじめ、多くの奉行が行政を担当していました。そのなかでも特に重要な政務を行っていた「浅野長政」・「前田玄以」・「石田三成」・「増田長盛」「長束正家」の5名を五奉行と呼ぶのです。5名にはそれ
2023.初秋春以来となる山城巡り再開で、今年は各地熊出没情報やら、熊に襲われる被害情報が飛び交う中、なるべく熊と遭遇し難い地域、場所を選んでの城攻めとなりました…🆖滋賀県甲賀市にある水口岡山城跡を攻めて来たョ城跡が存在する山を眺める登城道近くに登城者専用の駐車場に入庫して、いざ出陣‼️登城道を示す看板…登城道にある看板…登城道歩き始めの場所からの眺めやがて遊具のある公園が見えて来ました…遊具のある公園が…この公園のある広場は曲輪の跡みたいでした…曲輪跡の広場は公園…そ
関ヶ原の戦いで南宮山に布陣した、西軍が動いていたら…南宮山に布陣した西軍毛利秀元・吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親らの軍勢は約3万。南宮山の北にある桃配山に布陣した東軍徳川家康の軍勢3万、家康本陣の後方を護衛する浅野幸長・池田輝政の軍勢1万1千は中山道に布陣。南宮山の北に布陣した吉川広家、徳川家康と密約して動かず。南宮山の山頂に布陣した毛利秀元、吉川に行路を遮られ進軍出来ない。南宮山の東に布陣した安国寺恵瓊、再三に渡り進軍を要請するも毛利本隊が動かず仕掛けられない。南
訪問日:2022/10/1【場所】滋賀県甲賀市水口町【築城年】1585年【築城者・改修者】中村一氏【城郭様式】山城【主な城主】中村一氏、増田長盛、長束正家【見所】①石垣②堀切【廃城年】1600年【御城印の有無・販売場所】ひと・まち街道交流館【アクセス】【駐車場情報】古城山観光駐車場(無料5〜6台駐車可能)【周辺観光施設】水口城標高282.9mの古城山に築かれた山城です。羽柴秀吉公の命により中村一氏公によって甲賀郡支配の拠点とするため築かれました。中村氏の次に五奉行を
史跡巡りの記事です。今回は、滋賀県甲賀市水口町にある水口岡山城です。忍者の里の地域にある甲賀随一の国指定の史跡の織豊系城郭です。訪れた時にイベント用にバルーン天守を設置作業中でした。水口岡山城(みなくちおかやま)天正13年(1585)豊臣秀吉が、甲賀郡と蒲生郡の一部を支配させるために、家臣の中村一氏に命じて水口岡山城を築かせました。築城には高島市の大溝城の古材が用いられ、山頂部に高い石垣を巡らし、瓦葺きの諸建物が連立して周囲を威圧したものと思われます。山麓の市街地はこの城下町として整備さ
史跡めぐりの記事です。今回は、愛知県稲沢市にある豊臣政権下で活躍した五奉行、増田長盛と長束正家の屋敷跡です。両名とも出生地説で近江説もあります。増田長盛邸(ましたながもりてい)現地案内版には、豊臣秀吉の五奉行の一人、増田長盛の邸宅があったと伝わる。長盛は内政に堪能で、検地奉行を務めました。関ヶ原の戦いでは西軍側の大坂城留守居役を務めたため、高野山に追放されました。その後、大坂夏の陣では長男、盛次が大坂方についたため、徳川家康に切腹を命じられました。(1)増田長盛邸跡、(2)
今回の「日帰りお城巡り」は、先日の福井方面への小旅行に続きJR西日本の「休日ぶらり旅きっぷ」を再び使っての小旅行となりました。大阪府では、「医療非常事態宣言」が発令され外出自粛要請も出されていましたが、既にWEBで切符を発注済でしたし、人混みも無い所ですので決行しました。今回の大まかなルートは、「水口岡山城」→「水口城」→「甲賀郡中惣の城館遺跡群」→「亀山城」です。上記「休日ぶらり旅きっぷ」では、関西本線・草津線の柘植駅までしかフリー区間でないので、柘植から亀山間は別途料金片道
1600年関ヶ原南宮山関ヶ原の戦いも、もはや佳境に入っていた。ここで、ある事件が起こったのである。長束正家『吉川殿、今、西軍は危機に瀕している❗️』『今こそ我らが山を駆け下り、家康の本陣をつつくのだ❗️』吉川広家『いやいや、暫し待たれよ。』『我らが布陣してから随分と時間が経ち、兵はみな、腹を空かしておる』『今から弁当を食べようと思う』正家『弁当~❗️』毛利秀元『おのれ、吉川め❗️』長宗我部盛親『貴様❗️それでも戦国武将か❗️』吉川広家(何とでも言え。この戦は
大野交差点(34.949467,136.230835)で国道1号線を横断したら、正面の路地に入ってすぐ左折して国道と並行する道が旧道です。以前は交差点を横断したら国道を左に数十メートルほどいったところで、旧道が斜め右方向に分岐していました。旧道と後からできた国道がX字に交差していた典型でしたが、今のように十字路の先から旧道が分岐している方が、旧道沿いに住んでいる人は車に乗って国道に合流しやすいと思います。交差点から国道を西へすぐの場所に、若王子口というコミュニティバスの停留所があります。
愛知県稲沢市の市民病院の地名は【長束町】。あれ?この珍しい名前、どこかで聞いたことあるな~と思った人もいるはず。実は豊臣五奉行のひとりで、関ヶ原合戦にも出陣した長束正家の出身地がこの辺りと言われています。近くには館跡の石碑もあるんです。>>長束正家邸跡はこちらツイッターでは近日中の歴史イベントやプチ戦国ネタをつぶやいています。>>ツイッター登録はこちらフェイスブックではプライベートな投稿そしてあまり教えたくない歴史ネタなどを投稿しています。>>フェイスブック友達申請はこち
#長束正家
前々回のブログの中で、京都市内にある「相国寺林光院」に移築された「仁正寺(西大路)陣屋」藩邸という内容で投稿しましたが、今回のブログでは、その仁正寺(西大路)陣屋(滋賀県蒲生郡日野町)について紹介します。「相国寺林光院」(京都市上京区今出川通り)に移築された「仁正寺(西大路)陣屋」藩邸「相国寺林光院」に移築された「仁正寺(西大路)陣屋」藩邸「仁正寺(西大路)陣屋」へは、約8年前に訪問しました。この陣屋は、秀吉政権下で才能を発揮した「蒲生氏郷(うじさと)」の祖父が築城した「日野城」の
かつて年末には何処かしかの局で忠臣蔵を扱った時代劇が放映されていた。また年始にはテレビ東京で12時間時代劇というのが毎年放送されていた。チャンネルの12にあやかっていたのだろう。つまり地デジ化以前のアナログ時代の話である。それらを毎年楽しみにしていた訳だが、今や時代劇は殆ど放送されなくなってしまった。昨年のごとく大河ドラマもとうとう現代を扱うようになった。ところで、拙宅ではローカル局の千葉テレビが受信出来るが、昨日まで帰っていた実家では入らない。代わりにテレビ埼玉が受信出来るが、千葉テレビは
日曜日は『映画の日』ということで映画を観てきましたここ数ヶ月、仕事が楽すぎてなかなか休日に出掛ける気が起こりません仕事が忙しいと毎週のように出掛けるんですけどね…こういう所が偏屈者なんですよねちなみに1人映画の時は最後列の左端が空いてなければ観に行きませんこの辺りが偏屈者の極みですよねだからpillowsファンなんでしょうねちなみにライブは右の一番後ろのドアの側です観てきた映画は『決算!忠臣蔵』生きていくのも、遊ぶのも、神社・仏閣を巡るのも、戦をするのも、討ち入りするの
戦友の皆さまお疲れさまですのぶニャがの野望は、9月27日〔豊臣の大黒柱〕アップデートがありました新ねこは、煌石田三成くん、極小早川秀秋くん、稀大谷吉継くん、稀宇喜多秀家くん稀ニャつか正家くんでした煌石田みつニャりくん元武将:石田三成(いしだみつなり)猫種:スノーシュー秀吉側近。全が一、一が全の為にを意味する「大一大万大吉」の文字紋を使用し、生涯君主である豊臣家や自領の民の為に尽力したという。早速、交換所上がってましたね特技:三献の茶:味方全体の攻撃
滋賀県甲賀市:水口岡山城(みなくちおかやまじょう)攻城の日:近江編。その一発目でした。行きがけの新名神高速道路で災害通行止めに遭い、いきなりの渋滞に巻き込まれ。副案でもあり、観音正寺&観音寺城に至るルート途上でもある、この水口岡山城に行程変更をしたのです。散策路の至るところに、寄進による観音様が祀られております。西国33に準じているそうで、こちらは二十二番の総持寺にあたります。二十三番の勝尾寺。戦没者忠霊塔がありました。1585年に豊臣秀吉家臣、
六月二日の早朝、本能寺で信長が倒れ、三日の夜、毛利方の備中高松城(岡山市)を水攻めで取り巻いていた秀吉のもとへ、信長の死が伝えられました。秀吉は信長の弔い合戦を決意し、翌四日、本格的に毛利との和睦交渉に乗り出します。城は水攻めで“水没”しかかっていました。通説ではこのとき、城主の清水宗治が「船を一艘寄越してくれたら切腹する」と秀吉側に伝えたとされ、ドラマでも湖のようになった城外で宗治が見事、腹をかっさばくシーンを見かけます。恵瓊がその宗治の説得にあたったといいま
*7月22日付記事の続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは関ヶ原の合戦です。今回は、上杉征伐と五奉行のおはなし。あんみつ「先生、徳川家康は上杉景勝が上洛命令を拒否したのを、豊臣秀頼への反逆ということにして会津遠征を決定しました。他の五大老、毛利輝元や宇喜多秀家は大反対しましたけど」ぜんざい「上杉が封じられた会津120万石は、太閤秀吉が江戸256万石を領する家康の抑えとし
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水口岡山城にやってきました~!(ど平日)天正13年(1585)、秀吉は中村一氏に命じて近江東南部一帯を見渡すことができるこの山(大岡山)に天守閣を備えた(!)山城を築かせました。関ヶ原の合戦後、城主の長束正家はこの城に籠りますが落城。城はその後廃城となりました…。車の駐車場が…多分無いんですねこれ、[駐車場→]の表示があるのに車止めで進めないとか…泣城の北側の配水池横から登って行きます!【北東斜面竪堀】遊歩道を挟んで竪堀が落ちています。水口岡山城では何ヶ所も竪
関ケ原の陣跡巡り。浅野、池田、吉川、長束。一気に行きます赤は東軍。青は西軍なんですが、ご覧の様に戦場から離れてますねぇ。ご存知のようにこの辺の諸隊はなんもしなかった大名です。と、いうか、東軍と通じてた大名。動きとうても動けんかった大名。知らんうちに勝敗が決し、ただ逃げるためだけに戦った大名です。この図から見る限り、青い大名達が一斉に動けば、家康の背後を突けるという絶好の位置なんですが、如何せん、寄せ集めの意思もバラバラで、内通者がいる彼らは意気投合して家康の背後を突