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豊功神社(下関市·昭和初期)幕末の諸隊の一つ、長府藩士による“報国隊”が結成された場所。この地から見える初日の出は一見の価値があるとも言われていた。昭和44年に、この社殿は火災により焼失した。(保存版「ふるさと下関」より)(彦島のけしきより)豊功神社、下関市長府宮崎町4−1参考①豊功神社豊功神社由緒豊功神社は神話伝説の島として知られる満珠・干珠の二島を展望する絶景の此の地に鎮座する旧県社で祭神は応神天皇、武内宿祢、穂田元清毛利秀元をはじめ長府藩歴代の藩公を祀る古くより櫛崎八幡
小串港(豊浦町小串·明治40年頃)手前の2枚帆の船は「イサバ船(近距離の軽便な運搬船)」。中は漁舟、後方の2枚帆の大型船は回漕船と見る。小串は物資の集積地で回漕船や運搬船が多く入港していた。小串の本通り(豊浦町小串·明治40年頃)北浦の商業地を形成していた商店街。横断幕に「WELCOME(歓迎)」とあり、日の丸や万国旗を飾り「梅ヶ香丸」を歓迎した。着物委の人や人力車が見える。電柱や電線のないすっきりした景観である。小串犬鳴の踊松(豊浦町小串·明治40年頃)赤石鼻から小串の後浜
豊田町殿居村狗留孫山国護院修禅寺石段(下関市豊田町・明治末年~大正前期)修禅寺の参道を登りきり、左に折れて石段を上がると、右側に本堂がある。中央の角塔婆には「維(この時)明治三十之」と書かれており、寺内で何かの落慶がありその際に立てられたものと思われる。石段の右側には青銅馬があるが、現在はない。左側の由緒書は、現在では新しく建替えられて、この位置にある。豊田町殿居村狗留孫山国護院修禅寺本堂(下関市豊田町・大正2年)明治時代の終り頃、豊浦町小串の「先村日光軒」が誕生し、馬関毎日新聞の専
136△豊浦藩知事任命辞令(上)137△豊浦藩知事免職辞令(下)明治2年(1869)6月、版籍奉還が決定されると、長府藩は豊浦藩となり、毛利元敏は豊浦藩知事に任命された。さらに明治4年(1871)7月の廃藩置県により、元敏は豊浦藩知事を免じられ、藩政に幕が下りることとなった。(下関市立歴史博物館常設展示図録より)(彦島のけしきより)参考①豊浦藩最後の殿様、毛利元敏(もうりもととし、コトバンクより)1849-1908幕末-明治時代の大名,華族。嘉永(かえい)2年5月3日生ま
明治維新が引き起こされる前に彼ら(イギリス)は長崎よりも東の本州に拠点を築こうと画策していたが、江戸幕府側の長府藩はイギリスの本州進出を阻止するため関門海峡の封鎖を行なった。
豊浦図書館新館(大正2年築)現長府図書館(昭和42年築)長府図書館乃木蔵書一千冊下関には下関図書館のほか、長府と彦島の三つの公立図書館がある。もちろん下関市立図書館が中心的な存在だが、これが昭和十五年七月に皇紀二千六百年記念事業の一つとして開設されたのに対し、長府図書館の歴史は実に古い。その起源をたどると、ずっと明治にさかのぼって四十年十二月、当時の豊浦郡教育会の創設となる。明治四十二年八月に仮館舎で教育会付設豊浦図書館として開館、大正二年に新館が完成、大正十三年十月、長府町立に移管
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「日本100名城」に指定されています。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しました
104中山忠光画像中山忠光は弘化2年(1845)、大納言中山忠能の七男として京都に生まれた。安政年間頃より中山家には多くの攘夷派志士が出入りし、忠光は萩藩の久坂玄瑞や土佐藩の武市瑞山、吉村寅太郎らと親しく交流し、攘夷に対す意識を強めていった。105中山忠光和歌短冊中山忠光の和歌で、強い攘夷と倒幕の思いが込められている。忠光は天誅組の変後、長府藩領内に潜伏した。しかし、萩藩における政府員の交代などの影響を受け、長府藩士によって暗殺されることとなった。106道行中山忠光が白石家に滞在
100胴乱銃弾を入れて腰に提げた革製の鞄で、戊辰戦争時に使用されたもの。新政府の樹立後、明治元年(1868)1月3日に戊辰戦争が始まる。同年4月に北越出兵の命を受けた長府藩は報国隊の4小隊を北越に派遣した。129報国隊士袖印報国隊士が使用した袖印。資料中に見える「磐石組」は、慶応元年(1865)に長府藩領内の力士によって結成され、主に砲兵として活動した「磐石隊」である。幕長戦争以後、報国隊の傘下に入って「磐石組」と称した。126報国隊弁当箱報国隊士が使用した弁当箱。報国隊は、元治
101山騒有朋歌書戦いに参加した山懸が北越陣中で詠んだ和歌。北越での長岡藩兵との戦いは激戦となり、長州勢にも多数の死者が出た。仲間を失い、苦戦が続く戦況を憂う山騒の感情がうかがえる。102福原和勝詩書長府藩士福原和勝が北越戦争の際に詠んだ詩。5月19日、新政府軍は長府藩士熊野則之らが主張した信濃川渡河作戦の成功により長岡城を奪った。7月末には一時城を奪還されるが、再度奪取し進軍拠点とした。103福原和勝詩書福原和勝が会津戦争の際に読んだ詩。新政府軍は会津城下へと兵を進め、やがて
120三吉周亮写真長府藩家老。報国隊隊長や長府藩の軍艦満珠の艦艦長を務め、維新後は地方官を歴任した。121三吉慎蔵写真長府藩士。藩主に信任され、また坂本龍馬の活動を支援したことでも知られる。明治維新後も長府毛利家に仕え、一時宮内省にも出仕した。122印藤圭写真長府藩士として藩財政の運営にあたり、報国隊軍監を務めた。長府藩と坂本龍馬とのパイプ役を務め、維新後には名を豊永長吉と改め、商人として下関経済界の重鎮となった。123梶山鼎介写真長府藩士。北越戦争では報国隊軍監として各地を
梵鐘の鋳造風景(下関市長府金屋町,大正時代)金屋付近は金物に関わる職業が多く、昭和初期までの寺院の梵鐘なども造られた。幕末、長府藩の鋳物師安尾家の大砲鋳造には、画家狩野芳崖の協力もあったという。(下関・豊浦の100年より)(彦島のけしきより)参考①安尾家(山口県教育庁、参考)戦国時代から大正時代に至るまで現在の下関市長府で鋳物業(金属を溶かして型に流し込み、鐘・鍋・釜などをつくる)を家業とした家である。「安尾家文書」は、安尾家に伝えられた、1212年(建暦2)から1549年(天文
長門国厳島神社安徳天皇の乗る御座船に祀られていた安芸国の厳島神社の分霊が壇ノ浦の戦いの後に磯辺に放棄されたという。文治元年(1185年)、地元の住民たちが社殿を建立し、安芸国の厳島神社より分霊をあらためて勧請した。高杉晋作は、慶応2年(1866年)の四境戦争を始めるにあたり、ここで戦勝祈願を行ったといわれている。小倉口の戦いでは、高杉晋作は奇兵隊と報国隊を指揮して戦った。同年8月1日(1866年8月29日)、幕府軍総帥小笠原壱岐守がついに小倉城を脱出し、自ら城に放火した。城内に攻め入った長
全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。「御殿」については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。全国「御殿」を巡る”はじめに”↓『全国「御殿」を巡る”はじめに”』「近世城郭」における「城郭建造物」には、「天守」を始め「櫓」「櫓門」「門」「御殿」「番所」「蔵(金蔵)」「馬屋」その他に「御殿」を構成する「茶室」「能舞台」「…ameblo.jp今回は、「勝山御殿」の「御殿本丸玄関」が「覚苑寺」の「庫裏(方丈)」等として移築されていま
全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。「御殿」については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。全国「御殿」を巡る”はじめに”↓『全国「御殿」を巡る”はじめに”』「近世城郭」における「城郭建造物」には、「天守」を始め「櫓」「櫓門」「門」「御殿」「番所」「蔵(金蔵)」「馬屋」その他に「御殿」を構成する「茶室」「能舞台」「…ameblo.jp今回は、「清末陣屋」の「御殿玄関」が「明円寺」に移築されている「玄関・庫裏等」をお届けします。
129報国隊士袖印報国隊士が使用した袖印。資料中に見える「磐石組」は、慶応元年(1865)に長府藩領内の力士によって結成され、主に砲兵として活動した「磐石隊」である。幕長戦争以後、報国隊の傘下に入って「磐石組」と称した。(下関市立歴史博物館常設展示図録より)(彦島のけしきより)参考①報国隊(参考)『長府藩、報国隊』元治元年(1864)8月、京都禁門の変に敗退した長州藩は、俗論派が台頭し幕府に恭順する方針へ転換し、長州藩緒隊は解散を迫られました。そんな中、正義派として長府…amebl
121三吉慎蔵写真長府藩士。藩主に信任され、また坂本龍馬の活動を支援したことでも知られる。明治維新後も長府毛利家に仕え、一時宮内省にも出仕した。119中岡慎太郎書状三吉慎蔵宛馬廻三吉家文書薩摩藩が幕府に出兵拒否の建白をし、名古屋藩も同論であることなどが伝えられており、龍馬·慎太郎らが仲介した薩長和解によって、薩摩藩が長州藩に助力することとなった様子がわかる。118坂本龍馬書状三吉慎蔵宛(遺言状)いろは丸事件の解決のため、長崎へ向かう龍馬が、その直前に三吉慎蔵へ宛て下関で書いた
勝山、内日地区勝山御殿跡文久三年(一八六三)の五月十一日、関門海峡で行われた外国船砲撃の馬関攘夷戦は、勤皇討幕を目指す長州藩の決意であり、明治維新への烽火でもあった。はじめの三回にわたる戦いは、戦意のないアメリカ、フランス、オランダの艦船を一方的に砲撃、逃走させて凱歌をあげたが、六月一日にアメリカ軍艦が報復のため本気になって来航したときには、長州藩虎の子の軍艦が決定的な損害を受け、続いて六月五日に来襲したフランス軍艦からは、前田の砲台が破壊され占領されてしまい、これから先、まだどのような攻
グランドハイアット東京より秋~冬、イルミネーションで有名、デートの定番スポットけやき坂を昼間に、一人おっさんが下る正面に東京タワー見えてきた六本木ヒルズ内の毛利庭園へテレビ朝日が隣接するため、番組など毛利庭園からの中継も多い馴染みの場所長門長府藩の麻布上屋敷跡(毛利甲斐守邸跡)赤穂浪士の岡島常樹ら10人が切腹した屋敷でもあります『大石良雄等自刃ノ跡』天神坂を上りきると東海大学付属高輪台中学校高等学校に突き当たるここの高校吹奏楽部はかなり有名二本榎通りを三
松嘯館松嘯館は、長府藩主席藩医、松岡家の居宅である。文化年間に、亀の甲からこの場所に移った。明治の末までここに住んでおり、長屋門はその当時のままである。屋敷の内に数百年を経た松の大木があり、風が吹くと音楽を奏でるかのような松頼がきこえ、このため、松嘯館と名付けられたという。最近はこの家の前も交通がはげしく、家のいたみが少しづつすすんでいるように思える。(古舘充臣長府の四季より)(彦島のけしきより)参考下関市長府宮の内町4旧松岡家長屋門
2023年8月12日(土)。天気晴れ。台風7号(アジア名:LAN)が不気味に近づいていますが、まだその気配は感じとれません。灼熱の陽気の中、「六本木ヒルズ」へ。東南アジアにいるような気になります。たくさんの「ドラえも」んがいました。地下2階にある「グランドフードホール」。レストランも併設されているデリ&グロサリーの店。店の前の雰囲気も東南アジアみたいですね。レモンスカッシュで休憩しました。「真実の口」が。手を入れている人は、時々いました。そして、「毛利庭園」を散歩しました。この池は、
亀ヶ原、浮石義民直訴之碑内日地域のちょうど中間あたりに、亀ヶ原というバス停があり、そばに浮石義民の記念碑がある。これは宝永七年(一七一〇)、長府藩椙杜家老の給料地、浮石村(豊田町)で起こった直訴事件で、余りの圧政に堪えかねた村人の中から、庄屋の藤井角右衛門を中心に九左衛門、与市右衛門、太郎左衛門、豊吉の五人が、折から来藩した幕府の巡見使に直訴したもので、その結果願いが取上げられ、家老は閉門減封となり、苛酷な課税も緩和されたが、当時の定めのとおり(直訴した者は死刑のおきてであった)五人は松小田
日頼寺と仲哀天皇陵長府松原のパス停から山手へ五分ばかり歩いた突きあたりに禅宗の日頼寺がある。日頼寺は長府藩主初代秀元が萩本藩毛利元就の菩提を弔うため建てたもので、元就の法号にちなんで日頼寺と称したが、秀元が祖父にあたる元就をたいへん尊敬していたことが察せられる。当時、寺には元就の使用した頭巾や愛用の印籠が寺宝にされていたといわれ、また仲哀天皇聖地輪旨や足利尊氏、大内義隆、毛利元就、元清(秀元の父)、秀元らの古文書も寺宝として残されている。このように格式の高い寺であったが、明治新政府の神仏
毛利元義と吉見塩田長府毛利藩の十一代元義が文化人として名高い殿様であったことは、曲水の宴で紹介したが、彼は詩を作り絵を描くことにもすぐれ、浄瑠璃も堪能で、清元の三名作の一つである「梅の春」の作詩者として有名である。さらに焼物にも関心を示し、鷹羽焼や松風焼を奨励するなど多彩な趣味をもち、学者や詩人、俳人、画家などを優遇したので、長府藩には数多くの文人が育ち、文化の花を咲かせた。元義はまた藩政の改革のため軽輩を登用し、相場会所の開設、吉見塩田の造成、彦島の開拓や才川の開拓にも着手し成功をおさ
下関市長府黒門東町8−11旧長府藩家老格西運長邸参考旧長府藩家老宅に咲くハスの花城下町長府を観光資源とする下関市が、平成元年に9億2000万円で購入して整備し、同5年5月に正式な開園を見た「長府庭園」は、敷地面積約3万800平方メートルのうち、約7000平方メートルが庭園部分でなかには約1100平方メートルの池もあり、木造入母屋造二階建て約225平方メートルの書院や茶室を備えるなど、本格的な回遊式日本庭園である。この屋敷は、下関を発祥の地とする大洋漁業株式会社の初代社長中部幾次郎が昭和
連携を深める奇兵隊と報国隊、小倉戦争開戦前の6月15日、関門海峡を挟み幕府軍は小倉側各所に台場設置を完了した。熊本.久留米.小倉の軍勢が集結終えその数2万小倉側各所にある砲台からの発砲は緊張感をますものであった。そんななか、住吉神社の奇兵隊と椋野にあった長府藩報国隊とは互いに連携を深めていた。そのことがわかる文書がある。慶応2年(1866)6月15日奇兵隊日記1.十時後向地ニ當砲聲有之卽時内藤源吾ヲ以報国隊ヨリ斥候傍差越候処小倉ニ當リ發砲之模様申聞候由
150年前、高杉晋作が指揮をして戦った四境戦争の一つ小倉口の戦いの激戦地がここ赤坂海岸(JR鹿児島本線辺りが海岸線)であった。今では、海岸を埋め立ててスケートボード場が出来るようだ。近くの延命寺の灯篭が下関の東行庵にある。また、近くに長州藩の奇兵隊士の墓や宮本武蔵・佐々木小次郎の碑などもある。延命寺臨海公園と延命寺と小倉戦争赤坂口参考①延命寺臨海公園24日リニューアルスケートボード専用場や展望広場新設北九州市[福岡県]西日本新聞(2019.3-16、参考)北九州市は小倉北区赤
花まつり昨日(5/8)は旧暦の4月8日でした。廿日市駅近くの洞雲寺ではお釈迦様の誕生日(旧暦4/8)を祝う「花まつり」が行われていました裏山には黄色い絵の具を垂らしたような若葉が萌えています。「天上天下唯我独尊」境内禅寺の境内はすっきりしていて好感が持てます。六地蔵尊、玄関の衝立には達磨さん…窓のデザインもお洒落です…ボタン(多分^^)はシャクヤクと混同しやすい。そして、アジサイと思っていた花は「オオデマリ」と言うらしい…(あまり自信はありません^^)。陶晴賢(
旧長府藩家老宅に咲くハスの花1城下町長府を観光資源とする下関市が、平成元年に9億2000万円で購入して整備し、同5年5月に正式な開園を見た「長府庭園」は、敷地面積約3万800平方メートルのうち、約7000平方メートルが庭園部分でなかには約1100平方メートルの池もあり、木造入母屋造二階建て約225平方メートルの書院や茶室を備えるなど、本格的な回遊式日本庭園である。この屋敷は、下関を発祥の地とする大洋漁業株式会社の初代社長中部幾次郎が昭和4年に購入。以来、中部家の人たちが住んで、地元では中部邸
連休2日目は天気も良いし〜という理由では無いのですが、下関市にある『長府毛利邸』へお邪魔してみたRieruですついでに書くとこの日は旅行2日目で、旅行の計画自体は昨年の10月に立てておりました。だから何?って感じですが、オミクロンや義母の急逝は計算に入れていない旅行では無いので、気分を害された方はすみません・・・日常の事は忘れて、いざ!開催中の『長府おさげものまつり』(20日まで)の会場へ!『長府おさげものの会』さんの作品で・・・あっ、ちょっと!抹茶と茶菓子を運ばれていた方が着られていたウ