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長崎県庁跡地の調査、整備が終わり、一部開放し、市民が丘の上に立ち、眼下に出島を臨み、更に西洋の文化を乗せて大海原を越えてやって来た、大帆船等が入って来た長崎港を見ながら、大江戸250年の風を感じ、更に日本の文明開化を担った日本の英才達が学んであろう長崎奉行所西役所に思いを馳せながらのそぞろ歩きは、県外から来た人達にも喜ばれるに違いない。2024年には、整備の方針が決まるとの事であるが、開港400年の節目の折に、重層的長崎の歴史をホーフツとさせるモノは何か?という事をじっ
長崎大学経済学部校舎がどういう訳か知らぬが、移設を考えているという。市の中心部、もしくは県庁跡地でもと言う話である。TVの数分による報道を見ただけであるから、よく理解出来なかったが──。過去、同学部は長崎大学にあって医学部と並ぶ、最右翼の看板学部であり、私共の高校時代は、入学に関して超難関の優秀校であった。しかもその歴史ある学舎は長崎の旧市街地の景勝の地、片淵の里に今もあるのである。なぜ移設しようとするのか──考えられぬ。しかも、江戸期250年の日本の唯一の窓と
長崎県議会等にあって旧長崎県庁跡地の活用計画は、近年論議され更に具体案が出されるものと思うが、その一助にでもなればと思い、不肖私のイメージを申し上げ、我が友人である山本圭悟氏に依頼して画いてもらった。自画自賛かとも思えるが程良く画けているものと思う。出島の絵は多く有るが長崎奉行所西役所の絵は余り見た事がない。大波止側から右手に出島の長崎奉行所西役所の絵は、復元された佐賀本丸に展示してあり、私も名刺等に使わせてもらっている。この出島側から見た俯瞰図は、なかなかに解りやすく、
令和3年10月8日、長崎新聞『声の欄』、古賀義人氏の意見を読ませていただき、強く共鳴、賛同するものである。氏の意見は過去にも何回かとり上げられたが、その都度、折に触れての提案が、まことに、時機を得た適切なものとして、高く評価するものであります。元職県職員と知り、県庁跡地に対する、思い入れ一汐のものであろうと思うものであります。諫早出身の市川森一さんや長崎大学名誉教授であり、長崎市史編纂委員長をされた、外山幹夫先生も、全く同じような想いをもって県庁跡地に於ける、長崎奉行
県にあって理事者は跡地の活用について骨子を整え、議会に審査書類を提出準備中である事は前に書いた。機会があって、長崎市議のベテランA氏と話した。電話にあっての事であったが、跡地には2階くらいの、施設整備を行なうべきとの話をされた。「そんなもんですか?」と問う私に何を思ったか、「4階建て位の立派なものを…」らしき意味の発言をされた。市役所を跡地にもしくは公会堂の代替施設を跡地に──との旗振りをした議員であるから、何を整備したいのか、オー
令和3年度、上半期にあり、県にあっては議会に提案する県庁跡地活用整備基本構想骨子案がまとまった様である。議会にて審査中の本年にあっては、埋設物調査の仕上げを行ない、記録保存のまとめをし、更に来年は盛土にて、跡地を覆い、広場となし、2024年度以後に整備予定計画が成案されるのを待つ様である。石垣以外はオープンスペースが最良の策と考える。長崎奉行所西役所周囲の石垣は、それのみで重要構造物として保存されるべきものと考える。奉行所跡地は広場として供用後は、近代的構造物2階程度を
長崎開港450年の記念展「ふたつの開港」の記念誌、ごあいさつの中、長崎県知事、中村法道氏は、「県といたしましても、長崎の原点ともいえる、江戸町の県庁舎跡地の活用をはじめ、百年に一度ともいわれる長崎のまちづくりの、大きな変化をチャンスと捉え、市町や関係者の皆様と、一緒になって地域の活性化につなげる施策を、積極的に展開してまいります。」と述べられておる。つい先年迄、この跡地は長崎市の旧公会堂の、代替施設の市民ホールを造る等という話があった。
令和3年3月31日、本日の長崎新聞「声」の欄にあって、跡地隣接の居住者の方が跡地活用を期待して投書をしておられた。この10年近く、県庁の現在地建て替え、長崎市庁舎の建設、公会堂代替施設の建設等、様々に変遷してきた。周辺住民にあっては、それらの話の都度、期待をさせられて大変だったと思う。一部政治家や文化人と称する「アオリ屋」達は、その都度、跳梁跋扈、自己の都合で言いたい放題、それらの連中はいまケロリとして時流に乗りながら様子見をしておる。どうぞ周辺の人達は、日本の歴史の生きた
令和3年3月11日、長崎県議会3月定例会総務委員会に於いて、旧県庁舎跡地の活用について基本的な考え方を示した様である。マスコミ報道では過去の報道の如く跡地について、「幅広いにぎわいや交流を促す広場や空間(施設)の整備を検討している──。」と、相も変わらず昔の跡地検討懇話会でとりまとめられた報告の表現手法で伝えている。市民に於いては具体性を欠く抽象的報道のあり方で、理解するに難解すぎるのではなかろうか──。今一歩踏み込んだ議会
令和3年2月19日長崎新聞に於いて、県庁跡地の埋蔵文化財調査の報道がなされた。長崎奉行所にて使用されていたとみられる。1600年代の瓦等の破片などが見つかった、との事である。期待されていた江戸期以前の建物遺構は見つからなかった、との事であるが、不肖私は、岬の協会にあっては、豊臣秀吉の命により、解体され寺社等に下げ渡されたのではないか──瓦一枚、材木の一本も残さぬ様に──キリスト教施設の跡形もなくなるような、措置がなされたのではな
長崎県庁跡地については専門的見地から、県職員、有識者の方々が知恵を絞って、埋設物調査等を着々と進めておられる事であろうと、推察するものである。石垣の埋め戻しもされたものと思うが、東側、南側の巨大セメント擁壁はそのまま昭和遺産として残されるおつもりであろうか──県庁跡地の発掘調査は、囲を張り巡らした中で、行なわれておる様でありますが、非公開の状態でなければならぬものでありましょうか。一部見学ヵ所を設置して、観光の一端として、提
不肖私が過去申し上げて来た最大、最高の想いは、旧県庁跡地に長崎奉行所西役所を復元する事である。全国の多くの都市、県庁所在地その全んどに、住民の心の支え、長いその地の歴史を物語りつつ愛されつつ、事あるごとに、その地域の求心的歴史遺構として、厳然として存在しているのである。先の震災時の熊本城を思い起こしていただきたい。城の復興すなわち、熊本の復興なのであり、そのシンボルが「城」なのです。かつて長崎には長崎奉行所西役所と称する城があった。
長崎県、市にあって、産・学・官・金等のトップが相寄り、サミットと称しての会議をもたれ、県、市の活性化につき論じられた様である。私等、先が見えない者にとっては、難解な表現に於いての取りまとめ案等、到底理解出来るものではない──。不肖私は思う、県庁跡地にこそ、宝の山はある。一刻の猶予も置かず全体の地形を復元させ、西役所の復元を県、市に於いて企図すべきである。MICE施設も遠からず完成するであろうが、長崎に於いては、旧態依然の観光施設があるのみ
令和2年10月27日、長崎新聞に上記の記事が掲載された。誠に有り難く拝読させていただいた。内容について言えば、長崎市江戸町の県庁跡地の遺構調査により、江戸期の貴重な遺構が出土しておる事に鑑みて、日本歴史にかかわる学術上極めて重要な内容である。とした上で、①現在の区域以外に調査箇所を広げ全体の学術的価値を把握する。②出島と一体となった長崎の歴史が体感出来る跡地活用を進める。との2点を求めたものである。同時に文化庁長官、県会議議長、県教育長にも
令和2年9月12日、上記説明会へ出向いた。雨は上がったが、蒸し暑い天候であった。不肖私は午後から参加したが、写真の如く、誠に雄大な石垣であった。石の積み方もいかにも素朴、当時「長い岬」の最先端の回りは海であったろうし、葦原であったやも知れぬ。石垣積みに誠に困難な場所であったかも知れぬ。江戸期の長い歳月の間、何回となく積み変えがなされたようだ──との学芸員の説明。今後は埋め戻し、保護し、将来計画を待つとの事であったが、何とか工夫し養生しながら、出島へ下る坂道と共に、観光の用に
令和2年9月5日、長崎新聞既報の県庁跡地石垣遺構──70年ぶりの出土の記事を読むにつけ、今更に、奉行所復元の想いを強くした処であります。佐渡の金山奉行所の復元、佐賀の本丸跡の復元、更に名護屋城跡の復元整備等に学ぶならば、「長崎城」の復元が如何に長崎市、もしくは日本国にあって、大きな意味を持つか、分かる事、必定であると思惟致します。県議、市議、行政に携わる人全からず、この際、熟考していただきたい。出島と一対を成しての存在感は、他地区の観光資
令和2年9月5日、長崎新聞は9月4日県庁跡地現地取材の内容を掲載した。1面に出土部分の全容写真、20面にその詳細内容を載せてくれた。まさに「長崎城」である。豊臣秀吉は”長い岬”の先端にあった岬の教会を解体させた。バラバラに解体した建築材等、街中の寺社等に分け与えたと聞いた記憶が有るが──。その跡地に江戸幕府は、長崎奉行所を持って来た。奉行所は、まさに長崎に於ける、徳川幕府の”出城”であった事と思う。東京の江戸城も岬の先端に築造された。長崎も同じく海食崖に、さらに石
不肖私、8月14日、本田貞勝氏の著書「コラム長崎散歩」をとりあげさせていただいた。「長崎県庁跡地は日本医学発祥の地である。」という一文である。本日8月29日付長崎新聞に、本田教授が寄稿されている文章──。熟読させていただいた。「岬の教会」の事、長崎奉行所西役所の事、原爆にあった県庁舎の事を述べておられる。当時の県庁舎を一部復元、3.3km離れた浦上爆心地上空500mに、夜間サーチライトを放ち、原爆の威力を示すものとしたらどうか──とも提案された。面
県庁跡地の埋蔵物調査の進捗は如何様になっておる事やら──。いずれにしろ、秋風の吹く頃には現地開放をして、市民にもその様子を見せて欲しいものである。コロナ禍の中、ステイホームを決め込み、読書等にも少しは目が行く様になった。先日、一冊の本を手にとり、今一度読み返すこととなった。「コラム長崎散歩」本田貞勝著筆者は昔、長崎市政記者をしておられた。長崎新聞の論説委員長を最后とされ記者を引退された。氏は「1857年、オランダ海軍軍医ポンペが来
令和2年6月26日付長崎新聞に於いて、旧長崎県庁跡地の埋蔵文化財発掘調査の現況報告が成された。長崎奉行所西役所の出島側に下ってゆく南面スロープの石垣が、写真により大きく写し出されており、誠にもって、江戸期の風情の一部が感じ取られるような気が致した次第。昨年の一般開放の時、出島側丘上に立った時は、徳川三世紀の間、その大半に於いて、厳然として日本の歴史を刻んだ奉行所の存在を強烈に感じ、鳥肌のたつ思いがあった。今後は西側調査と合わせ、東側、江戸
令和2年5月19日(火)の長崎新聞に於いて、本日から県庁跡地の埋蔵文化財調査を始めると報道している。今回は出島側に埋まっていた石垣や奉行所外側に立ち並んでいた、町屋(商家)跡を発掘して全容を調べるとの事である。私は町屋の遺構は本物かな──という疑問があるが、いずれにしろ楽しみである。それよりも私は、維新後に埋めたてられた東側を掘り下げるべきだと思う。「馬見所」「蔵番長屋」の後は、旧県庁舎の玄関前広場であり、また駐車場として近年迄使ってきた。
令和2年4月初旬、第二の工事現場、県庁跡地へ赴いて、車を停め、フト見ると平成出島新橋にロープが張ってあるではありませんか。紙をロープの真ん中にブラ下げてある。何かと見ると、件の如し、コロナウイルスによる観光施設内閉鎖のお知らせであった。夕方のTVニュースに於いて長崎市は47ヵ所の、いわゆる観光施設等を閉鎖との報を流しておった。適切な措置であると思う。田上市長は堅実に対策を打っていっている様である。橋の上から県庁跡地を見た。芝の緑が心地よい
令和2年1月31日、長崎市の田上市長は新設予定の長崎市公会堂は、移設後の長崎市庁本庁舎跡地に建設することを表明し、県知事にも面談の上、その事を伝えた。理由は、県庁跡地の遺構が多く出た事により、その調査に時間を要し、早期の公会堂代替施設建設が危ぶまれる事態となった事、市庁舎跡整備が早いとの結論を得たからとの事である。県庁跡地の歴史的重要性を基本として最初から考えておれば、紆余曲折することもなく、初期の計画どおりで突き進んで良かったものをと、小生、
令和2年1月22日夕刻TVニュースに於いて、過去、県・市に於いて合意に達していたとされる、県庁跡地に於ける、長崎市公会堂代替施設「文化芸術ホール」について、断念の意向であるらしき事を田上長崎市長が言った。とかの報を流した。翌1月23日、地元紙長崎新聞に於いても、初期の計画どおり、長崎市役所本庁舎跡地にての建設にカジを戻したいとの報道がなされた。最終結論は2月議会迄に出すようである。予定変更の根拠は埋蔵文化財調査で遺構や遺品が多数出たからとか、ま
長崎市の諏訪の杜から県庁に至る間、代官所をはじめ教会跡等、いろいろの遺構が過去掘削調査された経過があるが、ほとんどの遺構は埋め戻され資料記録にて保存がなされ、昭和・平成の建物にておおい尽されておるのが現状である。県庁跡地にあってもまさにその如くになり、令和の建造物にて、江戸期の超一級の歴史資料がおおいつくされ蓋をされる処であった。今何とか有識者達の手により救済の手が差しのべられつつあるが、県・市にあって過去、公会堂代替施設の文化芸術ホールの建設が、合意されたいきさつもある事で
県庁跡地遺構の取り扱いについて、今後如何なる仕儀となることやら──不肖私、思いめぐらしてみるに、今日段階の調査については、その深度にあって専門的立場の人達から見れば納得のいくものでは全くなく、今後時間と経費を投入し徹底した調査をすべき事であるとの結果となる事、必定と思われる。特に江戸期に迄戻すとするならば、東側土地にあっても、江戸町側石垣の明治期以後の積み上げ分の高さは、これ全て石垣の内法面にあっては取り除き調査をするべきであろうと思う。その姿を第一段階として市民県民に示し、
令和2年1月16日、長崎新聞第一面に上記の文字が躍った。不肖私「当然の帰結」であると思う。私は、平成23年以来長崎市議会に於いても、また、議席を離れても約10年間にわたり、次にあげる発言をしてきた。1、県庁の魚市跡への移設2、県庁跡地に長崎奉行所西役所復元3、長崎市庁舎の公会堂跡地及び前広場への移設4、長崎市公会堂の長崎市庁舎跡地での建設5、公会堂建設規模は約1500席以上の事を申し上げながら、ひたすら、それら実現の為
令和2年1月14日、長崎県に於いては県庁跡地の遺構調査について、専門家の意見聴取をしたようである。予備調査の結果をどう判断し、今後の本調査へつなげていくかの、参考にするものらしい。全くもって「マワリクドイ」事をするものである。今だ県にあっては『県庁跡地の日本に於ける歴史的位置づけ』の、価値評価の認識が希薄であるらしい。不肖私は次の如く思う。今後の跡地活用の根拠について遺構のあり様は特別の意味は,究極的にはあり得ないのではないかと思う。岬の教会・長崎奉行所西役所は、厳然と
令和元年の12月22日、上記の会へ参加した。県庁職員氏らしき人物に、「江戸町商店側の明治期に建造した、石垣の高さの部分については掘り下げないのですか。旧県庁玄関前広場の部分は、掘り下げて、江戸期のレベル迄、今回はしないのですか。」と問うと、職員氏いわく、明治後の構造物も歴史的に大事ですからね──。長崎市の文化芸術ホールを造るとなるとこのままの方が都合が良いのでは──とおぼしき話をされた。不肖私は単純であるから思うのであるが、「何の
令和元年12月22日、上記見学会が開催された。私は午後2時からの説明会に参加させていただいた。県教委文化課職員氏は非常に慎重な口調で試掘経過を説明された。長崎奉行所西役所があったとおぼしき場所に立ち出島新橋の方を望むと、まさに江戸期の長崎をホーフツとさせる、その様な感覚が湧き立ってくるのである。説明員が指す石橋に沿い坂を下り、町屋を抜け、橋を渡り、出島へ渡る。小雨降る日であったからであろうか、次々とその様な情景が浮かんで来た。まさに悠久の歴史を感じるに相応しい場所であると思うの