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長崎史跡散策の特別編です以前にアップした「ケンカ坂騒動」での坂でのケンカを仲裁したと考えられる神社です今は坂の下にありますが当時は坂の上にあったらしいですだから神社の名前は「坂上天満宮」といいます(↑正面からの写真)こじんまりとしてますが創建は1733年です拝殿が正面にあり隣には稲荷神社もありましたこちらに移設したのは原爆で倒壊したかららしくケンカ坂を上ると坂上天満宮の跡が見れます(↑拝殿です)鳥居には昭和三年の文字が見られました昭和になり作り替えたた
十人町の「広済寺」と「佳江稲荷神社」から唐人屋敷跡の門へ下りますするととある標識が目に入ります「みさき道の道塚」ですここから細い横道に入りますがそこから長崎野母崎に続く道だったらしく「野母の岬に続く道」で「みさき道」と名付けられました上の写真がその道塚ですみさき塚と文字が掘られていたそうですこの道をしばらく歩くと「ピエル・ロチ宅跡」の標識です明治に入りフランスの文学者ピエル・ロチはここに居を構えて自らの代表小説「お菊さん」を執筆したそうですまたここで日本
長崎史跡散策の続きです館内町を抜けてばったり会った「森伊三次」さんの文字はなんと石作りの鳥居でした神社の名前は「住江稲荷神社」です稲荷なのにキツネに会えず本殿は歴史を感じます幾つか調べて見ましたがその歴史は解らずですどうやら菅原道真公が祀られているらしく学門の神様らしいですがそしてその隣にはお寺です「真宗広済寺」です本殿は改修中で中へ入るのは遠慮させて頂きましたかつては唐人屋敷が中国人の居住地でここは長崎十人町です日本人が居住してお寺と神社をお参りする
先日約2年ぶりに長崎史跡散策に行きました場所はここです「唐人屋敷跡」です唐人屋敷跡は館内町として住宅街になり市場もあるのですが唐人屋敷時代のお堂など残っていますお堂などは過去に何度かアップしたので今回は省きますが上の写真は唐人屋敷時代の堀の跡と堀に架けられていた橋です更に橋の説明などまた明日も続けていきますfromItsuki↑館内町の町ねこさんです
前回の松森神社から更に奥に入ります細い路地を歩いて行くと左近稲荷神社に着きます細い階段を登っていくと稲荷だけにキツネのお出迎えです(↑説明版です)説明版によると1778年の長崎古地図には「左近イナリ」の名前が確認させているそうです(↑拝殿です)ここには以前鉄砲岩と呼ばれる岩がありそこに神社が建てられたので別名「鉄砲神社」とも呼ばれてました~次回長崎史跡巡りに続く~fromItsuki↑しらゆきちゃんまぶしいです
前回の中島川から諏訪神社方面へ歩きます諏訪神社の石段から横に入ると目に入ってくるのが松森神社です正式には「松森天満宮」です以前は池があったのか橋がかかってます松森神社の創建は1640年とされてます(↑正殿です)ここの見所は長崎県指定有形文化財の「職人尽」です1713年の社殿改築の際に奉納された彫り物です同時の町人の様子を彫ったもので歴史的文化的価値も高いとされてます(↑職人尽の説明版です)ここも観光客はなかなか来ない史跡ですfromItsuki
眼鏡橋など石橋群で有名な中島川に来ました(↑眼鏡橋です)中島川に以前は現在とは違い江戸時代には水量が多く川船が浮かべられていたそうですその名残が残っています上の写真は灯籠です川船の安全を祈ったのでしょうかお地蔵様もありましたこうした場所を巡るのも史跡巡りの楽しみです~次回長崎史跡巡りに続く~↑しらゆきちゃんすみっこにいます