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神航空参謀(川津祐介)が航空部隊の派遣要請のために大本営に行くと八原高級参謀(仲代達矢)に言う。司令官牛島(小林桂樹)からの許可はすでに得ていると。*****大本営では、第三十二軍による組織的な兵の運営に疑問を持つ参謀次長の河辺虎四郎(北竜二)が本土防衛に集中すべきだと会議で述べる。一方、沖縄では、米軍をできるだけ長く足止めにするのが第三十二軍の役割であり、南下して陣容を立て直し、戦うべきだと八原が牛島と長に言う。長はすでに希望を失ったようだが、最後まで戦いを続けようと牛島が長に説く。*
6月23日が命日・忌日の有名人・著名人79年69歳没(自然死)ウェスパシアヌスさん第9代ローマ皇帝1662年(永暦16年5月8日)37歳没(マラリア)鄭成功さん明の武将、台湾の指導者1891年86歳没(?)ヴィルヘルム・ヴェーバーさん物理学者磁束のSI単位「ウェーバ」1908年満36歳没(肺結核)国木田独歩さん小説家、詩人1945年満57歳没(沖縄戦で割腹自決)牛島満さん日本陸軍大将、第32軍司令官1945年満50歳没(牛島満とともに割腹自決)長勇
沖縄戦の痕跡というのはとてつもなく多くて女学生らが動員された医務壕はそこかしこにありますし軍の司令部壕跡やトーチカ、掩体壕...民間人が避難したガマにいたっては数知れません犠牲者という点でいえば軍、民間人ともに最も多かったのが本島南部地域豊見城市から糸満市、南城市にかけてでしたいまだ、どこにどれだけ遺骨が眠っているのかわからないんですよね昭和20年4月1日沖縄中部・読谷村に上陸した米軍はその日のうちに北飛行場(読谷飛行場)、中飛行場(現在の嘉手納基地)を制圧
長勇(ちょういさむ)陸軍中将沖縄戦で参謀長として米軍に対して最後の防波堤として立ち塞がるも…。帝国陸軍の至宝沖縄戦で敢然と米軍に立ちはだかった福岡県出身の英雄福岡県糟屋郡粕屋町出身👆この山が長将軍の墓地です。👆ここから登っていきます。この墓地を見ただけで長将軍がどれほど大きな存在で福岡県出身の偉大な軍人として広く知られていることが分かりますよね‼全知全能渾身の力を振り絞って
海岸方面開口部は、有名であるこれが海外方面壕出入り口。海側になるので、南向きとなる。地図における「摩文仁方面開口部」は、ほとんど知られてない。場所はこのポイント付近であり、階段の横と思われる。このような壕があるようだが、密林状態であり、見つけるには探検が必要となる。
第二次世界大戦において、沖縄戦の事実や真実は、ほとんど知られてこなかった。これには、複雑な事情がある。戦後、78年を過ぎても、その真実や事実を知ることは、決して難しいもにではなかった。沖縄戦を学ぶにおいて、最も重要なエリアは、沖縄本島最南端にある糸満市だと私は考える。しかし、沖縄戦において糸満での戦いは、知られることは無かった。日本軍司令官牛島大将、参謀長の長勇などが摩文仁で自決。アメリカ軍司令官サイモン・バックナーが、糸満の真栄里で戦死。その1時間前には大佐ロバーツも戦
沖縄平和祈念公園/摩文仁の丘にある慰霊碑のうち第62師団慰霊碑、勇魂の碑、黎明之碑を…沖縄平和祈念公園/平和の丘越しに摩文仁の丘方面。こうやって見ると横に広い丘になっているのが分かるかと思いまする。第62師団慰霊碑第62師団戦没将兵慰霊顕彰碑第六二師団(戦時呼称石部隊)戦没将兵慰霊顕彰碑仰々第六二師団は昭和十八年六月独立混成第四、第六旅団を基幹として北支で編成され京漢作戦に偉功を奏す。昭和十九年七月沖縄第三二軍の戦斗序列に編入され仝年八月二十日沖縄本島那覇港に上陸す。戦
昭和54年吉屋信子著朝日新聞社刊〇吉屋信子1896-1973新潟市生まれ。父は内務省の役人で地方官吏を勤めていたようです。吉屋信子は小学校前に新潟市で過ごしたようです。先日NHKの番組で日米開戦時の海軍報道班の平出英夫大佐を取り上げた番組で本書の引用があり、ネットで取り寄せて読んでみました。〇長勇1895-1945陸軍中将沖縄戦で司令官牛島満とともに自決した。〇長勇は5.15事件、226事件以前の陸軍の行動派として橋本欣五郎などとクーデター未遂事件を計画した。その後は沖縄戦
昭和54年吉屋信子著朝日新聞社刊〇吉屋信子1896-1973新潟市生まれ。父は内務省の役人で地方官吏を勤めていたようです。吉屋信子は小学校前に新潟市で過ごしたようです。先日NHKの番組で日米開戦時の海軍報道班の平出英夫大佐を取り上げた番組で本書の引用があり、ネットで取り寄せて読んでみました。〇長勇1895-1945陸軍中将沖縄戦で司令官牛島満とともに自決した。〇長勇は5.15事件、226事件以前の陸軍の行動派として橋本欣五郎などとクーデター未遂事件を計画した。その後は沖