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雁回コース登山口に戻ってきた。千恵咲きの椿だと思うけど、普通は梅と桜の間くらいに咲くのではないか。う~ん、これはどうしたものであろうか。サザンカが咲いている。久しぶりの山歩きとしては、雁回山のみで歩数が一万歩を超えているので、まぁ、満足である。(オシマイ)
第一展望所にて絵を描くとしたら、なにをどう描くのだろうか?そんなことを思いながら歩いている。なにをどう描いてもいい。それが答えなのだけど、「あっ、これだ!」というのはなかなかない。ま、それはそれとして山歩きとしては、一応のところ、形になったか。お、これは植樹されたアジサイ。なんということか、季節外れの花が咲いている。おそらくは初めて咲いた花なのではないか。避難小屋に入り、腰掛けてしばしの休憩。そして持参している菓子を食べる。それがこの日の昼食のつ
久しぶりの山歩(さんぽ)は、雁回山。ブログはその4。雁回グランドコース。雁回山を南北に貫く管理道に出る。この管理道が縦走路であり、ゲートのチェーンを開ければSUV車が走れるくらいに整備されている。冬の雁回山は、花がない代わりに、色づいた葉がなかなかに変化に富んでいて、微妙にして複雑な色を見せてくれるので、心を動かされることが多く、満足度が高い。そうしてようやく雁回山第一展望所の場所まで歩いてきた。(続く)
久しぶりの山歩(さんぽ)は、雁回公園にやって来た。雁回山を歩いている。グランド裏から階段を上りきると、金峰山(一の岳)、二の岳、三の岳を望む展望所がある。階段を上っただけで軽く息が上がるのだけど、これから雁回山山頂への道が始まる。この先は、はじめ少し下るけど、後はしばらく上り坂が続く。ひと休みと水分補給をしながらゆっくり歩く。唐突だけど、雁回山の名前の由来となっている源為朝については、こちらを参照されたし。源為朝はどんな人物だったか?~九州を支配し
久しぶりの山歩(さんぽ)は、雁回公園にやって来た。雁回山を歩いている。なだらかな上り下りの道。阿蘇方面を眺める展望所から一旦坂道を下り、グランド裏のネットのある道へと進む。そうしてようやくグランド裏の山道を登り始める。これから山頂付近へと歩いてみるつもり。ずいぶん長いことやってなかった山登り。山登りというほどのことではないのだけど、それでも久しぶりに低山とはいえ、山頂を目指して歩く。階段を上る。なんだか楽しい。(続く)
久しぶりの山歩(さんぽ)は、雁回公園にやって来た。グランドを時計回りに半周するようにして森に入る。ススキや萩などの枯葉が陽を浴びて輝いている。阿蘇方面を展望する東屋からの眺め。一旦、グランドへと下る道を歩く。(続く)
10月13日(日)のことです。佐賀県伊万里市大川内町1932に鎮座します岳神社(だけじんじゃ)を参拝しました。一の鳥居から車道を徒歩で登って、次の鳥居までやってきました。次だと思った鳥居でしたが。。。おぉ~、いい感じの参道だぁ。私の好きな参道だぁこちらのブログの続きです『伊万里市「岳神社」へのアプローチアーティスティックな道でした(*'▽')』10月13日のことです。前日に宿泊したのは、佐賀県伊万里市のビジネスホテル朝ご飯まず訪れたのは、佐賀県
鍋坂城(総社市槙谷)『古戦場備中府志』は槙谷村「鍋坂城」とし、城主鎮西八郎為朝とする。『備中誌下巻』は「鍋坂城跡」とし、城主不詳とする。『中国兵乱記』は、元亀2(1571)年に尼子勢が経山城を攻めた記事に「鍋坂」を記す。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)出丸状の北七郭北六郭下がって北五郭下がって北四郭北四郭と繋がる北五郭北東腰曲輪下がって北三郭北四郭西腰曲輪西竪堀北三郭南腰曲輪北堀切北二郭主郭北帯曲輪主郭北西腰曲輪北西二郭主郭図では堀切は一つ
ご訪問ありがとうございます久しぶりに、「119の伝えたい想いシリーズ」を書いてみたいと思います「119の伝えたい想いシリーズ」とは、劇場版「鬼滅の刃」無限列車の公開二周年を記念して作られた、「煉獄杏寿郎『119の台詞』」のポストカードに沿って、私が独自に発想を飛ばして、一台詞で一記事を書くことにチャレンジしているものですこちらのシリーズは全て、命の尊厳に関するテーマで統一していますどうして、しばらくSTOPしていたかというと、煉獄さんの次の台詞がこれだったから…うむあの時の鬼だ
昔の武士の弓矢の威力が想像以上に凄い。武士の“弓矢の威力”をリアル検証!フライパンさえ貫通する映像に「アシタカの弓ってリアルやったんやね…」「そりゃ木の盾じゃ話にならんわな…」と騒然|話題|ABEMATIMES|アベマタイムズ武士の“弓矢の威力”をリアル検証!フライパンさえ貫通する映像に「アシタカの弓ってリアルやったんやね…」「そりゃ木の盾じゃ話にならんわな…」と騒然|話題|ABEMATIMES|アベマタイムズ「武士の弓矢の威力はどれほどだったのでしょう?」とい
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。肥後国の菊池吉隆(きくちよしたか)を倒した為朝らは戦で荒れた吉隆の館を建て直しました。※画像はお借りしました為朝さんは肥後国の百姓の依頼で吉隆さんを倒したんだよね建て直した館を見て為朝は満足気でした。為朝の周りには家臣の太助(たすけ)や尾張権守家遠(おわりごんのかみいえとお)や豊後国の百姓、定吉(さだきち)と平吉(へいきち)、肥後国の百姓、松太(まつた)が集まっていました。松太「為朝様、
ほい。行ってきましたー。渚の駅たてやまから東海汽船のジェット船で伊豆大島まで向かいます。出船の40分前には来い!って言われた風が強いです。伊豆大島は2つ港があって、当日の波の状況でどちらかに決まるみたい。受付し5,500円を支払ったら、風の影響で出発地が変更になったとのこと。バスで移動します。日東交通のバスだった乗る船は東京が始発らしい。あれだ!青い船だ!みんな写真撮ってました🤣座席は指定席。となりはおっさん。グングン進みます。あまり
沖の注連縄「琉球」の謎その6◆『椿説弓張月』と鎮西八郎為朝文化4年(1807年)から8年(1811年)にかけて刊行された全5編29冊からなる『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)という読本がある。『鎮西琉球記』とも呼ばれ、正式には「鎮西八郎為朝外伝」が付いて『鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月』という。曲亭馬琴/滝沢馬琴作・葛飾北斎画の読本である。この本の内容は12世紀(1187年)に源為朝が初代琉球王「舜天」になったという話だ。『椿説弓張月』『保元物語』に登場する強弓
いつも当ブログの歴史連載物語をご覧になって頂き、誠にありがとうございます。いよいよ新しい物語の発表か?歴史連載物語の次回作ですが、いろいろと検討した結果、次回作の題材は…源為朝(みなもとのためとも)おぉ!源氏の暴れん坊だぁ!平安時代末期の武将で源頼朝(みなもとのよりとも)や義経(よしつね)の叔父にあたります。身長2メートルを超える巨体であり、剛弓の使い手で恐ろしく強い武将でした。源為朝、またの名を、鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)今は為朝について調べていますので、開始
行縢山登山前後にお参りした行縢(むかばき)神社さんは西暦718年、紀州の熊野権現を勧請し建立されました主祭神は伊耶那美命、日本武尊他21柱です。平安時代末期、鎮西八郎為朝(源為朝)が九州下向の際に参拝したことから行縢神社内に「鎮西社」が鎮座されています。朝6時過ぎの社殿行縢神社さんがこんなに立派だとは思いもしませんでした。向かって左は明治期に寄贈された狛犬源為朝をお祀りしている鎮西社御朱印は置書きをいただきました源為朝が腰掛けたというお腰掛け石
「椿説弓張月」やっと読み終えました。主人公は鎮西八郎源為朝です。この本では、琉球で活躍しています。以下の論の参考として読みました。さて、1650年(慶安3年)に記された琉球最初の正史である『中山世鑑』では、琉球最初の王・舜天は源為朝の子であり、琉球は清和源氏の後裔によって開かれたと述べ源為朝来琉説を紹介しているそうです。そしてヨロンでも、「ア~ジンチェ~(按司根津栄)」は鎮西八郎為朝の子であると伝わっています。沖縄・ヨロンに残る源為朝の話は、「日琉同祖論」として解釈
お越し頂いてありがとうございますだいすきと美味しさを受け取り、楽しみ拡げまくりのありんですうさぎさんのブレスを紡いで届けてくだった明日香野さんがリブログしてくださいました✨ありんがとうございます✨ご家族へのギフトでのオーダーが続いていたのも不思議ですね。とは言え、手にされた方が「大切な方にも…」と思われるの、解ります。身を以て。ますます穏やかに健やかに愛おしい毎日をお過ごしくださいませ🌿ふふ。うさぎさん、この紙さえも宝物だそうですw前夜祭で私が当選した焼菓子詰合せ♥美味しかっ
『出張の合間の神社巡り(師岡熊野神社)~片目の鯉といのちの池~』『出張の合間の神社巡り(星川杉山神社)』『出張の合間の神社巡り(正ノ木稲荷大明神稲積神社)』『出張の合間の神社巡り(甲府の愛宕神社)~カグツチの秘密~』…ameblo.jp↑のつづき。さて、今回の出張の最終日。高田馬場での仕事を終えて、後は夕方の飛行機で沖縄に帰るだけ。最後の東京を満喫しようと向かった先は、西日暮里駅。駅を出て、すぐに階段があった。地蔵坂を登ったところに鎮座していたのは、諏方神社である。こんな
八郎は中央の役人だったが、仕事でへまをして地方へ飛ばされることになった。旅費も乗り物も用意されず、追放同然に九州へやられた。苦労して肥前の国にたどりついたが、疲れはてて動けなくなった。行き倒れになった八郎を見つけたのは地元の女の子だった。八郎を見るなり、あらいい男。上等な服を着てる、都会の人だね。困っているならうちへおいで。娘の名前はハルといった。なかば引きずるように八郎を家に持ち帰った。両親は驚いたが、八郎に親切にしてくれた。八郎は腹いっぱいごちそうになって、やっと人心地がついた。お
19日の鈴鹿関跡シンポ、オンラインに変更亀山市・三重-伊勢新聞伊勢新聞【亀山】三重県亀山市はこのほど、19日に同市東御幸町の市文化会館で「鈴鹿関跡を語る・現状と課題」と題して開催する「鈴鹿関跡国史跡指定記念...渡部暁斗、長男誕生で変わったエース団体戦にこだわった結果の銅-朝日新聞デジタル朝日新聞デジタル(17日、ノルディックスキー複合男子団体)競技場内のスプリント勝負。競り合ったドイツに0・3秒遅れて、両手を突き上げながら3位でゴールした。鎌倉殿の13人:頼
9月20日(月)敬老の日16:20快晴、日中は夏ι(´Д`υ)アツィー「本町通り」の曳山(やま)で外題『為朝の武威保元物語』「鎮西八郎為朝」解説も付いてました
23日はオオキツネノカミソリ鑑賞のため旧九州百名山の八幡岳(標高763.6m)に登りました。当初、八幡岳キャンプ場に車を停めて登るつもりでしたが、あまりの暑さに心が折れ、山頂直下の展望台駐車場まで車で上がりました。八幡岳という山名は、鎮西為朝に由来しています。(現地解説板より)八幡岳の由来この山は古地図では「日鼓山」または「日包山」と記入されている。平安時代の武将、源義家(八幡太郎)の第八子、鎮西八郎為朝が九州に来て若木村に館を構え、武道修練のため山野を駆け
先日、元寇における鎌倉武士の修羅のごとき凄まじさ、鬼畜さを物語る話をネットで読んだ。僕は昔、元寇では日本の武士たちが元の集団戦法や『てつはう』などの武器に苦しめられ、さんざんに苦戦するも二度とも神風に救われて助かったと教わった。だが実際は日本の武士がかなり元軍を押しまくって攻め入らせなかったどころか、わざわざ元の大船に乗り込んで切り込みを掛ける勇猛な武士もいたほど攻めまくっていたらしい。元寇の最初の頃、元軍は壱岐や対馬に襲来して島民を全滅させる蛮行を働いたが、この頃日本の武士たちは元軍を偵
どうも、すこっちです。(^_^)「もーいくつ寝るとGW~♪」そんな浮かれ気分もどこへやら、、、。(-_-;)気が付けばコロナ禍の嵐が吹き荒れる日本列島、というか世界中がだわね。もはや、これだけ人間を恐怖のどん底に突き落としてくれたのって、天災を除けば、まず間違いなく最近じゃあ、コロナウィルス君がトップでしょうなあ。戦争は人間が引き起こすものだけど、疫病だけはどうにもなんないもんなあ。まあ、疫病というものは今に始まったものではなく、昔から流行病というのはありました。島国で平和な
今日も朝駆け?というよりも、コマジェでお散歩してましたやっぱり中高年の朝の散歩は神社から、今日は為朝神社へと源為朝公が祀られているのですが正直な話、源氏の中でどんな活躍をされた方が知らなくて最近通勤電車の中で、「平清盛」を読んでいるのですが源頼朝の叔父にあたり保元の乱では崇徳院側で弓の名手として奮闘した鎮西八郎為朝公だったのですねちょうど来週例祭があるようで虎踊りの舞台らしきものができてました空は雲が多くていまいちだけどこのまま三浦をパトロール!!三浦海岸は早
ひとにはキャパシティがあって、人間の記憶力っていうのはもの凄い容量なのだそうですが、問題は、その記憶したものを引き出す術、というかその経路が重要なんですね。で、やはり加齢によってそういうものは落ちていくんですね。簡単にいうと、一度記憶しておいたものでも、その後、使用頻度が少ないと、必要度が下がっていき、それが若い内は良いのですが、古い記憶はどこにしまったかが不明になり、さらにその経路すら辿れなくなってしまうんですね。なので、物忘れをするようになったら、「あれあれ、あのその、なんだったっけ.
こんにちは。前回の崇徳上皇に続いて、今回はその上皇方で戦った源為朝の登場です。源為朝月岡芳年画為朝は、鎌倉時代に活躍する頼朝や義経たちの父・義朝の弟で、外見的に大きな特徴をもっていました。身長がなんと2mを超す大男だったと言われており、真偽の程はともかく背丈は相当大きかったのでしょう。顔立ちは「切れ上がった目の男」だったといいますから、まさに鬼のような顔だちだったのでしょうかね・・・戦場でも大いに目立っていたと思います。そして為朝がなぜ後世まで名を残し、我々の知るところとなっ
平成28年11月10日参拝平成28年2月17日以来です。割と早く再訪出来て嬉しいᐠ(ᐢᐢ)ᐟ車で来たから正面鳥居の写真忘れたーーー!出た、中部・東海地方ではおなじみの蕃塀!目隠しというか結界というか、お外から直接社殿が見れないようにする塀で、これはスケスケだから透かし塀とも言います。御祭神は第15代応神天皇、神功皇后(応神天皇の母君)、第16代仁徳天皇です。第78代二条天皇の御代(長寛年間1163-65)に鎮西八郎為朝が石清水八幡宮を勧請したと記録に記されているそうです。