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御霊神社(ごりょうじんじゃ)の創建年代は不詳であるが、平安時代の嘉祥三年(850年)に書かれた「文徳天皇実録」に、八十嶋祭の祭場とされた圓神祠(つぶらしんし)に始まるとされている。八十島祭は、天皇の即位礼の大嘗祭の翌年に行われた皇位継承儀礼の一つである。御霊神社の前身は圓江神社で、現在の大阪市西区靱町1丁目にある楠永神社辺りだとされており、当初は圓神社、津村神社といわれた古社であった。その後、文禄三年(1594年)に、津和野藩の祖である亀井茲矩氏が邸宅の伊津部を寄進し、船場のこの地に移された。
自分の好きな人物・作品・キャラ・事物についての独断と偏見による定義を簡潔に書いてみます。今回は鎌倉権五郎南条田中八幡宮にも祀られている。御霊信仰関連、鍛冶関連の民俗言説におけるスター祭神。
頼朝を支え続けてきた御家人というよりも重鎮の一人だった、梶原景時。嫌な奴、嫌われ者、というのが通説で、実際その通りだったらしいが、今回の鎌倉殿の13人ではやはり御家人達の間で評判は良くないものの、とことん嫌な奴という感じでも無い。梶原景時は、鎌倉幕府が出来る前から鎌倉土着の武士。もともとここは俺んちだぞ、というプライドもあったはずです。頼朝の死後、彼も頼朝の後を追う事になりますが、まずは12年前の記事を。
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今日なにげに百貨店の郵便物を見ていたらえらいもんがありましたよリヤドロの鎌倉権五郎高さ73センチ幅47センチ奥行55センチ5月下旬発売予定らしいです力紙(ちからがみ)や五本車鬢(ごほんくるまびん)仁王襷(におうだすき)も忠実に拵えてありますでもポキッ!といきそうで怖いですね(そんなん思うの私だけか?)でも顔がねぇチョッと好みでないもっと好みでないのはプライス1595000円今は円安だから6月1日以降値上がりするかもです5月の歌舞伎座
最近の雑な読書メモを、書きおこしてみました。今回は、高野信治『武士神格化の研究』から。研究篇・資料篇の2冊からなる本研究。研究篇では、日本における人神の定義・歴史性、その中での武士神格の位置づけ、天皇や神道との関係、近代戦争での思想的影響などについて述べられている。圧巻なのは、資料篇。神社庁のデータ、各自治体の史料を渉猟し、47都道府県に点在する武士を祭神として祀る神社がほぼ全て掲載されている。おらが地元の長野県飯田市南条田中八
高野信治『武士神格化の研究』吉川弘文館2018武士が神格化される歴史的背景についての研究論文と全国津々浦々、武士を祭神として祀っている神社のデータがまとめられた著作。このデータを、ほぼ一人で神社名鑑や各自治体史・神社誌を辿ってまとめたというのから、脱帽もの。わが地元の神社もちゃんと載ってる。鎌倉権五郎をとりあえず、追ってみると、佐賀県唐津市佐志にある八幡神社にて、康和3年(1101)、権五郎が九州に下向した際、石清水八幡
上記地図3のところ。長野県飯田市上郷南条田中八幡宮。平安期から五郎宮として坐していて、のち八幡が勧請、室町期に諏訪が勧請され、鎌倉権五郎・ホンダワケ・タケミナカタと異色の三柱が祀られている。国道153号線(三州街道)沿い、飯田の町からほど近く、ハザードマップ上でも浸水域や危険崩落域から離れた位置にあり、経済圏においても、災害時の減災可能性においても、最高の立地条件(?)近くに雲彩寺・経蔵寺などもあり、古くからの経済・情報流通の拠点としての機能もあ
米家泰作(2002)『中・近世山村の景観と構造』校倉書房をざっくり読んで思ったこと。本書は、山村史・村落類型に関する著者の研究論文をまとめたもの。「秘境」「後進的」とされがちな山村像について、山地利用・認識・空間的支配の歴史的過程を観ることで山村像の実態、環境史の諸相についてアプローチするとのこと。その研究のひとつとして、『熊谷家伝記』の研究が掲載されている。南北朝時代、長野県南部の山間地域天龍村坂部を開拓したとされる熊谷直貞の子孫、
船場のごりょうさん♪大阪の御霊神社の秋祭宵宮祭に行ってみました♪今年は疫病流行の社会情勢を鑑みて質素に…地味に…例年大人気のろうそくによる境内のライトアップも自粛となりとても静かな境内でした♪それでも…数名の近所の子供たちがテンション高めに走りまわっていたので…きっと毎年この宵宮祭を楽しみにしているのだろうなと…微笑ましく思いました♪夜の御本殿♪僕も…夜に御霊神社へお参りしたのはたぶん…初めてです♪
4月3日の御朱印巡りについて書きます。この日は鎌倉の神社仏閣を巡ってきました。まず最初は、鎌倉から江ノ電で長谷に移動しまして御霊神社に行ってきました~御祭神~鎌倉権五郎景正(←景政?)創建は平安時代後期。鎌倉を拓いた勇名な武将である、鎌倉権五郎を祀っている。鳥居の前に、江ノ電の踏切があります(←それだけでテンションが上がりましたw)境内には桜の木が…満開の時に来れば、さぞかし綺麗だったろうな~扁額には「鎌倉権五郎神社」と書かれています↓かなり年季が入った狛犬さん↓景正公
鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の社頭、清原武衡がおり、お家再興の祈願に大福帳の奉納額をあげに来た者を武衡の家来共はそれを目障りなりと難くせつけて皆を御前に引立てる。武衡は理不尽にも一同を成敗せよと命ずる。鎌倉権五郎景政が「しばらく」と声かけて花道に現れる。鎌倉権五郎の名のりつられぬ武衡この大福帳の問答あり、鯰坊主鹿島入道これを追い立てようとすれど歯が立たずついに鎌倉権五郎は本舞台に追って義綱を助け、紛失の国守の印と名剣も義綱の手に戻りめでたくお家再興という筋。1、万場町…8回2、北本町…4回3、南本町・
長谷駅から5分程。江戸時代から300年続く和菓子屋さん"力餅家"から、向かって右側の道に入ります。江ノ電の踏切を渡ってすぐのところに鳥居があります。創建年代は平安時代後期だと推定されてはいますが、不詳。もとは関東平氏五家(鎌倉氏、梶原氏、村岡氏、長尾氏、大庭氏)の始祖の霊を祀った神社で、五霊から転じて御霊神社と称されるようになったとのこと。後に、祭神が、鎌倉権五郎景政の一柱のみに集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれるようになりました。鎌倉権五郎景政は、平安時代後期の関東平氏の一族で、
宮前御霊神社裏には鎌倉古道があります。この道を鎌倉方向に行くとコベルコの敷地内に兜松と八ツ嶋があります。兜松については宮前御霊神社にも説明があります。
東京も銀座も徒歩圏「八丁堀」に出る幽霊…街に残る歴史の跡Yahoo!ニュース寺あって墓なし」:もともと多くの寺院があった八丁堀ですが、明暦の大火を機に「玉円寺」を残しすべて移転。玉円寺は墓を持たなかったことから、...佐賀)江下伍長の地元を訪ねてかつては銅像朝日新聞社ただ、墓があるという地元の寺を教えてくれた。のどかな田園と住宅に囲まれた、同町小松の正念寺。一角に江下伍長の墓はあった。他の墓石に紛れ...特別展「瑞獣伝来--空想動物でめぐる東アジア三千年の旅」京都・
鎌倉武士、坂ノ下御霊神社(鎌倉権五郎神社)に御礼参りに出陣いたしました!!ご興味ある方は鎌倉智士へご連絡ください。090-6513-8892info@izakamakura.jp---------------------------------------------------鎌倉もののふ隊は、平成23年(2011年)に旗上げした任意団体です。趣旨は、子どもたちに埋もれてしまった歴史や忘れ去られてしまった先人たちを伝え残すこと。ひいては先祖供養につながり、地域振興にも寄与す
ヤッホ~!帆足由美です。8月21日から始まっているこの展覧会に行ってきました。十三代目市川團十郎白猿襲名記念市川海老蔵展@日本橋高島屋S.C.本館8階ホール来年、新團十郎となる海老蔵さん。海老蔵としての最後の展覧会です。展示は、九世團十郎の筆による俳句かるた(すばらしかった!)など、市川團十郎家が継承する成田屋の品々や、貴重な資料に始まりますが、やはり「海老蔵展」ですので、当代海老蔵さんに関する展示はボリュ
長谷の灯り。甘縄神明宮の次は、御霊神社。江ノ電の踏切を渡った瞬間に、正面鳥居。↓別名・権五郎神社。御祭神は、平安時代の東北の動乱“後三年の役”で、清原氏の内紛に介入して戦った源“八幡太郎”義家に従っていたという関東“平氏”一族の、鎌倉権五郎景政。ここも、時と共にライティングの色が変化して行く。拝殿。↓拝殿斜め前には、鎌倉権五郎が弓を立て掛けたという木の切株。
今朝は年に数回の早出でした。30分違うだけで朝の空気が爽やかで一日気分よく過ごせました。でもちょっと疲れたのでドトールで一休みしながら書いてます(^^)鎌倉巡りの続きです。次に向かうのは御霊(ごりょう)神社です。地図が分かりにくくて迷子寸前で細い路地に「御霊路」の道標を発見♪そして更に小さい路地を入ると御霊神社に到着です鎌倉七福神の福禄寿が祀られてます狛犬さん♪踏切から見た拝殿掲額は「鎌倉権五郎神社」御霊神社は平安時代後期に創建され鎌倉や湘南地域一帯を領地とした