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世の中ハつね耳(に)も可(か)もな渚古(こ)ぐ阿(あ)万(ま)能(の)をぶ年(ね)の徒(つ)なで可(か)那(な)しも二階(にかい)尓(に)釣(つる)しし合図(あいづ)の太鼓(たいこ)水(みづ)尓(に)うつれバ玉川(たまがは)の波(なみ)の巴(ともへ)や艫舳先(ともへさき)尓(に)強欲(がうよく)な水主(かこ)邪見(じやけん)の舩頭娘(せんどうむすめ)可(が)歎(なげき)ハ見(み)も可(か)へらで小舩(をぶね)の綱(つな)の縄捌(なはさばき)落人(おちうど)詮義(せんぎ)尓(に)身(み)
本日の福音は、また、鎌倉右大臣(源三代将軍鎌倉殿源実朝)のお歌世の中は常にもがもな渚(なぎさ)漕ぐ海人(あま)の小舟(をぶね)の綱手(つなで)かなしもをも、思い起させてくれます。
Liveにあけくれた昨日は鎌倉右大臣のご命日でしたね実朝の描き方が好きな「鎌倉殿の13人」は好きな大河ですさて、眠さに勝てず、今までちょっと寝ていたので録画していた「光る君へ」はこれから観るのですが今年の大河は今のところ順調藤原公任の町田啓太こんな適役います?では、第四回観てきます
11月27日【世の中は】世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも鎌倉右大臣ーーーーー世の中の様子が、こんな風にいつまでも変わらずあってほしいものだ波打ち際を漕いでゆく漁師の小舟が、舳先にくくった綱で陸から引かれている、ごく普通の情景が切なくいとしい#和歌#世の中は#鎌倉右大臣
93世の中は常にもがもな渚漕(なぎさこぐ)海士(あま)の小舟(をぶね)の綱手(つなで)悲しも鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)【出典】『新勅撰集』巻八・羈旅の歌・525・源実朝「題知らず」++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++この世の中はいつまでも変わらないでほしいものよ。渚に沿って漕ぐ漁師の小舟を、引き綱で引いていく光景は、しみじみと心ひかれることだ。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□
さみだれに夜の更行けば時鳥ひとり山邊を鳴てすぐ也夏の歌郭公鎌倉右大臣家集中抜粋鎌倉右大臣実朝夜雨は闇の中、止むことなく天から降り下り、──雨音はかなたから、闇に浮かび上がるかのように、静かに寄せている。雨音の中にいる、──夜は更けてゆく。旅路にあって、──目を閉じ、眠りかけた意識の奥底にまで、雨音は寄せている。ふいに、ほととぎすの鳴く声が、濡れ落ちる黒の中、太刀のように浮かび上がる。山辺の里は雨音
「鎌倉殿の13人」では坂口泰時に片戀する設定で大好きな和歌が効果的に使われていました三谷幸喜恐るべし、と改めて思い知らされました北条泰時が坂口健太郎だったのもよかったご承知の通り3人の若きプリンスを溺愛していますが有間、鎌倉右大臣、北畠卿とそれぞれ呼んでいますその鎌倉右大臣のご命日山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも後鳥羽上皇への崇敬の念が実朝を悲劇に導いたという解釈ですから去年の「鎌倉殿の13人」は嵌りましたさて、実朝を
안녕하세요?「せめて・・・腐海をこれ以上적어도부해를더이상チョゴドプヘルルトーイサン広げない方法が必要なんだ」퍼지지않게하는방법이필요해.ポジジアンケハヌンパンポビピリョヘ「あなたもクシャナとおなじように言うのね」너도크샤나와같은말을하는구나.ノドクシャナワカットゥンマルルハヌングナ「ちがう!ぼくらは巨神兵を아냐!우리들은거신병을アニャウリドゥルンコシンビョグル
大海の磯も轟に寄する波われてくだけてさけて散るかも(金槐和歌集)われて、くだけて、さけて、とて、て、て、と連続する「て」が波の如く打ち寄せてきますそして、「散る」いいですねぇ、鎌倉右大臣源実朝は建久三年8月9日(1192)生まれ父頼朝が征夷大将軍となったのが同年7月12日なので生まれながらの将軍の子建仁三年(1203)の比企能員の変により鎌倉を追われた兄頼家を継ぎ同年9月7日に征夷大将軍宣下12歳の将軍の誕生ですその後、18歳で従三位となり昇殿を許され
みな人の名をしも呼ぶや郭公鳴くなるこゑの里を響むる金槐和歌集巻之上夏部(158)鎌倉右大臣実朝この日々、夏は高まってゆく、──夏の陽光の中、生あるものが高く天を指してゆく。──その影の深まりとともに。人々の名が、天空にひびき渡っている、──郭公の声だ。人の生が祝福されているのか、──郭公は、私の名も呼び上げてくれているのか。人の住む地上に、すべての人の名が天空の聖歌であるかのように、降りそそいでくる。陽光の中、夏の聖歌は、止ま
最後に大仏を見たのはいつ?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう去年の11月ですね鎌倉の大仏に行きました国宝鎌倉大仏風さわぐをちの外山に雲晴れて桜にくもる春の夜の月(鎌倉右大臣)
やまと哥の道、浅きに以て深く、易きににて難しわきまえる人、又いくばくもならずむかし貫之、哥心たくみに、たけをよびがたく、詞つよく、姿おもしろきさまを好て餘情妖艶の躰をよまず…承元三年(1209)、藤原定家卿が鎌倉右大臣の求めに応じた歌論書「近代秀歌」はこう始まります和歌の道は浅いようで深く、容易なようで難しい。良く弁え理解している人は何人もいません………そして、歌はどう詠むべきかという問いには詞はふるきをしたひ、心は新しきをもとめをよばぬたかき姿を
コロナ禍は常に拝もな涙そく天のお告けのつはて悲しも(世の中は常にもかもな渚漕く海士の小舟の綱てかなしも)<意味>コロナ禍は常に拝みましょうね、涙が削げてしまうほど。神様のお告げにより発せられるツバの中に含まれる新型コロナウイルスで悲しみましょう。
和本江戸貞享4年(1687)跋「鎌倉右大臣家集(金槐和歌集)」上中下3冊揃/源実朝/古書古文書/木版摺りです。32、11、15丁。半紙本。木版刷り。『データ』【書名】鎌倉右大臣家集(金槐和歌集)【巻冊】上中下3冊揃【著者】源実朝【成立】貞享4年(1687)跋
濱べなるまへの川せをゆく水の早くも今日のくれにけるかな二所詣下向に濱べの宿のまへに前川といふ川ありなが雨降りて水まさりしかば日暮れてわたり侍りし時よめる金槐和歌集巻之下雑部(701)鎌倉右大臣実朝富士は、神々の座はかなたに白く、だが人が祈る場は、いまなお遠い。──風が運ぶ潮騒は、この太刀になにを語りかけているのか。長く降り続いてきた雨に、川の流れは早い。──安らげるはずの場は、対岸にある。太刀は
九十八鎌倉右大臣世の中は常にもがもな渚こぐ海の小舟の綱手かなしも鎌倉右大臣とは、鎌倉前期、幕府の第三代征夷大将軍・源実朝(みなもとのさねとも)である。実朝は幕府開闢の源頼朝の次男。頼朝の長男・頼家は第二代将軍であったが独断専行が過ぎ、御家人達から反発を受け、頼家の後ろ盾の比企氏と、実朝を担ぐ北条氏の対立を招き、北条氏が比企氏を滅ぼし、頼家は伊豆国・修善寺へ幽閉されたのち暗殺された。これによって実朝を傀儡とする北条氏による鎌倉幕府ができあがる。実朝は、十二歳で将軍職に就くが、政
夕闇のたづたづしきに郭公聲うらがなし道やまどへる夕郭公金槐和歌集巻之上夏部(144)鎌倉右大臣実朝夏の長い日はすでに暮れ、足元は暗い。──道は遠く、歩む先を示すはずの灯火の光も、いまは見えず。──求めてなどいないと言い張っても、心の中のどこかで、求めているのだろう。──闇の中で、この身を導いてくれる光を。郭公が鳴いている。──ただ一羽、誰を呼んでいるのだろうか。日はすでに暮れ、道は遠く、いま、せまる闇
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ箱根の山をうち出て見れば波の寄る小島あり伴の者に此うらの名は知るやと尋ねしかば伊豆のうみとなむ申と答侍りしをきゝて金槐和歌集巻之下雑部(593)鎌倉右大臣実朝海辺に至り、来し方を振り返れば、青き山塊は高く、天空と向かい合っている。終わることのない旅路。──あの道を越えてきた。この身の熱は、いまだ、この身の影に宿り、──この太刀もまた熱を帯びて
みんなの回答を見る古い順にいってみましょうかこのブログではおなじみ有間皇子第36代孝徳天皇の皇子母は阿部仲麻呂の娘・小足媛18歳で亡くなった11月11日のご命日はいつも有間を思います。磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた還り見む(萬葉集2巻141)鎌倉右大臣/源実朝鎌倉幕府三代将軍鶴ヶ岡八幡宮で甥の公曉に襲われ落命26歳で亡くなった1月27日の命日はいつも鎌倉右大臣を思います。出でいなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな(
難波潟あしの葉白くおく霜のさえたる夜はにたづぞ鳴くなる霜金槐和歌集巻ノ上(326)冬部鎌倉右大臣実朝冷えた夜、旅の仮宿を出て振り仰げば、星宿は灯火であるかのように広がり、上弦の月は灯火の中、西の果てへと過ぎ渡ってゆく。ここにくり返し寄せてくるざわめきは、天空の大海からのものなのか、夜闇はるかに広がる潟からのものなのか。──旅の途上にある者たちに、なにをささやきかけてくれているのか。葦原は月明かりを受け、
肩が痛い、腰が痛いと言って遊び回っているうちに風邪をひいてしまって今日は会社でも熱でぼぉ~昼休みに会社近くの病院行って明日はお休み頂きました今日は早くに寝ます今日は鎌倉右大臣のご命日
源実朝・暗殺の背景・その時歴史が動いた”出ていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春をわするな””大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも”源実朝源実朝(みなもとのさねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男[注釈1]として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長す
貴族と武家の友達同士の歌二首です。藤原定家をやまとうたの師とした2人の青年に対する定家という図式です。No.93世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも鎌倉右大臣三代目鎌倉殿、源実朝の歌です。源実朝については、特に申し上げることはないと思いますが、源頼朝の次男。頼朝の長男の頼家が北条氏的にいいように使えなかったので、病気をいいことにウソの報告にて実朝を三代将軍に就任させ
流れ行く木の葉の淀むえにしあれば暮れてののちも秋は久しき水上落葉金槐和歌集巻ノ上(325)冬部鎌倉右大臣実朝秋は逝くか。季節の境界に立ち惑う午後。風の中、冷えゆく川を見やれば、木々から落ちた葉は、小舟のように水面を流れてゆく。だが、川の流れの淀みの中に入り込んでしまえば、出ることもできなくなる。──木から落ちた葉は、たまたま、その淀みに向かっただけなのだ、──意志によってではなく、導かれて。日々、──ど
令和改元5月1日の百人一首は九十三鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」(世の中はいつも変わらずありたいものよ渚こぐ漁師の小舟の綱手ひくさまのおもしろ眼の奥に焼きつけておきたいほどのおもしろのさてまた哀しい人のいとなみ)令和の時代も戦争のない平和な時代でありますようにお祈りいたします。もうすぐバラの季節香りを飛ばし幸せに酔いしれたい前に
人力車、乗ってみたい?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようあれ、先に行ってくれれば鎌倉の街、何台も人力車走ってましたよ乗りはしませんでしたが。ということで朝から鎌倉行ってきました昨日のうちに行くところ決めていたので本当にスムース長谷駅から由比ヶ浜へ鎌倉海浜公園(坂ノ下地区)ありゃ、暗くて全く見えませんねぇ百人一首にも選られている和歌世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも由比ヶ浜の穏やかな海とともにそこから歩
建久三年3月(1192)、後白河法皇が崩御し同年7月、後鳥羽天皇は関白・九条兼実の薦めにより源頼朝を征夷大将軍に任じますその翌月に将軍の子として生を受けたのが千幡です比企能員の変後、元服前に征夷大将軍宣下鎌倉幕府三代将軍となり、元服して実朝「実朝といふ人は三十にも足らずでいざこれからという処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年もいかしておいたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存じ候」(「歌よみに与ふる書
前回まではこちら⬇️目次諸行無常の世の中…我は北条泰時(ほうじょうやすとき)が妹、竹子(たけこ)です。1218年12月、源実朝(みなもとのさねとも)様は右大臣に任じられました。源実朝百人一首で鎌倉右大臣ってあるけど実朝さんのことだね。政子(まさこ)様や御台所の信子(のぶこ)様、執権・北条義時(ほうじょうよしとき)らは喜びました。泰時は相変わらず三浦氏(みうらし)の家臣、伊原光吉(いはらみつよし)のことが気になっていました。そんな泰時に私からの文が届きました。それは泰時が知りたか