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道の駅「おおむた」から昼から雨ということなので近くの観光はやめて佐賀へ。雨に日は①コメダ珈琲②ジム③ラーメン④お風呂が我が家のルーチーンです。今日は、有明海を見に「有明海展望台」へここは地名はありませんし、展望台とも書いてませんが検索するとでます。沖にノリの養殖棚があるのですが、これを見る限り有明海かどうかわかりませんね。ムツゴロウは見れません。有明海はだだっ広い以外にノリの養殖棚がある以外は、よくわかりません。満潮の時のようで、干潟も見れませんでした。
旧例をもちだす家老を一蹴以前”大名の意見<家来の意見”で、岩瀬忠震が「家臣を制御できる大名は、水戸斉昭、鍋島閑叟、島津斉彬、山内容堂だけ」と言った話を紹介しましたが、前回紹介した『想古録』にそれを示すエピソードがありました。鍋島閑叟が第10代佐賀藩主に就任したころのできごとです。閑叟は毛利の殿様が家老にたしなめられて意見を変えたのとは違い、家老たちをやり込めて自分に従わせました。(読みやすくするため現代仮名づかいになおし、一部漢字を平仮名にして、句読点とカギ括弧「」をおぎなってい
佐嘉酒造の酒蔵新築工事1期が竣工して、蔵開きが行われました。この酒造会社のルーツは1688年にさかのぼり、336年の歴史があります。「窓の梅」というお酒の銘柄は、鍋島直正公が命名されたそうです。「佐嘉」というブランドと併せて、新たな発信拠点が完成しました。コロナ禍で宴会も減り、造り酒屋も厳しい時代が続いていましたから、こういった新しい施設の完成だったり、酒蔵ツーリズムなどによって、佐賀の誇る日本酒が盛り上がる一つの契機になればと思います。上京しましたが、羽田空港着陸間際に横浜のベイブ
個人的に佐賀県が好きです。歴史的な街並みも保存され季節の移ろいも街中で感じられ季節のイベントも多い。自然も多い(ほぼ自然?^_^)大隈重信など佐賀の七賢人を輩出しているにも関わらず完全にお隣の福岡県とは異なり発展せず47都道府県の中で好感度は下から数えた方が早い。そんな佐賀県、私は好きです。🎎🎎🎎🎎🎎🎎🎎🎎3/2土曜日佐賀城下ひなまつりに行って来ました。桜のシーズンに佐賀城下をぶらぶらしたことはあるのですが。鍋島直正公の像がある駐車場に車を停めました🚗ちなみにこちらの駐
佐賀漫遊2日目。かつて、肥前国の中心だった城址へ。県庁や図書館等が集まる佐賀市街中心、龍造寺氏とその後継の鍋島氏の居城跡があります。◆佐賀城◆(佐賀県指定史跡・日本100名城)鯱の門・続櫓(国指定重要文化財)門と続櫓は天保9年(1838)の再建。明治時代初期に起こった士族反乱、佐賀の乱の戦火を免れて現存する貴重な遺構。この地は戦国時代に龍造寺氏が治め、大友宗麟との激しい攻防戦を繰り広げました。その後継の佐賀藩祖・鍋島直茂が天正年間(1573
次の千円札のモデル、北里柴三郎記念館に寄りました。熊本県ですが阿蘇郡小国町北里というところにありました。ここには北里文庫という、博士が私財を投じて設立した図書館があるんですが、博士は北里文庫の北里は、自分の名前ではなく地名のことだと仰っていたそうです。映像で博士の生涯、功績を紹介してわかりやすかったです。建物が改修中でネットがかかっていて残念でしたが、内部に上がって見ることも出来ました。今の一万円札の福沢諭吉が北里を支援したこともあったそうですが、このおふたりはお札
こんにちは今日もよいお天気です昨日は太宰府天満宮の梅を見に行きましたが今日は地元佐賀の梅の名所へ佐賀の皆さんはご存知でしょうね『高伝寺』へ行ってきました高伝寺はとても歴史が深く龍造寺、鍋島両家の祖霊の里とされています国内最大の大涅槃図もあるそうですよ堂内の写真撮影は禁止されていましたそれはそうですよね重要文化財だらけですものね今日も自然や文化に触れ心穏やかに豊かに過ごしていますよい1日をお過ごしください
幕末佐賀藩が最強武装中立国だった所以です。まだお堀に向かって放ってるのは見たこと無いです。
思い過ごし?か、…とは思うが…(・_・;)佐賀には(=^・^=)なぜかネコが多い?平気で他人の車の屋根に登るし…やはり、この⬇影響なのか?(⊙_◎)なべしま。なにかと全国区ではあるのだが…ニャンとも微妙だな(ΦωΦ)フフフ…
おはようございます昨日の雨も上がりやっぱりお庭は散らかっていました雨と風が凄かったですもんね~今日はまたとても良いお天気の予報さてさて連休中に佐賀市内にある神園公園へ行ってきました子ども遊園地は県外でも知られているのでは。。ここはとても歴史の深い場所なんですよ鍋島直正公の別邸として造られ神園のお茶屋って呼ばれていたそうです綺麗に管理されていて素晴らしい場所でした神園公園は春は桜の名所として知られていて皆さんはそちらのイメージが強いですよね私も以前はそうでしたが
幕末の藩主鍋島直正まつる佐嘉神社90年企画展佐賀10月11日12時25分幕末の藩主鍋島直正まつる佐嘉神社90年企画展佐賀|NHK佐賀県のニュース配信より幕末の佐賀藩の藩主、鍋島直正をまつる佐嘉神社がつくられてことしで90年になるのを記念する企画展が佐賀市で開かれています。佐嘉神社の隣にある佐賀市の徴古館で開かれている企画展には、佐嘉神社の所蔵品や鍋島家に伝わる品々、69点が展示されています。佐嘉神社は、佐賀藩の10代藩主・鍋島直正と11代藩主の鍋島直大をまつるため
佐賀でのコンサートは夜だったので、昼中、佐賀市をプチ観光してきました。佐賀は観光地としては温泉と焼き物の産地、吉野ヶ里遺跡が有名ですが、今回、半日しか時間がとれなかったので、佐賀市内の施設を回りました。佐賀市は知る人ぞ知るバルーンフェスタ(11月上旬)が行われる地。そして、なんとバルーンミュージアムがあります。入館料500円。熱気球(バルーン)を日本で初めて作った人の物語、バルーン競技について、バルーンのしくみ等、勉強になります。館内の様子も、楽しい感じがします。映像を見ながら、競
あんにょん!今日は暑さも緩んだ模様。ひところの暑さはどこかへ行ったみたいです。朝ドラ「らんまん」を観ていた時寿恵ちゃんが渋谷でお店を開くため偵察に行ったらお姉さんたちが何やらお菓子を食べています。好奇心旺盛な寿恵ちゃんはお菓子の名前を聞きました。すると「丸ボーロ」と言われます。ポルトガルから広まって佐賀藩のお殿様、鍋島直大が職人も連れて持って来られたそうなんです。お~今日は「らんまん」を観て良かったわ。朝ドラで佐賀の「丸ボーロ、鍋島藩」が放送されるなんて夢にも思わ
タカミツヨムノシハナマダ(龍造寺高房)鍋島勝茂光茂綱茂吉茂宗茂宗教重茂治茂斉直直正直大直映直泰直要直晶
佐嘉神社、境内社の続きです。佐嘉荒神社火事除け災難除け、一家安泰の神様です。昔の家庭にあった竈を再現した大竈松原恵比須社宝くじ当選の守り神「当たり恵比須」として人気を集めているそうですよ😆✤願掛け玉寶宝くじが当たりますように。たくさんの人に撫でられてピカピカですね✨松原稲荷神社お稲荷様は、稲の豊かな実りを守る神様。家内安全、商売繁盛のご利益を頂くことができます。松原河童社佐賀の地にはクリークと呼ばれる灌漑・生活用水としての水路が巡らされています。松原河童社はこの地域の水
バルーンミュージアムのほど近く、佐嘉神社にやってきました。佐嘉神社佐賀県佐賀市松原2丁目佐賀鍋島藩10代藩主直正公と11代藩主直大公をお祀りする神社です。明治6年、鍋島家の祖先を祀る松原神社に南殿を造営して直正公を奉祀しました。昭和8年、現在地に佐嘉神社の社殿を造営し、直正公の霊を遷座。別格官幣社に列せられます。昭和23年に、同じく南殿に祀られていた直大公の霊が合祀されました。立派な木製の鳥居です🤔鳥居を潜ると「佐賀の七賢人」の碑「稀代の名君」鍋島直正公の功績につい
https://news.yahoo.co.jp/articles/46a57c6a6896cb15b16b10b3b19c064fe01fdb3b本日で佐賀玉屋デパートのレストランが閉店だそうです。昭和の風景がまた一つ消えてしまいました・・・。残念ながら本日再訪問は無理だったので、2018年佐賀幕末維新博覧会時にランチで訪問した記事を再掲いたします。メインステージでの体験を終えて、お昼を食べに街中へ繰り出すと、どこかで見た顔が・・・・。おお、これは市村記念体育館前
友人のfacebook投稿で、司馬遼太郎の「酔って候」という本の紹介があり、4つの短編が納められたうちの一つが「肥前の妖怪」。鍋島閑叟(直正)公の生涯を幕末政変の観点から書き綴られている。手持ちの司馬遼太郎短編集9に納められていたので、お昼の散歩の前にちょいとひと読み。そこには「葉隠」「大隈重信」「アームストロング砲」「二重鎖国」などのキーワードと共になぜ「薩長土」から「薩長土肥」となったが閑叟公の深慮遠謀と共に描かれていた。佐賀リテラシーの一つとして読んでおくのも悪
だいぶ日にちが過ぎてしまったけど一度記事にしながら消えてしまったPIW佐賀公演に行ったときのプチ観光の備忘録。。。すでにけっこう忘れてるけど😅頑張って思い出します💦もともと旅行が好きなんだけどここ5年ほどはフィギュア絡み、ショーマさん絡みの遠征のときの隙間時間にプチ観光を楽しむスタイル。多少、観光面が消化不良になるのは仕方がないのですがしばらくはこんななのかなと思っております。必然的に大阪や名古屋など大都市に滞在する頻度が高いので佐賀のようなローカルなとこ
結構以前の話になるが、京都一人旅をしていたある夜高瀬川沿いのとってもオシャレな日本酒バーに入り(どんなにお値段が高くても一杯くらいだったら払えるだろう。。)と思い、「いちばんのオススメのお酒を出してください😊」と言ったら出てきたのはなんとーーー!!私の住む福岡県の隣県佐賀県の日本酒『東一』でした!えー!京都に来て佐賀なの?と思いましたが、佐賀にはいい酒がいっぱいあるのだと教えてくれました。その話を大阪に住む友人にしたところ、「そうなのよー。うちの人も佐賀のお酒が大好きで
佐賀藩はうごかずに様子をうかがっていた前回まで薩摩藩主島津斉彬と佐賀藩主鍋島直正(閑叟)の交流について書いてきました。斉彬の急死がなかったら、薩長同盟よりも強力な薩肥連合が構築されていたことでしょう。しかし、斉彬が亡くなったことで直正もやる気をなくしてしまいます。「明治維新の中核となったのは薩長土肥」とはよくいわれますが、肥前つまり佐賀藩が朝廷側にくわわったのは戊辰戦争の途中からです。国中が朝廷派と幕府派に分かれて混乱していたとき、雄藩のひとつである佐賀藩は中央政
アンニョンハセヨマインのブログにお越しくださりいつもありがとうございます(*ˊᵕˋ*)⸝💕✨先日書いた佐嘉神社参拝のあとのことですが初めて佐賀城に行ってきました佐賀城跡は佐嘉神社から車で5分もかからないところにあったんです今まで場所さえよく知らなかったのですがパパが仕事の途中で車で通りかかりこんなところにこんなものが!?・・・となったらしく早速足を運んだ次第です佐賀藩10代藩主鍋島直正公が迎えてくましたちゃんと前から撮ったんですけど逆光で・・・鯱の門↓↓
佐賀プチ旅行2日目まずは宿泊した東横インにて朝ごはん無料でついてきた朝食にしては良いかなブログ的には色味が寂しいですが(^O^;)お味もおいしかったです朝食会場でいただけるコーヒーをお部屋に持って帰って、少しのんびり普段、朝から活動しないのでちょっとボーッとしながら(笑)観光に向かいます佐賀城跡↑鍋島直正公の像があったり↑何かとコラボしているマンホールがあったり↑門は表裏どちらから見ても立派でした↓佐賀城本丸歴史館中は写真を撮って良いのかわからず、外側だけ思っていたよ
人付き合いは正反対斉彬はとびきり人づきあいがよかったようです。馬廻役として斉彬に仕えた本田孫右衛門は、斉彬のことを、「お大名には珍しいほどの交際家でありました」とかたっています。【本田孫右衛門「島津斉彬公逸事問答数條」『史談会速記録第169』】江戸で生まれ育ち、藩主よりも自由に動ける世子時代が長かった斉彬は、さまざまな人たちと交際していました。長州藩毛利家で藩主敬親(たかちか)の側近だった竹中兼和(たけなかかねかず)は世子時代の斉彬のことを、「そのころの大名たちにとって
ものごとの決め方は正反対前回、「斉彬と直正は考え方もよく似ており」という話をしましたが、教育制度で説明したように全く逆のこともありました。そのひとつが、ものごとの決め方です。斉彬は相談して決める何かを決まるにあたって、斉彬は多くの人の意見を聞いて判断していました。斉彬と親しかった宇和島藩主の伊達宗城(だてむねなり)は、明治21年に伊達邸を訪問した島津家事蹟調査員の寺師宗徳(てらしむねのり)に斉彬のことをこのように語っています。決して独断専恣(どくだんせんし
甲冑は武士のシンボル?斉彬と直正は考え方もよく似ており、旧来の慣習にとらわれず、すぐれたものであれば進んでそれを取りいれました。そのわかりやすい例が甲冑です。甲冑は古くから武士の戦支度に欠かせないもので、弓矢や刀槍で戦うときには防具として役立ちますが、鉄砲の弾を防ぐことはできません。しかし江戸時代は戦がなかったので、実用性がなくても武士のシンボルとして大事にされていました。たとえば徳川慶喜のインタビュー記録である『昔夢会筆記』にはこのような記述があります。
江戸時代は「鎖国」ではなく「海禁」だった島津斉彬と鍋島直正は学問の奨励以外でも共通点がたくさんありました。そのひとつが外国貿易へのスタンスです。江戸時代イコール鎖国の時代というイメージがありますが、外国交際がまったくなかったのではありません。日本史の授業で習ったように、江戸時代においては長崎の出島でオランダおよび中国(清)との交易があり、そこから外国の情報が伝わってきました。鎖国といっても外国との付き合いを一切断っていたのではなく、日本人が海外に行き来することを禁じてい
ともに人材育成に力を注ぐが方法は正反対斉彬と直正は、藩の工業化をすすめるとともに人材育成に力を注いだということで共通しています。その結果、薩摩では松方正義や五代友厚、佐賀では大隈重信や副島種臣など、たくさんの優秀な人物が生まれました。しかし、人材育成という目的はおなじでも、その方法はまさに正反対でした。藩士たちを勉強させるために、斉彬はアメをあたえ、直正はムチをふるったのです。斉彬の教育改革嘉永4年(1851)の2月に藩主となった斉彬は、3月に江戸を立ち、5月に
近代化のリーダーは従兄弟幕末、世間が攘夷を叫んで西洋を排斥しているとき、そのような動きに背を向け、西洋の進んだ技術をとりいれて近代工業国家をめざした藩といえば、佐賀と薩摩が双璧でしょう。それをリードしたのが鍋島直正(閑叟)と島津斉彬です。意外と知られていないのですが、この二人は従兄弟になります。どちらも正室(本妻)の子で、母親は鳥取池田家6代藩主の池田治道(いけだはるみち)の娘。鍋島家に嫁いだのは次女の幸姫、島津家に嫁いだのが四女の弥姫(いよひめ)です。斉彬
佐賀県在住の転勤族会社員で妻、長女(中2)、次女(小4)の4人で暮らしています^^育児絵日記を描いてます小さな日常を大げさに描いてます我が家の日常を楽しんでもらえれば幸いです^^大友宗麟。(おおともそうりん)皆さんはこの人物を知ってますかおそらく我が地元の大分県人であれば誰でも知ってる、というくらい大分では有名な人です。大友宗麟は北九州の6カ国を支配した戦国時代の大名でキリスト教に傾倒したキリシタン大名です画像はお借りしました。ある時。キッカケ